九葉・手紙③

小学校を卒業すると同時に、僕は引越しをしました。

親の転勤で関西への移住が決まったのです。

それは突然のことだったので大変驚かされましたが、一方で、正直に言うと僕は嬉しかった。

かつて住んでいた街は、確かに幸せな時間もあったけれど、やっぱり悲しみと苦しみの記憶の方が色濃かったから。

とはいえ、全く知らない場所でのイチからの新生活には不安が付きまとっていたこともまた事実で、はじめの数週間は鉛を飲むような思いでいました。


果たして、新天地への転居はそれほど悪い事ではありませんでした。

時間の流れも人の在り方も全く違う文化圏は、何かを忘れるにはぴったりの場所で、ここでなら僕は自分をやり直せるだろうという気持ちになりました。

新たな友人や環境を得ることで、僕は僕ではない何者かになれているような気になることができたのです。

君との出会いも、そうした「やり直し」の一つでした。

恐る恐ると話しかけた僕に、花のような笑顔を見せて受け入れてくれた君は、いつしか僕にとって特別な友人の一人になりました。

コロコロと転がるその表情と、それを下支えする豊かな感情。それは僕の憧れていたものであり、同時に僕にとっては手放しがたい宝物のようなものでした。


まさに極楽。


しかし、川の水面みなもが凪いだように見えたとしても、その下での水の流れは決して静まることはありません。

そうした出会いと希望に満ちた新生活に包まれて、僕は、だからこそ孤独でした。


表向きの在り方が幸せに包まれ、明るく照らされていくほどに、その後ろに伸びる影は明確に、そして長くその形を取るようになります。

脳裏をよぎるのは僕という存在の本質。

これまでの日々の中で僕は、祖父母の尊厳を踏みにじり、家族に涙をこぼさせ、その心を傷つけた。

それはつまり、人に害をなす存在であるということ。

そんな存在に相応しいのは笑顔が薫り幸せ満ちる極楽ではなく、暗く冷たい地獄の果てでしょう。

そう考えると、自分がこれほどに幸せでいいのだろうかという疑念が胸の中で首をもたげるようになりました。

亡くなった祖父母こそ、生きてこうした時間を過ごすべきだったのではないか、という疑念。僕ではなくて、もっと違う人こそこうした幸せを享受すべきだったのではないかという身悶え。

ついには自分の生きる価値すらも問うようになりました。


こうした、周囲の優しさに絆され甘えた自分の在り方と、あるべき本当の姿の自分との矛盾を、中学一年生の間考え続けました。

答えが出たのは半年後。

矛盾を必死に擦り合わせようとするうちに、軽薄なティーンネイジャーの僕は一つの道を探り当ててしまったのです。


「人のために生きよう」


人の心に思いを馳せ、人の事を何よりも優先する。それはそんな綺麗なものでは決してない、自己否定による自己肯定。

価値無き自分の「無価値である」というそのアイデンティティをもって、他者の身代わりを為そうという存在価値の規定。


間違っていると気付いていました。

これは、断じて人のためにならない自己満足であると、僕は分かっていました。

でももうそんなものに縋ることでしか、13歳の子供は自分を肯定出来なくなっていたのです。


それ以来、僕は変わりました。

他人の嫌がる事を進んで引き受けるようになりました。

他人が気楽でいられるように、いつもヘラヘラと笑うようになりました。

自分の内面や抱える悩み、問題点は、決して人に見せないようになりました。


そうして半年が経ち、中学二年生になった頃のこと。

皮肉なことに、僕には大切なもの、大切な人が増えていました。

一層積み重なっていく大切なもの、大切な人、大切な瞬間。

所詮まやかしでしかない外面ばかりの僕には、それが果てしないほどに嬉しくて、でもそれを受け取る資格なんてないと思えば切なくて、罪悪感に満たされて…………そしていつしか、それらのものを喪う事が怖くてたまらなくなっていました。


