十六葉・私と君と僕と。

僕がまだ「私」だった頃。

「私」の周りには「おともだち」がたくさんいた。

「けいちゃん」だとか「ことちゃん」だとか、幼稚園で出会った「おともだち」の事は名前で呼んで、みんなで遊んでいた。

「私」にはそれがとても楽しくて、そしてそんな「おともだち」との関係は明日になっても続いているものだと思い込んでいた。

でも小学生になると、その日常は霞のように消え失せてしまった。

「おともだち」はみんな「女子」か「男子」に分けられて、そこで初めて自分の所属というものを意識するようになった。

「私」は、「女子」というグループだった。

「おともだち」の半分は「男子」というグループで、「私」とは区分けが違っていて。

でも、まだ男女で分けられただけなら良かった。問題はその後に来た。

遊びさえも、男女で分けられるようになってしまったのだ。

小学生というものは面倒なもので、幼いうちは男女入り混じって遊んでいても、一度何かに分類されてしまえば、それに不適格なものは自身のグループから排除してしまう。

「ここにいるみんなとは、性別が違う」。

ただそれだけのことで、性差なんてものもほとんどないうちから、男女バラバラで遊ぶようになった。

きっとそれは、普通のことなのだろう。

成長にしたがって起こる、当然の区別なのかもしれない。

だけど、そのころの「私」は、それがとても嫌だった。


「私」は性別というものを一種の枠組みとして以上には捉えない子供だった。

ジェンダーとかセックスとか、そんな難しい話ではなくて、ただ男の子だろうが女の子だろうが、友達は友達。苗字が「田中」や「佐藤」などひとりひとり違うのと同じように、性というものを捉えていた。

