十五葉・千代の別れ

平日夕方の駅前は、まるで浜辺のようだ。

一定周期で寄せては返す波のように、人だかりが改札から溢れては拡散し、また溢れては消えていく。

二月も、今日を含めてあと二日。

三寒四温の中で、まだかすかに残る冬の気配に肩をすくめる人々をぼんやりと眺めていると、なんだかこちらまで肌寒く感じて、僕は腕を抱いて目を閉じた。


数日前、弟は大学入試の二次試験を終えた。

手応えはあるらしい。

そんな弟から連絡がきたのは、一昨日のことだった。


僕に会って欲しい人がいる、と。


詳しいことは何も教えてくれなかった。

ただ、「会えば分かる」の一点張り。

仕方がないから聞き出すことを諦めて、僕は指定の時間に指定の場所へとやってきていた。

丁度、弟の高校の卒業式の日の夕方。

指定されたのは高校最寄りの駅だったから、たくさんの制服姿が流れてゆく。

見慣れた制服。

かつて僕が纏い、親友が纏い、そして今日まで弟が纏ってきた制服たちが駅へと吸い込まれていく。

そんな中、一人だけ立ち止まって人を待つのは少し気まずいものがあった。

手持ち無沙汰にキョロキョロと辺りを見回すばかり。

こんなことなら手紙を持ってくればよかったと少し後悔した。


* *


高校時代のエピソードを読んでからこの二日間、僕は一度も手紙を広げていない。

弟との久々の電話に少し盛り上がって長話をしてしまい、次の日も丸一日が予定で潰れていたということもあって、結局手紙は読めていない。

優衣との呑みの席から、僕は全てを受け止めようと思って手紙を読んでいた。

けれど、それまでとは打って変わって幸せの香りのするその内容に、僕は正直意外というか、悪くいうと拍子抜けするような心待ちだった。

心に余裕が持てている、とでも言い換えるべきか。弟の唐突で無茶な呼び出しにも応えることができたのも、その心のあり方が大きい。


「……そういえば」


手紙といえば、で思い出した。

僕と親友が通い、そして今日まで弟が通っていた学校の最寄りの駅。

ここに来るのは、あの葬式の日以来だ、と。


あの日は雨だった。

予報では晴れだったのに、僕らが参加した告別式の丁度中盤ごろから、雨が降り出して。

そんな中、封筒が濡れないよう、大切に胸に抱き込んで守っていた女の子がいた。

僕に、封筒を渡してくれた女の子。親友だった彼の、妹さん。

彼女は元気だろうかと思った。


「おーい!」


ぼんやりと駅の改札を眺めていると、あらぬ方向から声をかけられて飛び上がる。


「久しぶり。一ヶ月ぶりくらいだね」


そこには、憑き物の落ちたような表情の弟が立っていた。


「卒業おめでとう。そして、受験もお疲れ様」

「受験の方は、結果が出るまでまだ宙ぶらりんって感じだけどね」


そう言いながらも少しさっぱりとしたような弟に頬を緩める。

と、そこで初めて隣に立つ人影に気がついた。


「こちらは……?」

「この子が会ってほしいって言ってた人だよ」

「あぁ……この人が……」


僕は頷いて、その人に目を向けた。

弟と同じ学校の制服。

黒いセーラー服の胸には弟と同じく、卒業生のための花が飾られていた。


「ご卒業、おめでとうございます。いつも弟がお世話になってます」

「ありがとうございます。こちらこそ、生前の兄には格別な思いやりをかけていただいて、本当にありがとうございました……」

「兄……?」


思わぬ言葉に思わず弟を振り返ると、彼は小さく頷いた。


「そう。こちらが会って欲しい人。孝太くんの妹の、小野おの千代ちよさんだよ」


* *


「突然お会いしたいなんて、無理を言ってすみません……」


弟の紹介が終わるなり、千代さんはすぐさまそう言って頭を下げた。


「本当は、私の方から直接お伺いをたてるべきかと思ったのですが……あいにくと連絡先を存じ上げなかったので……」


礼儀正しい、素敵な女の子だった。

元気と明るさで僕らに接してくれた親友とは違い、物腰柔らかく所作の一つ一つが丁寧。

なのに、どこか彼を思わせるその空気感は懐かしくて、そしてどこか嬉しかった。