友人たちは、僕にとっての目を細めるほどの輝きを放っていました。

情緒豊かに笑い、泣き、怒り、そしてまた笑う……そんな、君や他の友人らが見せるその姿を見る度に、幸せを感じました。


幸せでした。


幸せだったんです。


たとえ虚実で塗り固めたとしても、僕は幸せを感じてしまったんです。

そして僕には、そのことが苦しかった。


自らの幸せを疑い纏った嘘が、幸せを呼んでしまう。

全てが嘘っぱちでしかないのに。

これなら、前の方が誠実だった。

例え傷つけ、そして傷つくものであるとしても、僕自身をさらけ出していたかつての僕自身の方が誠実だった。

いつしか僕は、疎外感と虚しさを抱えるようになりました。

君たちといる間に見せる陽気な僕を、斜め後ろに浮かんだ幽霊のような別意識の僕が、むせ返るような吐き気を感じながら見ていました。

自分は彼らと一緒にはいられないはずの人間だと、胸の奥で叫ぶ何者かを感じながら。


積層する自己否定の感情。

毎日毎日自分を呪い、いつしかやがてその感情は変質していました。


「どうしてまだ生きているのだろう。死ぬべきなのは僕だったのに」


幸せな時間が過ぎるたび、僕は自分がそれを享受するに相応しくないと思いました。

幸せな瞬間が積み重なるたび、僕はいずれは訪れる事になるであろうその幸せの喪失を恐れるようになりました。


だからといって、そんな僕の悩みを誰かに相談することなんて出来なかった。

特に友達には……友達との時間は僕にとって癒しでした。

特に親友である君と一緒にいる時には、僕は違う自分になることが出来た。

明るく、陽気で、そして前向きな……僕がなりたかった僕に。

君との時間は癒しでした。僕にとって守るべき場所であり、負の感情によって穢されるべきではない聖域だったのです。

自分のことは自分の胸に飲み込んで、君とはずっと笑顔で向き合っていたかったから。

そんな、矛盾の日々を過ごしていた僕に、一つの出会いがありました。


ある日のこと。

僕はカップルで溢れる川辺を一人歩いていました。

その頃の僕は、放課後によく一人であちこちに散歩に行っていたのです。

川のほとり、広い公園、市街地の道路に、寺社仏閣への長い階段。

一人での逍遥は、色んなことを考えることが出来て、それはつまり自分自身と向き合うことが出来ているような気がして、僕は好きでした。

その曇り空の下の散歩の途中で、少しばかり疲れを感じた僕は珍しく河辺に腰を下ろしました。

橋の下を往く川の流れはどこまでも透き通っていて、手を伸ばせば川底に届きそうだと思うほどでした。

ぼんやりと見ていると、やがて近くに人影を感じました。目だけを向けると、そこには一人の少女が腰を下ろしていました。

沢山のカップルが等間隔に並んで座る川辺に、一人きりで座るのは僕と彼女の二人だけでした。

はじめ、僕はあまり気に止めていませんでした。ただ川に目を向けて、川底の起伏によって生じた白波をぼんやりと眺め続けていました。

どれだけ時間が経ったでしょうか。

不意に、隣に誰かが寄ってきたのを感じました。


「何を見ているの?」


声に振り返ると、さっき近くに座っていた少女がすぐそばに立っていました。

いつのまにか歩道から川辺まで下りてきていたようでした。

突然話しかけてきた彼女に少し驚きながら、何も答えられずにいると、少女は少し寂しそうに笑いました。


「ひとり……ですか?」


さっきより少しだけ小さくなった声と、少しだけ遠くなった言葉尻。

呆けていた僕は、ハッと我に返りました。


「えぇ、ひとりです」


何かを考える間もなく反射的に答えた僕に、少女は「隣、良いですか?」と問いかけました。

はい、と、相変わらず頭の中が真っ白のまま、僕は答えました。

少女は隣に腰を下ろしました。

何かを言いに来たのかと思って僕は身構えたままでいましたが、しかし僕の予想とは裏腹に、彼女はそのままただ黙ってそこに座り続けました。

沈黙の間隙に、水音が優しく注がれ続けました。


「……少し、話を聞いていただけませんか?」


やがて、名も知らぬ少女は小さくそうこぼしました。

ひっそりと微かに耳にかかるほどの、とても小さな声で。

言いたいことがある。でもそれを言いたくない。

そんな矛盾した迷いが滲んだような言葉でした。


「聞かせてください」


僕は確か、そう言ったと思います。

詳しくは覚えていません。ただ、彼女の力ない言葉だけが頭の中を巡っていましたから。


でも彼女は僕の言葉に頷いて、それから自分は病気なのだと言いました。

少し前から身体を壊していて、ずっと治療を受けていたと。

それでこの頃には少し症状も落ち着いて、学校にも行くことができるようになっていたそうでした。


彼女は美しい髪をしていました。

彼女はそれを持ち上げて、薬のせいで抜けた髪の代わりのカツラなのだと、言いました。

彼女は優しい女の子でした。

心配する家族や友人の前では、いつも笑っていたいと言いました。

ただ周りで見ている事しかできない人たちの方が、辛いはず。なのに、自分が悲しい顔をすれば周りの人はより悲しくなる。だから、みんなの前ではいつでも笑っていないといけないのだ、と。

