十一葉・夢幻

葬式から二週間が経った。

いつしか二月も末に差し掛かり、街角には慎ましくカワヅザクラが色づき始めていた。


「もうすぐ、二次試験だね」

「うん。あと三日だよ」


力のこもった声が耳を打つ。

二週間ぶりに聞く弟の声。春の陽の降り注ぐ下で聞くその声は、思いの他に気合が入っているようで。

つい、電話口で肩を怒らせる弟の姿を想像してしまう。


「気合いを入れるのはいいけど、あまり気張り過ぎるのもあかんよ? 」

「まさかこの電話でそんな言葉が聞けるとは……」


いつも呑気で前向きなことしか言わないのに、と弟はおどけたような声を出す。

それを聞いていると、目の前で弟が意地悪な顔で身をすくめる様子が容易に想像できて、僕は少し頬を膨らませた。


散歩日和の一日である。

窓の外に見える、抜けるような青空に誘われて、僕は川のほとりへほとほと散歩に出ていた。

昔から、歩くことが好きだった。

何も考えず、ただ足の向くままに散策をする……それがとても楽しくて。

そんな、散歩とも呼べないような逍遥をしながら、電話口の弟に僕は威厳を見せる。


「まあ、とにかく頑張ってきてこいっ! なんとかなるさ!」

「そうそれ! やっぱそう来なくっちゃ!」


人が一生懸命考えたセリフには茶化しを入れるくせに、適当な言葉には喜ぶ--そんな弟に僕は少し膨れる。

いや、適当な言葉を投げかける自分も自分なのだが。


「緊張はあんまりしてない感じ?」

「緊張してないっていうか、まだ実感がわかないっていうか」

「私学も受けたんでしょ?」

「あれはほら、練習みたいなもんだから」


聞く人が聞けば怒られるようなセリフを吐いて、「やっぱり本番とは違うよ」と弟は嘆息する。


「自信、ない?」


自分の大学受験を思い出して、僕は問うてみる。

受験生の頃、滑り止めだった私立大学には合格できたものの、一番の志望校には正直自信が持てなくて。

そんな自分の在り方を思い出して、僕は思わず聞いてしまった。


「アホ言わんといて」


そんな僕の愚かな問いかけを、力強い声が打ち消した。


「今までやれるだけのことはやってきた。今日明日と、受験までに残った時間でも手を抜くつもりはない。それに、手を抜いたらそれこそ……」


弟は、途中で言葉を切った。

風が僕の髪をそよぎ、水音が心をさらう。


「……あいつに、怒られる?」

「……」


葬式の次の日に実家を出て以来、僕は弟と顔を合わせていない。

だからこの二週間、弟がどんな思いでいたのかは分からない。

分からないけれど、彼が親友にどれほど憧れていたのかはよく知っている。

だから、かける言葉は一つしかなかった。


「いい報告が出来るといいね」

「……うん!」


それきり、「勉強に戻る」と言って弟は電話を切った。

残された僕はひとり、川のほとりを往く。

風に誘われ川辺に来たけれど、失敗したなぁと思った。


「思い出しちゃう……」


彼の手紙を読んでから、一週間。

テストもレポート課題も終わって、少し早めの春休みがやってきていた。

本来は、院試に向けた勉強を頑張らなくてはならない時期。

だけど、どうにも集中できなくて毎日を無為に過ごしている。

そのモヤモヤをなんとかするべく歩いているようなものだったのに--。


「川に来たら、あの手紙を思い出しちゃうじゃんか……」


中学時代の回想を綴った、彼の手紙。

それは、封印してからもう一週間は経つというのに、未だに楔となって僕の心に刺さっていた。


自分の心が弱いのかな、と思う。

何度も足を止めてはウジウジと悩んで、吹っ切れたと思えばまたウジウジ。

まるで、小学校の頃に戻ったみたい。


「いや--」


むしろ、中学から高校までの間は夢を見ていたのかもしれない。

未来に希望を持ち、輝く何かに手を伸ばす。

そんな夢幻を、見ていただけなのかもしれない。

そして、それを見せていたのは、間違いなく彼だった。

その彼がいなくなれば、夢から覚めるのは必定。

ただ、元に戻っただけだ。

小学校の、あの少しくすんだ日々に。


* *


小学生の頃、僕は少しひねた子供だったと思う。

本をよく読み、成績優秀。今よりもずっと落ち着いていて、思慮深くて、物事を俯瞰してみることのできる--そんな、優等生タイプの人間だった。

だから、ある日気がついてしまった。

僕の人生は退屈なものなんじゃないかって。


小学六年生の……初夏の頃だったと思う。

修学旅行も間近に迫ったその日、僕はぼんやりと修学旅行のことを考えていた。

とっても楽しみで、目の前の授業に手がつかなくて、僕はこっそり地図帳を開いて自由行動の行き先を考えたりしていた。

そんな時だった。

なぜか、脳裏に突然ある考えが閃いた。


『修学旅行って、人生で三回だけしか無いのかぁ……』