「ショウマくんにも、無理言ってごめんね」

「いいよ、お礼なんて。俺はただのメッセンジャーだから」


そうだよね、と弟は僕に目を向けた。

かっこいい感じに答えてはいるが、本当にこいつはそれ以外に何もやっていない。

色々と言いたいことはあるものの、それらを腹の底に飲み込んで、少女へと目を向ける。


「千代さん、その……お話の前にまずは心からお悔やみを……」

「いえ……」


深く頭を下げると、妹さんも同じく頭を下げた。


「兄のことは……仕方なかったのだろうと今では思っています。お気を遣わせてしまって、ごめんなさい」


寂しげに、けれども気丈に微笑む少女の顔に、胸が痛くなった。


「……それで、小野さん」


頃合いを見て、弟が口を開いた。


「俺たちに話したいことがあるって……」

「あ、うん。そうだったね。ありがとう」


近いような遠いような、微妙な距離感の二人の会話。

それに僕は思わず待ったをかけた。


「あの……その前に、二人はどういう繋がり……?」

「あ、説明してなかったっけ?」

「私たちは同級生です。二、三年生の二年間、同じクラスでした」

「孝太くんのことも、小野さんが知らせてくれたんだよ」

「そうだったんだ……」


大学生になってから、僕と親友の連絡は途絶えてしまっていた。

今度のことも、弟が教えてくれなかったら優衣と同じようになっていたと思う。

その弟が、どのようにその情報を得たのかは知らなかったが、今の話でようやく納得ができた。


「ショウマ君はよくうちに来てくれていましたし、同じ高校に通っているということも知ってはいたのですが……今までなかなか話す機会がなくて」

「小野さん、結構すごい人だから。文武両道才色兼備で、男子の間では人気者……だから俺も、今までちょっと気後れしてたんだ」

「そんなこと……ショウマ君も多才だし、私なんて……」

「あるんだよ。……こんな風になりたいっていう目標だったし、負けないように頑張ろうって思ってた」

「そ、そうなの……かなぁ。…………ありがとう」


赤面して顔を伏せた千代さんに、僕は「おやおや」と内心でニヤける。

うちの弟もなかなかやるではないか。『才色兼備』なんて、本人を目の前にしてなかなか言えないものなのに。

と、身内びいき全開で考えていると、千代さんは「ともかく」と咳払いをした。


「兄が亡くなってから、ショウマ君にはこうしてとても気にかけていただいて……それなのに、一度もお礼を言えていなかったなって、思ったんです」

「そんなこと……」

「それに、お二人には兄が生前とてもお世話になったことも知っていますから……そのこともあわせてお礼をと思って……」

「いや、お礼なんて……むしろ僕の方が言いたいくらいですよ」

「そうだよ」


僕とショウマは思わず言葉を重ねる。

でも、それを気にすることもなく、千代さんは頭を振った。


「それでも……それでもせめて、私からだけでもお礼をしたくて……」

「そうですか……」

「それに、お願いしたいこともあるんです」

「お願い……?」

「知りたいんです。兄が、どんな人間だったのか……」


千代さんの目が、すぅっと遠くなる。


「私は、いつも遠くから兄を見ているだけでした。兄が友達と遊んでいる時も、楽しそうにショウマ君と話している時も……そこに加わりたいと思いながら、私の足はいつも動かなかった。一歩が踏み出せないまま、私は置いていかれてしまいました。だから最期くらい、兄と、兄に近しい人との会話に入ってみたいんです……」


それは、どうしようもない後悔だった。

いつかの僕が抱えていた「気づいてあげられなかった」という後悔や、親友が抱え続けた「自分のかつての行為」に対する後悔。

そうした、ただ自分と向き合って消化していくしか道のない、まるで地獄の業火のように身と心を焦がされるものを、彼女もまた胸に宿しているようで。


「心苦しい限りではあります。いつもいつもお世話になるばかりで、兄妹そろって迷惑をおかけしてばかり……でも、こんな私のわがままを……どうか、聞き届けてはいただけませんか?」