でも、時々、自分が我慢できなくなる、と彼女は顔をくしゃりと歪めました。

辛くて辛くて、でも誰にも言えなくて。

ぐちゃぐちゃの胸の中をどうしようもなくなって、この日、ふと川を訪れたのだ、と。


どれだけの時間、彼女は話し続けたか。

あたりはすっかり夕闇に包まれて、川辺の建物たちの灯りが川辺を染める頃合いになるまで、その話は続きました。


「……ありがとうございます」


語り終えてしばらく後、落ち着いた様子で彼女はそう呟きました。

その表情は闇に潰されて定かではなくて、でもその声音がすっきりとした心持ちであることを示していました。

彼女に問いかけてみました。


「……どうして、この話を僕に?」


話を聞きながら、心の片隅に芽生えていた疑問。

それを口にしてみると、彼女は顔を少し傾けました。

街の灯りが、彼女の顔を照らしました。


「見知らぬ人の戯言なら、聞き流せるでしょ?」


知らない人にしか話せないことなの、と。

そう、涙を浮かべながら笑った顔が印象的でした。


別れ際。

僕は彼女に言いました。

週に二度、同じ時間にこの川縁に来る、と。

そして、「見知らぬ人」として、話を聞かせてほしい、と。

彼女は小さく頷き、そして去っていきました。

名前は聞きませんでした。

名前を知れば、それはもはや知り合いになりますから。

ただ名前も知らない少女のために、僕はそれからいつも決まった時間に例の場所へと行くようになりました。

いつも僕の方が少しだけ早く到着して、彼女を待つわずかな時間に心を跳ねさせていたことを覚えています。

お話は一日一時間から二時間ほど。

初めは彼女の辛い思いや将来の展望を聞いていたのが、やがてはたわいもない話もするようになりました。

時間もどんどんと伸びて、やがて他の曜日にも会うようになりました。

彼女との日々はとても楽しかったし、とても充実していました。

会うたびに笑顔が増える彼女を見ていると僕まで嬉しくなって。

いつしか、僕は隙あらば彼女のことを考えるようになっていました。

きっと僕は、彼女に恋をしていた。

自分の本質すら忘れて、身の程知らずな恋をしていたんだと思います。


夏になると、僕らは二人でお出かけするようになりました。

夜祭りに一緒に行きました。

燃え盛る焚き木や松明の灯りは優しく暖かく、けれどそれを眺める少女の目に映る火はゆらゆらと所在無げに哀しく揺れていました。

花火を一緒に見ました。

パッと咲いて、すぐに消える花火の光を、彼女は人の命のようだと形容しました。その目は決してその儚い光から逸らされることはありませんでした。


秋になると、僕らは毎日のように会うようになりました。

神社のライトアップを一緒に見に行きました。

一度二人で訪れたことのあった神社。その見慣れた参道、見慣れた鳥居が幻想的に彩り照らし染められる様に、彼女は言葉を失っていました。涙をその目に湛えて、ジッとその灯りを眺めていました。