男女の垣根なく、みんなといつまででも仲良くいたかった。

だから、小学校の高学年になっても、「私」は男の子と遊び続けた。

女の子と遊ばなかったわけじゃない。

女の子たちともたくさん遊んで、同じくらい男の子たちとも遊んだだけだ。

男の子の一部には「女のくせに」と言われることもあったけど、気にしなければなんということもなく、これまで通りに一緒に遊ぶことが出来た。


潮目が変わったのは、確か小学五年生の秋頃だったと思う。

ある頃から、物が無くなったり、持ち物に汚れが付いていたりするようになった。

はじめ、「私」はそのことをあまり気にはしなかった。

ぼんやりとした子供だったし、ガサツな性格だったから、特に気にはならなかったんだと思う。


ある日のこと、トイレに入っていると喧しい声が聞こえてきた。

同じクラスの女の子達だった。

彼女たちは、「私」の話をしていた。

気に食わない、という話だった。

それから彼女達は、これまで「私」にどんな意地悪をしてきて、これからどんな意地悪をするのかを話した。

ゴミ箱に入っていた筆箱、靴箱に散らばる濡れた落ち葉、教室の端に落ちていた体操袋。

これまで偶然だと思っていた事象の数々が、全て気に食わない「私」への刑罰だったのだと知らされた。

そして、刑の執行者達は「私」の罪を――気に食わないところを再びあげつらね始めた。

男子にいい顔ばかりしている、男子に媚を打っている、男好き、ビッチ……。

やがて、たっぷりと言いたい放題を言い終えて彼女達が去った後、「私」はトイレの個室の中でたくさんのことを考えた。

次の授業が始まり、そして終わったことにも気がつかないまま、「私」は考えた。

いろいろ考えて、そしてようやく「私」は一つの結論に手を伸ばさざるをえなくなった。


――もう、男の子には関わらないでおこう。


それきり、「私」は男子とは距離を置いた。

友達が半分になるだけだと思っていたら、四分の一になった。

男の子と女の子のうちの幾人かは、どうやら意中の異性と仲良くなるために「私」と話していただけだったらしい。

目的が達せれば「私」は用済みだったのか、或いは急によそよそしくなった「私」への当て付けか……みんな、あっという間に「私」の周りからいなくなってしまった。


「私」は、何も思わなかった。

頭には何も浮かばなくて。

ただ、胸の奥から湧き上がろうとする何かは胸でつっかえて、息が苦しくなった。


それきり「私」は、男の子と話さなくなった。

内面が変わったわけではない。

男の子も女の子もなく、ただ「友達」と話したかった。

でも、周りがそれを許さなかった。

だから、「私」はそれに従った。

そうしていれば、やがて「私」の周りには平穏が戻ってきた。

でも、一度回り始めた頭の中の騒乱は、治まらなかった。


「私」は考えた。

人との関わり方、人からの視線、そして自分の在り方。

たくさん考えて、考えるほどにその思考は内向きになった。

考えることが悪い訳ではない。ただ、考える方向性はこの頃から間違っていたと思う。


友達は、いた。

四分の三が消えたからといって、それでも「私」と友達でいてくれる人は何人かいたし、彼女たちと関わる時間は楽しかった。

でも、頭の中は荒れたままだった。

相変わらず思考は斜め上の方向に飛ぶし、考えた末に思い浮かぶ事はやっぱり正しくないと直感で分かるもので。

でも、だからこそ、「私」はその「正しくはない」考えに取り憑かれて、絶望するようになってしまった。

自分の「正しさ」に自信が持てなくて、自分の「正しい」とは違うところに「正解」があるような気がした。

それはまるで、男女の区別を乗り越えようとした自分を否定しようとしているかのようだった。


小学校を卒業した後、「私」は引っ越した先でも同じように過ごすつもりだった。

もう面倒なことに巻き込まれたくない――修学旅行でのこともあって、すっかり拗らせていた「私」は、そんなことを思って春休みを過ごした。

大人しくしていれば、それなりの人生でいつか終わりを迎えられる。自分の子供じみた「友情」への幻想に固執して、またあんな面倒にかかることは二度とごめんだった。


なのに、「私」のその想いは入学式の日にぶち壊された。

小野おの孝太こうた

隣の席だったこいつが、「私」に話しかけてきたのだ。


彼は、窓辺の席だった。

窓から差し込む陽光に、キラキラと輝く彼の笑顔を見ていると、胸の奥がなんだかキュッとした。


「私」ははじめ、孝太くんを避けていた。

嫌いだったわけではない。

むしろ、彼の在り方には出会ってから一週間もたたないうちに、すっかり絆されてしまっていた。

彼は隣の席だということでよく「私」に話しかけてきた。「私」がどんな態度を取ろうと、彼は彼のペースを崩さなくて。

そんな一貫した姿に、冷たい態度を取る表情の下では焦がれていた。


仲良くしたかった。

孝太くんのことをたくさん知りたかった。

でも、出来なかった。

小学校のころの出来事が、頭をよぎったから。

男子と話せば、女子からは疎まれる。

恋愛だとか、友情だとか、くだらない区分けに流され竿されて、傷つき傷つけるのはもう嫌だった。

そして何より、あの明るい笑顔に惹きつけられるような「私」自身の心模様が、怖かった。

彼のそばにいれば、大きく変わってしまうような「私」の中の何かが怖かった。

だから、何度話しかけられても、「私」は素っ気ない態度を取り続けた。

そんな態度を取るたびに少しずつ溜まっていく胸の奥のチクチクに耐えて、耐えて、耐えながら。


中学一年生の秋。

「私」と孝太くんは、再び隣同士の席になった。

今までも同じ班になるくらいに近い席になることは、何度かあった。

というか、「かわづ」と「おの」で苗字が近いから、大抵の行事や席順では彼の近くになっていた。

でも、きっちり隣の席に座るということは入学したばかりの頃以来だったから、私は嬉しいような緊張するような、そんなモニュモニュとした気分と、またそっけない態度を取らないといけないのかという罪悪感に漬け込まれていた。