そんな想いを胸元で握り締めていた少女の手は、いつしか痛いくらいに真っ赤になっていて。

それはどれだけの想い、どれだけの願いなのだろうか。


彼女だってわかっているはずだった。

彼女の願いの通り、彼の骨の前で思い出話を語ろうと、自分の後悔が解決するわけではないということくらいは。

でも、分かっているからこそ、なおさら遣る瀬無く行き場のない想いなのだろう。

それは、ある意味で呪いとも呼べるような代物で。


それを、僕は受け止めてあげたいと思った。

その苦しみと後悔を他人にこぼす事がどれだけの意味を持っているのかは、よくわかっているつもりだから。

だから何もできなくてもせめて、願いだけは掬い上げてあげたいと思った。


彼にしてあげたかったように。

彼にしてあげられなかったことを。


「……あの日、僕に封筒を手渡してくれましたよね? 中身は、ご存知ですか?」


何も知らない弟が「封筒?」と首を傾げる隣で、千代さんは小さくかぶりを振った。


「いえ。私は祖母から遺品として預かったものをお渡ししただけです」


その答えに、僕は顔を伏せる。

まぶたの裏に浮かぶのは、あの日の景色。

雨の葬式。

一切の感情を伺わせない表情で、封筒を渡してくれたその目を思い出した。


「……僕は、あなたのお兄さんのことを何も知りませんでした」

「……」


僕の言葉に、少女は真っ直ぐな目のまま頷く。


「いつも明るい、電球のような人だったから……その光ばかりを追いかけて、その中心で燃えるものに気がつかなかった」

「……」

「彼と会えなくなってから、たくさんのことを知りました。彼の想いや、友人達の目に映っていた彼の姿、彼らの抱えていた彼への想い……」


彼が抱えていた悩みも、彼が抱えていた後悔も、そして彼が恋をしていたことも。


「知らないことが新しく出てくるたびに、自分が彼のことを何も知らないような気がして。どうしようもないと分かっていながらも、やるせない思いが積み重なって、苦しくて……」


僕の言葉に、千代さんがギュッと目をつぶった。

その仕草に、胸の奥が痛くなる。


「きっと……千代さんもそんなふうに感じることがあったのではないですか?」

「……はい」


微かな、しかし確かなその答えを聞いて、僕は頷いた。


「それを……どうにかできるだけの言葉も思い出も、僕の中にはありません。もしかしたら、僕の話を聞くことであなたは失望してしまうかもしれません。でも……それでも、良いと……僕が見てきた姿だけでも良いと言ってくださるなら……それをお話しさせていただきます。いや、話させてください。そして――」


そして……そして。


「……聞かせて欲しいんです。千代さんが見たお兄さんの姿、僕の知らない彼の姿を」


頭を下げたその先で、少女の息が小さく震えた。


「…………ありがとう……ございます……」


ただ一言。彼女のその言葉に顔を上げると、少女は頭を深々と下げていて。

それきり、彼女はしばらく頭を上げなかった。


* *


昔から、線香の匂いが大好きだった。

大好きな祖父母の家はいつも線香の香りがしていた。

線香は、大好きな祖父母の家の匂い。

だから、僕は線香の匂いが大好きで、そしてその香りは僕にとって幸せの代名詞でもあった。


その香りが、今日はやけに鼻につく。

遠慮がちに響くおりんの音も、一寸の揺れなく輝き続ける蝋燭の灯りも、仏壇に飾られた親友の笑顔も、その全てがむせ返るような煙の奔流に流されて、僕は溺れてしまいそうになる。


--きっと、この線香の香りそのものは、「幸福」を示すものではないのかもしれない。


その情動の洪水の中で、僕の脳裏にそんな思いが閃いた。


煙に乗せて、人は今は亡き者に「彼岸では幸せになって欲しい」と想いを手向ける。

その愛に満ちた故人への想いを、僕はおすそ分けされていただけのことなのかもしれない、と。

その背景を知らないからこそ、僕はその愛や祈りのカケラだけを感じ取って、温かく幸せなものだと感じていたのかもしれない。

そうでなければ、説明がつかなかった。

今この部屋に拡がる線香の香りが、こんなにも悲しくて仕方ないということに、納得ができなかった。


「……兄は、いつもあなたの話ばかりでした」


さっきまで手を合わせていた仏壇に置かれた、白い布に包まれたものを見ながらそんなことを考えていると、声が耳を打った。


「僕……ですか?」

「はい」


間抜けな質問を返して、それに真面目な顔で答えられてから、僕は少しだけハッとする。


こんなことじゃダメだ、と。

何のためにここまできたのか、と。

ぼんやりと関係のないことを考えている場合ではないだろう、と。


でも、頭の片隅でそうは思っても、頭の残りの部分と心がいうことを聞いてくれない。

招かれるままに親友の家にあがり、そして彼が入っているという布に包まれた小さな箱を見て、僕は僕が何をしようとしていたのか分からなくなった。


そこに、親友がいる。僕よりも背が高くて、誰よりも大きく感じられたあの存在が、今は両腕で抱えられるほどの袋の中の箱に入っている。

そのことが、まるで夢か御伽噺のように感じてしまって、目に見える世界もさっきから遠くなったり大きくなったりと定まらなくて、僕はただぼんやりとすることしかできなかった。


