十四葉・手紙⑤

高校時代は、僕にとっての春でした。

望み通りとはいかない進学先でしたが、その割に僕はそこでの生活を楽しむことができたと思います。

受験生という長いトンネルをくぐり抜けたことで、小学校の頃の罪や中学校の頃の自分の行いから少し距離を置くことができ、冷静になれたのかもしれません。


この頃の僕は、心身ともに最も安定していました。

それは、高校にあがる直前の春から始めた朝のランニングの効果もあったのかと思います。

「健全な精神は健全な肉体に宿れり」

そんな言葉はきっと半分正解なのでしょう。

ランニングは自分との対話です。

頭はブレていないか、呼吸のリズムは一定か、腕は触れているか、身体の軸はズレていないか、腰は落としているか、足はしっかり前へと運べているか……そして何より、もう一歩先へと心は奮い立つか…………。

足だけでなく身体全体、そして心に至るまで、自分の全てと向き合うことが出来る運動なのです。

それをするようになってから、僕は僕を確かなものとすることができました。


友人が最も多かったのもこの頃だったのではないでしょうか。

全てが充足していました。

全てが成熟していました。


そんな充実した高校時代。

その中でも君は、格別な存在でした。


高校一年。

僕は親友である君と片時も離れることなく一緒にいましたね。

学校の席はいつもそれなりに近くて、放課後も一緒に帰ったよね。

周りの人たちにはいつも「恋人かよ」って茶化されて、それでも僕達はいつも一緒に居続けました。

心地よかった。僕らを茶化す雑音すら、心地よかった。

君の心の中までが見通せるようで、純真な友としての最高の関係だと思っていました。

それは、幾年月を越えて続くであろう、かけがえのなく愛しい関係。

君とともにいる限り、僕はいつでも「今」を楽しむことができた。

君との時間がある限り、他に何もいらなかった。


高校二年。

二年生になっても、僕と君は同じクラスのまま。

最初の半年間は相変わらず充実の日々を過ごすことができました。

最初の半年は。


事の発端は、夏休みのある日のこと。

僕は日課だった朝のランニングを寝過ごしてしまって、夜の涼しい時間に家を出ました。

涼しい、と言っても、30度近くある熱帯夜。

少しでも走りやすいところを求めて、僕はいつかの川辺へとやってきていました。

実に二年半ぶり。

なんとはなしにやってきたものの、川辺の景色を見れば、かつての記憶は蘇ります。

自分が少女にしたこと、そして自分が少女にかけた言葉。

しばしの間ぼんやりと時間旅行をした末に、「そういえばあの時、僕は謝ってなかったな」と思いついた時でした。


結美さんを、そこに見つけました。


信じられないような偶然に、息が止まるかと思いました。

前より幾分か背が伸びて、肉付きも健康的なものになってはいたものの、見紛うはずもなく彼女がそこにいました。

刹那、僕は怒濤のような郷愁の只中に放り出されました。

彼女の顔を見たい。彼女の声を聞きたい。彼女に……謝りたい。

けれど、そんな心の声とは裏腹に僕の足は固まったまま。

それは理性の反抗でした。


「自分のしたことを思い出してみろ」


--その一言で、僕は我に返りました。

受験というトンネルをくぐるよりも前の、未来さきを捨てた僕が、心の隙間からにゅろりと顔を出してきたのです。

あの頃抱えていた喪失感と虚脱感、そして圧倒的な自己嫌悪を携えて。


以来、僕はそれまでの多幸感、充実感を失いました。

自分に自信が持てなくなって、何か僕を新たに定義付けてくれるものを欲するばかりになりました。


切なかった。寂しかった。

君といても何かが満たされなくて、そんな自分が許せなくなったりしました。

そんな折、その君が優衣さんを紹介してくれたんです。


こうして夏休みの一ヶ月間、僕は彼女との時間を持ちました。

心を埋める新しい“何か”を求めていた僕にとって、恋愛は麻薬に近しいものでした。

相手が自分を特別視してくれている。

それが、僕の承認欲求を満たしてくれたのです。

けれど、そんな時間も長くは続きませんでした。

原因は十中八九、僕の優衣さんに求めるものがだんだん増えていったということにあると思います。

いつからか、恋愛とは相手の全てを受け入れること、と考える自分がいました。

そしてそれを、僕は彼女にも求めるようになってしまったのです。

僕にとっての恋愛は、一般に語られる性とか情とかではなくて、自分の弱さを受け入れてもらうということだったのかもしれません。

いや、押し付ける、と言った方が正しかったか。

いずれにしろ、僕は優衣さんにカッコいいところを見せるより、自分の弱さを見せることを優先するようになってしまいました。

フラれるのも仕方なかったと思います。

彼女には、悪いことをしたと思っています。


高校三年。

子供の頃、遥かな未来に思えていた十八歳があっさりとやってきて、僕はこれからのことを考えるようになりました。

高校受験以来、僕は目の前に表れるハードルを一つずつ越えていけば、やがては望む未来を手にすることができるだろうと言う漠然とした思いを抱えるようになっていました。

けれど、実際に十八歳という人生の岐路に立った時、ふと考えたのです。

そもそも、僕は未来に何を望んでいたのだろう、と。


僕は改めて過去を見直しました。


子供の頃の夢を。

中学生の頃の目標を。

そして、今、僕が何を望むのかを。


過去を見通し、今を計り、そして僕は唖然としました。


何も無かったのです。


何も。


ただ死にたいと零して、ただ失いたくないと泣き叫んで。

僕の人生は、ただそれだけでした。


僕には、何も無かった。


僕は未来に、何も見通すことができませんでした。

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