小学校、中学校、そして高校。

その三度しか修学旅行はない。

そう考えると、とても貴重な機会のように思えた。

--いや、修学旅行だけではない。

学生時代という限られた時間が、もったいないくらいに特別であるかのように思えた。


学校は、行事が目白押しだ。

入学式から始まって、季節ごとに体育祭や文化祭、学年が進めば修学旅行、そして卒業式。

節目やイベントが沢山あって、思い出もきっと沢山出来るだろう。

でも、その後の人生はどうだろう。

高校を卒業してしまえば、成人式があって、その次が結婚式、そしてその次はお葬式。

……それでおしまいだった。


僕は、妄想癖の強い子供だった。

一つのことを考えだすと、その考えは飛躍し、あらぬ方向に飛んでいく事がしばしばあった。

そんな僕は、気がついてしまった。


人生における大きなイベントは、ほとんどが20歳までに終わってしまうのだ、と--。


歴史の授業で習った、織田信長。

彼は、人生を「人間五十年」と言ったという。

人間五十年。人生、五十年。

今は長生きする人がたくさんいるから、人生八十年くらいだろうか。

そのうちの最初の四分の一で、人生の楽しみのほとんどがなくなってしまう。

じゃあ、残りの四分の三は何を楽しみに生きればいいのだろうか。

働いて、働いて、働けばいいのだろうか。

子供のために働いて、誰かのために働いて、そうしてある日死ぬ。

それを、きっと世間では幸せと言うのかもしれない。

こんな退屈な人生を。

誰もがなぞるような、下らない人生を。


考えると、止まらなくなった。

ただ、考えは飛躍していって、ついには最近書かされた将来の夢にまで飛び火した。


僕の抱える将来の夢。

僕が思い描く将来像。

それは、偶然クラスメイトと一緒だった。

同じような人生を思い描く彼女に、僕は親近感を覚えたことを思い出した。

でも、仲間がいて嬉しかったはずのその夢に、その時の僕は深く傷つけられた。


だって、僕の人生はありきたりなのだと言うことだから。

誰かが通った道に憧れて、誰もが通る道を行こうとしているのだと、気がついたから。

よく、「未来は分からない」と言う。

でも、きっとそんなことはないと思った。

だって、自分の行こうとしている道は誰かが通った道なのだから。

他の夢を考えてみても、僕の思い浮かぶ全ての道の先には、必ず何人もの先人たちが歩いていて。

どんな選択を下したところで、その選択の行き着く先は容易に想像できるもので--。


「キーンコーンカーンコーン……」


そこでチャイムが鳴って、僕は深い深い思考の泥沼から引き上げられた。

ただ、人生と未来への絶望だけを手土産に。

礼を終えるといつものように、五分休みには友達が話しかけてくれて。

でも、それに答えながらも、僕はもう以前の僕ではいられなくなった。

僕の見える世界が、ガラリと変わってしまっていたから。

未来は色褪せ、何をしたところで結局は見覚えのある終点に落ち着くのだと思えば、何にもやる気が起きなくなった。

空っぽだった。

今までその胸の空白を詰めていたものが何だったのか、思い出せなかった。

あれほど楽しみだった修学旅行も、それが終われば人生の楽しみが一つ減ると考えると、全く楽しむことができなかった。

やがて修学旅行を終え、秋になり、冬が来て。

小学校を卒業して、引っ越しをすることになっても、それは変わらなかった。

ただ、泣きたくなるような空虚感と押し潰されるような無意味感に、ただぼんやりするだけの毎日----。


「--知ってる? あの桜の木、カワヅザクラって言うんだよ」


そんな時に出会ったのが小野おの孝太こうた--後の親友だった。

唐突に話しかけてきた隣の席の男の子は、僕にとっては異質な存在で。

話すたびに心に響くその底抜けの明るさと未来を見定めるような迷いのなさは、いつしか屈折して色々と諦めていた僕には眩しくて怖くて……そして少し羨ましかった。


孝太は、いつでも明るく前を向いていた。

何があっても、どんな時でも、明るく未来を信じきっていた。

--いや、信じきってきたというのは、少し違うか。

きっと、何も考えていなかったんだと思う。

未来だとか、過去だとか……そんなことは頭になかったはずで。

ただ彼は、いつも一生懸命なだけだった。

その瞬間を全力で楽しんで、前だけを向いて突き進む。

そんな背中に、僕は感化された。

--いや、これも違う。

彼自身に、魅了されていたのだ。


彼といれば、思わぬ体験ができる。彼といれば、僕の知らない僕を知ることができる。

そのことが、たまらなく嬉しくて、楽しくて。

やがて、孝太との時間が重なっていくたび、僕は彼の熱烈なファンになっていった。

彼と一緒にいたい。彼と……もっと一緒にいたい!