「いつも、家ではあなたのお話ばかりでした。本当に楽しそうに語る学校の様子に、私たち家族はいつも目を細めていたんです。母も、いつかお会いしてみたい、と」

「そうでしたか……」


この家の近くまで来たことは何度もあった。

けれど、家にお邪魔したことは一度もなかったし、彼の家族に会ったことも無かった。


「ショウマくんはよくうちに来てくれていたけどね」

「いつも、お世話になっていました」

「いえいえ。でもね、いっつも男二人で何話してるのかなーって思ってた。毎度、すぐお兄ちゃんの部屋に消えるからさ」

「まあ、男の浪漫について語り合ってたっていうか……ね?」


弟は誤魔化すように笑って、それから「それにしても」と僕に目を向けた。


「孝太くんにいつも語られていたらしいよ」

「どうしてそんなにニヤニヤするんだよ」

「あっはっは! いや、カッコいいイメージのあった孝太くんにも、俗っぽいところがあったんだなって思って」

「お兄ちゃん、カッコよかったのかなぁ……?」


明るく笑うショウマに、千代さんが困惑の表情を浮かべた。


「私には、なんていうか……ちょっとダサかったっていう印象があるの。いつもおちゃらけていて、余計なことばっかりしてちょっかいをかけてくるっていう……」

「へーー! やっぱりいいお兄ちゃんだったんだ」

「今の話のどこが!?」


目を輝かせるショウマに、千代さんがツッコミを入れて、それから首を振る。


「……正直、兄のことをそんな風に言ってくれる人は少なくありませんでした。でも、私はそんな姿を知らないんです。だらしなくて、ふざけている……そんな姿しか知らなくて」

「孝太くんって、だらしなかったの?」

「うん。脱いだシャツは脱ぎっぱなしだし、机の引き出しの中はぐっちゃぐちゃ。数学とか英語なんかよりも、先ずは整理整頓の四字熟語を勉強して欲しかった」

「んー、俺が行く時はそんな印象もなかったけどなぁ」

「誰かが部屋に上がる時はいっつも片付けてたんだよ。で、お客さんが帰ると途端にぐちゃぐちゃ。むしろ器用だって、いつも家族で笑ってたんです」


そう言って困ったように笑ってから、千代さんは僕に目を向けた。


「兄のことは……たとえ逆立ちしてもかっこいいとは思えなかったんです」

「……俺にとってみれば、孝太くんは何でもできる人だったんだけどなぁ。ゲームも上手いし歌も上手、勉強も出来て、話も面白い。そんなイメージだから、ダサいイメージが掴めないんだよ」


僕の代わりに弟が言葉を返すと、千代さんは呆れたようなため息をついた。


「面白いっていうか、おちゃらけてるだけでしょ。私、そういうところとか、ホント嫌だった」

「手厳しいなぁ」

「だってそうでしょ? 大学生になってもイマイチ垢抜けない感じとか、部屋の掃除も出来なかったし、洗濯物も畳めなくて。そういうだらしないところが嫌だった!」

「ぷふっ!」


静かに二人の話を聞いていたのに、我慢できなくなってついに笑い声が漏れた。


「なんだか面白いね。二人の話すイメージが全く違うだなんて」


二人の会話が淀んだ時の流れを元に戻してくれたようで、僕の心は少しだけ楽になった。


「千代さんは、お兄さんに手厳しいんだよ」

「むしろショウマくんの評価が高すぎるだけよ」


そう言って、千代さんは仏壇に目を向けた。


「……兄を知る人はみんな、兄を褒めてくれました。でも、その言葉を聞くたびに私は皆さんが羨ましく感じました」

「羨ましく?」

「私も見たかったんです。兄の……かっこいいところを」


その声音に、ハッとした。


「……お兄さんのこと、本当に大好きだったんだね」

「……」


微かに、でも確かにコクリと頷いた彼女に、身体から少しだけ力が抜けた。


「……あいつはカッコつけだったからね。僕たちには、弱いところを見せたくなかったのかも」

「そう……なんですか?」

「うん、きっと。彼が見せてくれるのは、いつも明るくて前向きな姿ばかりだった。弱くて後ろ向きなところは、一切見せなかった。だからこそ僕たちには、あなたのお兄さんがとっても強くて、そして魅力的に思えたの」