その週末の掃除の時間。

僕ら二人は教室で出たゴミを屋外のゴミ捨て場へと持っていく役割を振り分けられた。

孝太くんがゴミ袋、「私」はゴミ箱をひとつ持って、夕陽の下を歩いていた。

孝太くんは、相変わらずよく喋る人だった。

いつもニコニコとしていて、まるで電球のような人。

そんな孝太くんに、いつものごとく素っ気ない態度を取っていると、彼はいきなり口を閉ざして足を止めた。

思わぬことに一拍遅れて、彼を振り返ると、彼の顔は見たことのないくらいに暗くなっていた。


「やっぱり、僕のことが嫌ですか?」


寂しげに、悲しげに、小さく、か弱く。

その思いもしない彼の様子に、「私」は思わず固まった。

それを肯定と捉えたのか、孝太くんは「私」の手からゴミ箱を取って、背を向けた。


「ごめんなさい。多分、また俺は無自覚に無神経なことをしていたんだと思う。きっと、嫌な思いをさせたんだよね。本当に、ごめんね」


彼の言った嫌な思いなど、記憶になかった。

無神経なことをされたこともないし、むしろ謝るべきことをしてきたのは「私」の方なのに。


なのに、彼は謝罪の言葉を口にして、歩き出した。

そこにあったのは、見たこともないくらいに小さな背中。

思わず「私」はその背中を追いかけて、彼の手を取っていた。


「……」


――どうして、謝るの?

――どうして、あなたが謝るの?


