十七葉・手紙⑥
大学受験の始まりは、中学の時のそれほど、絶望的なものではありませんでした。
公立高校と言っても、県内では進学校の部類に入る高校。その中でも、成績は常に真ん中以上の位置をキープしていたので、進学先には充分な選択肢がありました。
ただひとつ、大きな問題がありました。
目標が無かった。
体裁が整えばあるいは、と近くの国立大学を暫定的な目標に据えたものの、それでもやはりやる気が満ちるということは無くて。
焦り求めるほどに、思いは自分の将来から離れ、それがまた余計に焦りを誘いました。
甘えだとわかっていても、どうにもならなかったのです。
そんな時、手を差し伸べてくれたのは今度もまた君でした。
君が同じ大学に行こうと誘ってくれたから、僕はまた立ち上がろうと思えました。
君が未来を指し示してくれたから、僕はまた顔を上げることができました。
放課後の教室、図書館の机、職員室前の自習スペース……。
僕たちは、色んなところで机を並べて勉強をしましたね。
いつも僕の左隣に座る君。ノートの上でシャーペンを縦横無尽に走らせるその左手。頬にかかり顔を隠す色の薄い髪の毛。薄い青色のカーディガン。
その時に覚えた公式はすっかり忘れてしまったけれど、君と過ごした時間だけは今でもかすかに僕の中に残っています。
やがて夏休みが来て。
どこかに遊びに行ったり、事件に巻き込まれたり、あるいはロマンチックな事があったり……そんなラノベみたいな事は起きないまま、夏は終わりました。
ただ、君と二人で毎日のように机を並べ、勉強に励んでいただけ。
ラブコメなんか起きる要素は無いはずでした。
ただ二人で勉強して、お昼ご飯を食べて、また勉強して、そして一緒に帰る。
ただそれだけの毎日。
……それだけだったのに。
夏の終わりの、ふとした帰り道。
穏やかな黄昏の中で、いつものように隣り合って語らいながら歩いていた時のこと。
僕の靴紐が解けました。
「先歩いてて。すぐ追いつく」
何を思ったか、僕はそう言いました。
君も、何も言わず数歩先へと進みました。
ほんの5秒。
靴紐を結んで顔を上げたそこに、君が振り返っていました。
空には雲が微かに流れる、橙の世界。
町を鮮やかに染める夕陽の陽ざしの中で、半身で僕を振り返る君は輝いていて。
まるで、天女のように見えた。
思わず見惚れました。
無限のような一瞬。
その瞬間に、僕は
それは、夏の終わりの夕暮れの中でのことでした。
人は変わります。関係も変わります。
たとえ相手をどう思っていようが、人と人との関係はうつろい変容し、決して僕たちは僕たちのままではいられない。
その事はわかっていたけれど、一方で、君にだけはそうした感情は持つはずが無いと思っていました。
なのに。
次の日から、その当然だと思っていたものがあっけなく塵と化してしまいました。
なにをしていても君の事ばかりなのです。
授業中も自習中も、休み時間も、帰り道も、家にいても、いつも君のことを考え、君のことを想っていました。
僕は怖かった。
その思いが君を傷つけやしないか、あるいは君との日々を終わらせやしないか。
そして、その想いを抱いた自分のことも怖くて、そして許せなくなっていきました。
君は大切な……何よりも、誰よりも大切な『親友』でした。
その親友に、そうした目を向けるなんて、到底許されることじゃ無い。
断じてそんな想いは認めるものか、と。
――親友からそんな目を向けられて、彼女がどんな思いを抱えるかということくらい、想像はつきましたから。
もう、大切な人を傷つけたくなかった。
傷ついた大切な人の去っていく背中を、見たくはなかった。
でも、言えないと思うほどに想いは大きく重くなっていきました。
必死で違うと言い聞かせて、周囲の問いかけにも首を振って。そうするたびに余計大きくなっていくその想いは、やがて誤魔化しの効かない本物の気持ちになっていました。
この想いを伝えたい。
いつ伝えよう、どう伝えよう。
そんなことを考えるようになった矢先の、十月も終わろうかという頃のことでした。
「彼氏ができたんだ!」
いつもの図書館、いつもの窓際の席に座るなり、君は跳ねるような声音でそう言いました。
「先輩なんだ! 前から憧れてた人だったからとっても嬉しい!」
弾けた君の笑顔は、皮肉にも僕の今まで見てきた中で一番綺麗で、可愛いらしく、そして明るいものでした。
恋する少女は美しい。誰が言ったか、その言葉を思い出しました。
君は、その日の放課後中、ずっと自分の話をしていました。
その惚気話を聞いている間、僕は息が出来ませんでした。
きっと凄い顔色で凄い顔をしていたんだと思います。でも、君はきっとそれに気づいていなかったと思います。
だって、僕に話しかけている間、君の目は僕のことなんか全く見ていませんでしたから。
帰り道、いつものように一緒に帰ろうとしてくる君を押しとどめて、僕は一人で帰路につきました。
黄昏に染まる街並みを一人で歩くのは久しぶりのことでした。
ぼんやりと滲むその景色に、ふと金木犀が香りました。
涙が、こぼれました。
冬の終わり。
僕はまたしても志望校には手が届きませんでした。
後期試験でなんとか引っかかった大学は遥か東方、僕の生まれた場所にほど近い街。
僕と同じく志望校には一歩及ばなかった君は地元の私大に行くと言ったから、ここで初めて僕らは袂を分かつことになりました。
中学の一年から高校の三年生まで。
六年間、ずっと同じクラスでそばに居続けた君と離れ離れになるのは、なんだか不思議な感じがして現実味がありませんでした。
でも君は、元気だった。
だって進学先は彼氏さんの通う大学だったから。
そりゃ、元気にもなるだろう――正直、そんなひねた思いもありました。
彼氏と友達は違う、なんて当然のことも分からないくらいに、失恋の衝撃が大きかったのか、あるいは子供だったのか。
強がって笑っていたんだろうなって、今なら思います。
でも、手慣れたはずの笑顔の取り繕いは、なんだかとても難しくて、苦しくて、悔しくて。
とても、我慢のできるものではなかった。
だから、でしょうか。
君との六年間を、放り捨てるなんていう選択をしてしまったのは。
ただ僕は、久しぶりのひとりぼっちに、感情の置き所が分からなくなってしまいました。
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