「……」

「でもね、最近知ったんだ。彼は決して人並み以上に強い人じゃなかったんだって。僕たちと同じくらい、いや、時には僕以上に弱虫で後ろ向きな人だったんだって」

「手紙……ですか?」


千代さんの問いかけに頷いて、僕は天井を見上げる。


「なんでも知っていると思ってたから……僕は悩みました。知らないことがあまりにもたくさんあって、でも今更どうすることも出来なくて。……僕だけが、彼のことを何も知らなかったんじゃないかって、お葬式からしばらくの間は暗鬼を疑心するような思いだったんです」

「あぁ……」


ハッとする千代さんに、頷く。

それは千代さんの『知りたい』という想いの奥底にあるのと、似たもの。

でも、僕はそれに自分では気がつくことが出来なかった。

手紙を読むまでは、彼のことならなんでも知っていると思い込むような傲慢さで、何も分かっていないことに気がつくことさえ出来なかった。

その点で、彼女は違う。

千代さんは自分で気づき、悩んできた。

僕よりもずっと長く、そしてずっと深く。

ずっと一人きりで。


「あ……そっか」


そして、僕は思い出す。

僕のやるべきこと……それは、これだった。

勇気を出した彼女に、手を差し出すこと。

彼の家に上がり、彼の変わり果てた姿を見て、動揺して、忘れかけていたこと。

僕が何かできるとは思わないけれど、それでも僕はせめてと、彼女の想いを抱き寄せる。


「……きっとね、人は大切な人の近くに行くほどに、不安になるんだと思う。近すぎて、全体が見えなくなる。近いからこそ、細やかな陰影に目がついて、見えないものも増えてしまう……」


--まるで山のようだ。

話しながら、そう思った。

遠くから見る山と、登って分かる山。そばに住んで見える山と、それを見るためにわざわざ足を運んでようやく見える山。

同じ山でも、そこへのアプローチが違うだけで、見え方は全く変わる。

遠ければ登山道や植生は見えないけれど、山体の全容は見えるし、えぐれた崖の位置も大まかに知ることは出来る。

そして近づけば近づくほどに、登山道を彩る木々のざわめきや川の流れ、岩の形を知ることは出来て……そして見えていたはずの山の全景はもちろん、山影に隠れた険しい崖のことも見えなくなってしまう。


きっと、人も同じなのだろう。


「だから、目には映らないそこに、自分が知ることのできなかった『本当の姿』があるように感じてしまう」


『本当の姿』。

それは、形のない幻想だ。

でもいつしかその幻想に囚われ追い求めて、僕らは自分の見てきた姿が霞んでいくことに気がつかない。


誰かの語る言葉にその影の正体を求めて、自分の見てきた姿を歪めてしまう。

この間までの僕が、そうだったように。


「きっと、ひとりひとりの見える世界が違うように、彼の見え方はそれぞれに違う。そして、その全てがきっと彼の本当の姿なんだと思う。僕の見てきた彼の姿も、ショウマの見てきた姿も、千代さんが見てきた姿も」

「……」

「だから、知っていることを大切に抱きしめて。知らないことに囚われないで。他人の語るお兄さんの話は、あなたの中のお兄さんを色付けるものではあっても塗り替えるものにはしないで」