そんな思いは言葉にならなくて。

言葉にできない分だけ、ただ彼の手を両手で握りしめていると、彼が口を開いた。


「……僕は、君と友達になりたかった。あの入学式の日に隣になった縁もあるし、河津さんと仲良くなりたかったんだ」


――私と同じだ。


そう思った。

だから。


「……ごめんなさい。今まで、そっけない態度を取って、ごめんなさい」


言葉が素直に出てきた。

今まで溜めてきた分の「ごめんなさい」が、何度も何度も人気のないゴミ捨て場に響いた。


それから「私」は、今までずっと抱えていた自分の思いを生まれて初めて人に話した。

男女関係なく人として友達になりたかったこと、でもそのせいで嫌な目にあったこと、それから男の子には距離を置いてきたこと。

何から何まで、すべてを孝太くんに曝け出した。

彼は優しくて、どんなことでも全部受け止めてくれた。

何も言わずに、ただ「私」の言葉を受け止めてくれた。

だからだろうか、いつしか胸のチクチクはどこかに消えていた。

夢にまで出てきた、あの意地悪をしてきた女の子たちの顔も、急に輪郭がぼやけていった。


「ねぇ、孝太くん」

「ん?」

「友達に、なってくれませんか?」


気がつくと「私」は彼にそんなことを言っていた。

厚かましいことくらいわかっていたけれど、でも、その衝動を我慢出来なかった。


そして、彼はそれを受け入れてくれた。

嬉しかった。

こんなにもハレバレとした気分になったのは、随分と久しぶりなことだった。


「あ、でも、同じことになっちゃうかな……」


でも、現実問題として、昔の出来事を一気に忘れることができたわけでもない。

小学校の頃のあの出来事は、まだ僕の中に確かな禍根を残していた。

でも、その悩みに一つの道を示してくれたのもまた、孝太くんだった。


「それだったらさ……こういうのはどうかな? 『ボクっ娘作戦』、とか?」

「ボクっ娘?」

「うん。一人称を『ボク』にするんだよ。そういう人って少なくないし、『ボク』って言うことで性別がニュートラルに感じる……ような気がしない?」

「分かんないけど……」


でも、試してみるのは面白そうだなって思った。

昨日までの「私」を捨てるという意味でも、新しい門出になるような気がしたから。


かくして、僕は「僕」になった。

そして、ボクっ娘作戦は存外「成功」と呼んで差し支えのない結果をひき出してくれた。

男の子と話していても、女の子からの嫉妬はほとんど無かったのだ。

それどころか、『ボク』という一人称が女子の間で流行りはじめ、一年の終わる頃にはクラスの半分がボクっ娘になるという事態まで起きたりもした。


そのクラスの中で、「僕」は夏波たちのようなかけがえのない友達を手に入れた。

そして同時に、「親友」もできた。

周りを照らしてくれる彼がいる限り、その明かりに照らされて「僕」はどこまででも歩いていけるような気がした。

彼は、「僕」にとって特別だった。

友達も、恋人も、ともすれば家族すらも超越するような存在。


「僕」はその関係を、「親友」だと言って憚らなかった。


*    *


『兄は、あなたのことが好きでしたから』


同じ台詞が、頭の中をぐるぐると回る。

一人きりの駅のホーム、千代さんの言葉が脳裏から離れてはくれなかった。


孝太くんのことは、ずっと好きだった。

友達として、恩人として、彼のことを大切に思っていた。

そして、それは孝太くんも同じだと思っていた。

僕のことを恋愛対象として好きだという素振りを、彼は1ミリも見せなかったから。

スカートが夜風にはためく。

まだ少し冷たいその風に、僕は少し首を竦めた。


――もし、告白されていたらどうだったのだろうか。


ふと、そんな疑問が浮かんだ。

僕は受け入れたのだろうか、それとも疎遠になっていただろうか。

しばらく考えて、それから電車の入線する音に思考を中断する。

答えは出なかった。


ガラガラの座席に腰を下ろし、背面のガラス窓に頬をくっつける。

微かに曇る窓の外を、街の灯りが流れていく。

やがて母校が見えてくる。

真っ暗な校舎がちらりと見えて、それからブラックアウトする車窓の景色。


「あ……」


そこに映る一人の女は、少女のような表情をしていて。

その顔を見た途端、ストンと腑に落ちるものがあった。


「あぁ……」


――そうか。


「『僕』だから、駄目だったんだ」


――「僕」だから、「私」の想いに気がつかなかった。


「はぁ……」


ため息をつく。

つまるところ、「僕」という一人称は僕の意思を示すものではなかった。

その一人称は、言うなれば周りからの悪意に備えた鎧であった。

周囲に備え、他者との関わりを第一に考えたものであって、そこに映るのはただ虚像のみ。

僕が「僕」と名乗る時、そこに「私」はいなかった。

それは、ある種のペルソナであり、自分自身を殺して生きているということと、ある意味では同義だったのかもしれない。

そして、その鎧はいつしか僕にとっての重石、僕を縛る枷になっていた。

僕は「僕」である限り、自分の心は押し殺して、「男女関係なく仲良くしたい」という夢を抱いた子供のままであるしか無かった。

思春期を迎え大人になる中で、自分が異性への友情とは言い難い感情を抱いているということに気がついていながら、「僕」であるためにはそんな自分の想いを押し殺し、他者の思いを遮光して接することしかできなかった。

「僕」はそのために生まれたものだったから。

そして、僕はその「僕」を捨てることができなかった。


きっと、「僕」であることをやめたなら、話はもっと楽だったかもしれない。

でも、それだけは、出来なかった。

だって、「僕」は親友がくれたものだったから。

かつて怯えていたモノクロの未来に、足を踏み出す勇気をくれたもの。

「私」は、あの時確かに救われた。

「僕」という鍵が、あっさりと「私」をあの息苦しい世界から出してくれたのだ。

そんな、かけがえのないものを、放り出すことなんてできなかった。


――いや、ひょっとするとその一人称に救われたからではないのかもしれない。


それは、彼がくれたものだったから。

性別と友情の間で迷う僕に、彼が示してくれた一つの道だったから。

僕は「僕」を捨てられなかった。

捨てたくなかったんだ。


ガタンと音を立てて電車が止まる。

慣性で体が少し揺れて、それで僕は現実に立ち返る。


「あぁ、もう着いたんだ……」


呟いて、それから立ち上がった。

その拍子に、またあの言葉が耳を打つ。


――兄は、あなたのことが好きでした。


「僕は……」


――私の義姉になってくれたら……。


は、どうしたかったんだろう……」


友情というベールの奥底に押し込んでいた感情。

それが自分でもはっきりとは分からなくて。


ただ、手紙の続きを読みたかった。

ただ、無性に彼を感じたかった。

ただそれだけを思って、僕は電車のドアが開くのを待っていた。

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