十葉・聖域

パサリと音を立てて、手から原稿用紙の束が零れ落ちた。

その音に、手紙の中に沈み込んでいた僕はフッと我に帰る。


「は……」


炬燵の周囲に散乱した手紙たち。

慌てて拾おうとして、そこで初めてその手が震えていることに気がつく。

そういえば、途中から上手く文字が読めなかった--。

思い通りに動かない右手。

それを、震える左手で支えながら手紙に手を伸ばす。

一枚拾い上げて……すぐにそれは手から床へと滑り落ちる。

もう一度手を伸ばして……また落ちる。

もう一度……。

もう一度…………。

でも、何度繰り返しても、震える手では上手く手紙たちを拾うことは出来なくて。

挙げ句ただ茫然とする僕は、そこで初めて息苦しさに気がついた。


「はっ…………はっ…………」


思わず、胸元に手を当てる。

鼓動が早く、息がうまくできない。

出来るのは、ただぱくぱくと口を動かすことだけ。

その口からは微かな呼吸音以外は何ももれなくて。


--絶句。


生まれて初めて、僕は本当に言葉を失った。


彼からの手紙という水を得て、僕の感情群はまるで吸水ポリマーのように爆発的に膨らんでいた。

僕はそれを抑え込めるほどに器の大きな人間ではない。かといって、そんな僕の中にあるものを外へと吐き出すことはどうやってもできなくて。

感じるのは嘔吐感にも酷似した、堪え切れないようなむせ返り。

それ以外には、胸の中で澱んだ空気も吐き出せず、眼球を押し出すような涙も流せず、喉を詰めるような嗚咽も零せなかった。


「あぁ……ッ!!」


髪の毛を掻き毟る。

頭蓋の内側を、何かがめちゃくちゃに荒らしていくような感じがした。

それが限りなく不快で、でもいくら頭を掻きむしったところでそれが治まることはなくて。その苦しみに頭を抱えると、その瞬間何かが脳裏に閃いた。

それは、僕の中学校の頃の映像。

何故か僕は、僕のことを思い返していた。

僕の中学時代は、恵まれたものだったと思う。

勉強や部活や趣味、そして時には恋にも奔走して……。僕はいつも笑顔で毎日を送っていた。

そして、その隣には、いつも彼がいてくれた。

彼がいたから、楽しかった。彼がいたから、僕はいつも笑顔でいることができた。

僕は、中学時代を満喫したのだ。

何の後悔も未練もなく、「あの頃に戻りたい」などとのたまったりできるくらいに。

その傍らで、彼が自殺を考えるほどに追い込まれているとも気づかずに。


「--ッ!!」


それは、今までにない激情だった。


正直、小学校までのエピソードはどこか遠い世界の話のように感じるところもあった。

それは確かに親友の話で、彼が歩んできた道そのもので。でも、それは言ってみれば『僕の知らない彼の物語』だった。

知らないことを知っただけで、それは例えば悲哀物語の主人公に感情移入して読書を進める事と同じような感覚で。

その体験自体に心は動かされることはあっても、僕の目で見た彼自身が何ら変わるわけではなかった。


でも、これは違う。

今読んだ中学校の話は、そうじゃない。

中学以来の僕の中の親友の姿には、まさしく血が通っている。他でもない僕が共に過ごした時間の積層が確かに存在する。

彼のことは、この僕自身がずっとそばで見てきたのだ。

どんなことに笑い、どんなことに哀しみ、どんなことに怒って、そしてどんなことに喜ぶのか……。

たとえ彼の過去は知らなくとも、その時々の彼のことを僕はずっと見てきたはずだった。

中学一年の春、桜の話をしてくれたあの時から、僕はずっと、ずっと。

なのに、僕は……。


「--知らなかった」


彼の孤独も、苦しみも、罪悪感も。

彼が、恋をしていたことすらも。

気づいてあげられなかった。


「そばにいたのに……」


か細い声が、喉から漏れた。

誰の耳にも届かぬほどに弱く、細い声。

それは、まるで蟻穴ぎけつのようにか細い穴を穿つ事しかできないもので。


「ッ!!」


けれどもその穴は、濁流を押しとどめていたものを崩すには充分だった。


「何がッ!!!!」


何が聖域だ。

何が癒しだ。


「僕はッ!! そんなものになりたかったわけじゃないッ!!!」


怒りと悲しみが溢れて、目の前が真っ赤になったり真っ白になったり、ぐわんぐわんとして止まらなくなった。

そんな心の内でただ一つ、はっきりとしていること。


特別ではありたかった。

でも、特別扱いされたくはなかった。


「僕はただ…………一番の友達でいたかっただけなのに………」


なのに、彼は何も言ってくれなかった。

なのに、僕は何も気がつくことができなかった。

そのことがたまらなく苦しくて、悲しくて、腹が立って。


「くッ!!」


思わず振り上げた拳を、怒りのまま自分の頭に打ち付ける。

もう一度振り上げて、頭を殴る。

もう一度…………もう一度…………もう一度。

何度も何度も頭を殴りつけると、そのうちに手の感覚はなくなって。

それでもまた僕は、頭を殴り続けた。


どれだけそうしただろうか。

やがて痛みと疲れで腕が上がらなくなると、僕は布団に倒れこんだ。


「あ……うぅ…………」


噛み締めた歯と歯の間から、嗚咽が漏れる。


ショック、悲しい、悔しい……そのどれもが、今心の内を占める感情を表現するには不十分で、不的確で。

ただ、言葉も出ないくらいの負の情動が心の内でうねっていた。


やがて、窓の外がうっすら白桃色に染まりだす。

頭の中をぐるぐると駆け巡る想いの濁流に翻弄されて、気付けば手紙を読み始めてから十二時間が経っていた。

真っ赤な目の周りを隠して、僕は起き上がる。体を支えようと布団についた右手に鈍痛が走った。


「痛い……」


見ると、右手は腫れていた。

折れているのか、全く感覚がない。

そんな右手をぼんやりと眺め、小さく唇が動いた。


「大馬鹿者だよ……僕も、も……」


それきり、僕は彼からの手紙を封印した。

動く左手で、炬燵の周りに散らかった手紙を一枚一枚拾い上げて、元のように一つにまとめた。

手紙を読んでいる間、震える手は無意識のうちに強く手紙を握りしめていたのだろう。よく見ると手紙の両端はすっかりしわしわになっていた。

それらを元の茶色い封筒に入れてその口は糊でしっかりと封をし、百均で買ってきた鍵付きの箱に入れて押入れの一番奥に押し込んだ。

もう二度と、見る気は無い。

そんな資格など、僕には無い。

そう言い聞かせて、僕はそれきりあいつのことさえも封印するかのように、手紙を手に取ることはなくなった。

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