結局、隣の芝は青いというやつなのかもしれない。

自分の知らない一面が羨ましい、自分では見ることのできなかった一面を知る他人が羨ましい。

もう二度と取り返しがつかないからこそ、その想いはより一層募る。

自分が見てきた面が偽物であるかのように感じるのだろう。


そしてそれは、僕も同じだった。

悟ったようなことを口にはしながらも、僕自身が未だ整理のつかない想いを残している。


だからこそ。


「だから、僕の話を聞いて……そして僕にも教えてください。僕の知らない、お兄さんのお話を」


だからこそ、人は語り聞こうとするのだろう。

否定し傷つけた心の中の故人の姿を、自分の言葉、他者の言葉で優しくコーティングし直す。

ひび割れたその虚像を、他者の言葉で金継ぎしていくように。

そうして、摩耗した心の中の姿をもう一度確かなものとして捉えていく。


それから僕たちは、たくさん話をした。


「兄はいつも私の手を引いて歩いてくれました」


幼い日のこと。


「学校ではどんな時でも明るい人でね」


学校での様子。


「家ではいつも、学校のことを話していました」


家での姿。


「聖人ではないけど、友達が困っていたら理屈抜きで助けてくれる人だった」


彼の、好きなところ。


「出来ることをやらないところ! めんどくさがりなところ!」


治してほしいところ。

それからーー


「……もっと話を聞いてあげたら良かった。聞いてもらうだけじゃなくて」

「もっと甘えたかった。お兄ちゃん、お兄ちゃんって……」


誰にもいえなかった、後悔まで。


千代さんはアルバムを持ち出してきて、僕は高校時代の彼の写真をスマホの中から発掘しながら、僕らはたくさん話した。


彼は、救われていたらしい。

中学の頃、どんなに酷い顔をしていても、学校での話をし始めると、途端に元気になったのだとか。

その頃の兄が何を抱えていたのかは幼い自分には図ることが出来なかった、と千代さんは言った。

分からなかったけれど、兄が苦しんでいることだけは分かった、と。

でも、その苦しみも、僕の話がいつも吹き飛ばしてくれていたーー。


「だから、私はいつも思っていたんです。お兄ちゃんのそばには、素敵な人がいるんだなって」


千代さんはそう言って、泣きながら笑った。


「兄は、きっとその女神さまに救われていたんだろうって」


その声を聞きながら、僕は仏壇の遺影に目を映す。


彼が手紙に記していた悩み事。

そのことに僕は気がつかなかったし、その解決のために手を差し伸べることなんて出来なかった。

でも、彼は確かに「僕」との関わりの中で救われていたらしい。


「あ……」


その瞬間、視界が歪んだ。

頭痛や胸の痛みもなく、ただ唐突に。


「あぁ……」


視界が、歪んだ。


「あぁぁ……」


涙が湧き上がる。

それは、今まで流してきたものとは全く違う涙で。

後悔でも、悲しみでも、罪悪感でも、怒りでもない。

ただ純粋に、僕は小野孝太という人間の親友として、彼の死を悼む涙を流していた。


ふと目をあげると、千代さんも泣いていた。


「ありがとう……ございます……。兄のために涙を流してくれて。本当にありがとうございます」


泣きながら何度も「ありがとう」を繰り返す千代さんに、僕は首を振る。

その言葉は、僕のものだ。

親友として、初めて「親友」の死を悼んであげられた。

そのことに、感謝しかなかった。


それからまた、たくさんのことを話した。

今度はお互いのこと。

いつしか僕は、千代さんのことを妹のように思うようになった。

たくさん話をして、たくさん笑って、そして泣いて……やがてお別れの時がくる。


「今日は、ありがとう」

「いえ、こちらこそありがとうございました」


お仕事に出ているという親御さんには、結局挨拶が出来なかった。


「また、うちに来て下さい」

「うん。ありがとう。千代さんも困ったこととかあったらすぐに連絡してね」

「はい!」


はにかむ笑顔で、彼女は元気に頷いた。


「すっかり仲良くなったね」


半分茶化すような、でも半分は嬉しそうな弟の言葉に、千代さんはえへへと頬をかいた。


「実は……ずっと思ってたことがあるんです」

「思ってたこと?」

「はい。私、ずっとあなたのことを女神さまみたいに優しい人だろうなって思っていて……そんなあなたが姉になってくれたらって、ずっと思っていたんです」


思いもしない言葉に、僕は思わずポカンとしてしまった。


「僕が……姉?」

「いや、まずは女神にツッコミなよ」


弟が半笑いで繰り出したツッコミを無視して首を傾げると、千代さんは少し頬を染めてうなずく。


「それってどういう……?」

「えっとですね……」


子供じみた想いですけど……と恥ずかしげに顔を伏せて、千代さんは呟いた。


「兄は、あなたのことが好きでしたから」

「え……?」


固まる僕に、千代さんは続ける。


「妹だから分かっちゃうんです。本人は多分気がついてなかったけれど、兄はあなたのことが大好きだった」

「……」

「兄の好きな人で、そして女神さまみたいに優しい人……そんな、ショウマくんのお姉さんが……河津かわづ郁乃ふみのさんがいつか私の義姉あねになってくれたらって、ずっと憧れていたんです」

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