僕は、いつしかそんなことを心の底から叫ぶようになっていた。


その頃には、あれほど僕を苦しませてきた虚無感も霞のように消え果てていて。

僕はいつしか、孝太の隣で未来だけを見つめるようになったのだった。


* *


「でも全部……」


--夢だった。


「僕はなにも見てなかった……」


足が止まって、僕はその場にしゃがみ込んだ。

頬を撫ぜる風は、まだ少し冷たくて。

でも、その冷たさが、僕の目から涙がこぼれるのを防いでくれる。


つくづく、自分のことが許せなくなる。

僕に、涙を流す資格なんてない。

隣にいながら孝太が苦しんでいることにも気がつかず、彼がわざわざ僕に宛てて書いてくれた手紙すらも最後まで読むことが出来ず、そのくせ一丁前に涙は流す。

そんな自分を、殴りつけたくなる。

一体、この涙は何の涙なのか。

自分を慰めるための涙なのだろうか。そうだとするなら、僕はなんとも浅ましい人間だろう。

それとも、孝太を想っての涙なのだろうか。だとするならば、それはあまりにも無責任で非道なものだと言えるだろう。

苦しかろうが悲しかろうが、彼の言葉を受け止める--そんな度量も覚悟も持たない半端者に、涙を流す資格なんてない。


「ふぅ……」


目を閉じて、川のせせらぎに身を委ねる。

涼やかなその音は、僕の中の淀みを少し、少しと洗い流してくれているようだった。

どれだけそうしていただろうか。

--ブーッ、ブーッ、ブーッ。

突然、上着に入れていた携帯電話がバイブ音を立てた。


「もしもし?」

「久しぶり」


瞼を拭い耳に当てた携帯から聞こえてきたのは、夏波の声だった。


「ひさ……しぶり……」

「……大丈夫?」


しゃがれた声に、電話口の夏波は心配そうな声を出した。


「うん……ちょっと、ね」

「孝太の……こと?」

「……」


僕は押し黙る。


「やっぱり……まだまだダメだよね……」

「……」

「私もまだ駄目。思い出してしまう」


夏波の声には少し陰りが見えて。

でも、それは思いの外、元気のこもった声だった。


「でもね、私、思うんだ。あいつは、いっつも元気だった。いついかなる時も、周りが楽しくなるようなことばっかり考えて……。そんな孝太が、いつまでもウジウジしてる私を見たらどう思うかなって」

「……」

「だから、ウジウジするのはやめようって思ったの。たとえ今すぐは無理でも、彼を笑って話せる日がいつか来る。だから、そのためにも前を向こうって」

「……うん」


絞り出した返事に、夏波は「よし!」と明るく答えた。


「じゃあ、今日はこれで!」

「え……用事は?」


思わぬ言葉に慌てて問いかけると、夏波は電話口でフッと笑った。


「用事は今終わったよ。あんたが元気かどうか、ただそれだけの確認」

「え……」

「正直……ちょっと心配だったんだ。アホなこと考えるんじゃないか、とかさ」

「そんなこと……」

「分かってるよ。あんたがそんな人間じゃないってことはわかってる」


わかってるんだけど、と夏波は言葉を少し切る。


「……でも、悲しみだとか苦しみっていうのは……時に人を簡単に押し流してしまうからねぇ……」


それから、夏波は電話を切った。

話中音が鳴り響く中で、それでも僕は電話を耳から話すことができなかった。


ーーあいつはいつも元気だった。


「……」


音が耳にこだまする。

話中音ではない。

夏波の声が耳にこびりついていた。


--いつまでもウジウジとしてる私を見たらどう思うかな。


「ち……う」


--彼を笑って話せる日が、いつか来る。


「違うッ!」


耳に残る言葉を、強く打ち消す。


「あいつは……そんな人じゃ……」


そんな人じゃない。

親友だった彼は、そんな人間ではなかった。


あの手紙を読まなければ、きっと僕も夏波と同じ思いでいられたのかもしれない。

明るく元気だった彼のように前を向こう、と。

彼の死をも乗り越えて、彼のいない世界を少しずつ受け入れる事が出来たのかもしれない。


でも、僕は知ってしまった。

あの手紙に記された彼の苦しみを知ってしまった。

隣にいたのに気づいてあげられなかった後悔が喉を締め上げて……。


「もう……」


もう限界だった。

手紙のことも、彼のことも。

一人きりで抱えておくことなんて、もう出来なかった。

誰かに話したい。

誰かに聞いてほしい。


そんな思いが溢れて、僕は携帯に食らいつく。


「夏波……夏波……」


もう一度電話をかけてみよう。

電話をして、それから全部話して……。

そう思っても、震える指はなかなか求める名前にたどり着けなかった。


--ブーッ。


「あっ」


もたもたしていると、通知が入る。

けれども今度は電話ではなく、テキストメッセージ。

思わずタップして開けると、そこには求めていた名前はなかった。

そのかわり--。


優衣ゆい……?」


高校時代に散々見た、懐かしい関西弁がそこに並んでいた。

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