彼女の名前を知ったのはその帰り道。

結美ゆみという名前で、一月生まれで、黄梅おうばいの花が大好きで、そして、僕のことを憎からず思っている。

そんなことを僕は知りました。


少しずつ変わっていく僕らの関係。

そして、僕自身も。

彼女の側にいたいと思いました。彼女の隣に並んで、歩ける男になりたいと。

ただ彼女と一緒にいるだけの時間が、これまで僕が積み上げてきた汚泥のような日々の上に花園を生み出してくれたのです。

前を向いた目に映る空はどこまでも高く、木々は艶やかに、川辺は鮮やかに。

いつしか、僕の目の前に広がる世界は明るく彩り豊かなものへと姿を変えました。


やがて冬が深まり年明けて。

僕は、黄梅が咲けば結美に想いを伝えようと思うようになりました。


彼女と出会って一年ほど経ち、中学二年生が終わろうかというある日のこと。

その日は朝から雪が降り積もり、そしてその中で黄梅が健気にその花弁を開いていました。

ようやく、想いを伝えることが出来る。

そんな、小さな梅花に背を押されるような思いで、僕は家を飛び出しました。

早く会いたい、形に出来なかったこの想いを早く伝えたい……。

鼓動の高まりを感じながら、いつもの川縁にいつもよりも少しだけ早く辿り着くと、そこには珍しく結美がすでに座っていました。

その背中はいつもより明らかに小さくて、初めは彼女だと気づきませんでした。


「ゆ……」


声をかけようとして、僕は言葉を飲み込みました。

その横顔には、ちらりと輝くものがあったのです。


僕は口を閉ざしました。

さっきとは違うドキドキに、思わず僕は生唾を飲み込みました。

話したいことを胸の奥に押し込んで、僕は結美の隣に腰を下ろしました。


「病気がね、また出てきてるみたい」


顔から血が抜けていくのをはっきりと感じました。目がしょぼしょぼとして、彼女の方を向くことができませんでした。

そんな僕の様子に関係なく、少女はずっと自分の思いを口にしていました。

でも、僕はもはやそれを聞いていませんでした。

ただグルグルと頭の中を暗い感情だけが占めていました。

どうして彼女だけこんな目に合うのだろうか。どうして彼女だけ苦しんで、悲しんでいるのだろうか、と。


「まただ」


不意に、僕の心の奥底に眠っていた自虐心が首をもたげました。

まただ、と。

また、僕の周りの人ばかりが不幸になって、僕だけが平気でいる、と。

僕にはそんな資格などないはずなのに。

そして、一度それらが露わになってしまうと、途端に僕はもう我慢ができなくなりました。


「僕が代わってあげられたらいいのに」


その言葉を口の端に乗せた瞬間、世界が動きを止めたように思いました。

景色も色も音も何もかもが消えて、ただ「信じられない」という表情をした少女の顔だけが目に飛び込んできました。


「どういう……こと?」


震えるその声に、僕は思わず口元を手で覆いました。

けれど、抑えるべきだった言葉はとっくに僕の下を離れて、彼女の胸に届いてしまっていた。


「どういうこと?」


今度ははっきりと、彼女はそう問いかけました。

その声音には怒りと悲しみが痛いくらいに滲んでいました。

けれど、僕はその「怒り」と「悲しみ」の意味を、正しく読み取れるほどに大人ではありませんでした。


「……君の代わりに僕が苦しめばよかったんだ」


だから、僕は言わなくていいことを言いました。言うべきでないことを、言葉にしました。

僕の本意を伝えたなら、彼女の怒りや悲しみは和らぐのではないかと考えたから。

--いや、違いますね。

僕はただ、分かって欲しかった。

いつも僕は彼女の話を聞く立場でした。話を聞いて、悩みを聞いて、苦しみを一緒に受け止めて。

でも、僕も悩んでいた。僕も苦しんでいた。

彼女のそれに比べたら遥かに小さなものかもしれないけれど、それでも僕にも聞いて欲しい話があったのです。

その自分勝手な思いが、最も溢れてはいけない場面で全て流れ出てしまいました。


「僕は死にたい。出来ることなら君の病気の肩代わりをしてあげたい。なのに、何で……どうして……君ばかりが…………」


心の中はぐちゃぐちゃでした。

決壊した思いの濁流にもみくちゃにされて、自分が何を言っているのか、何を言いたかったのかすらも分からなくなっていきました。

ただ一つ、決して言ってはならぬことを彼女の目の前で口にしている事にすら気がつかぬままに。


「っ!!」


パシン。

凄い音がして、僕は頬に熱を感じました。

そこで初めて、僕は口を噤むことができました。初めて自分の言ったことを振り返ることができたのです。

だけど、もう遅かった。

彼女は何も言わないまま、僕に背を向けました。


まただ。


僕はそう思いました。

あれだけ後悔して懺悔して自責して、なお、言葉の拙さから人を傷つけたことを、僕は悔いました。


いや、今度ばかりは「言葉の拙さ」のせいにはできないことを流石に自覚しました。

言葉ではない。僕自身の在り方、考え方が彼女を傷つけたことに、気付かないではいられませんでした。


どれだけの時間が過ぎたでしょう。

顔を上げると、もうどこにも彼女の姿は見えませんでした。

いつしか雪も雨だれに変わっていて、誰もいない川辺には僕だけがポツリとひとりびしょ濡れになりながら座っていました。


以来、僕はあの川辺には近付かなくなりました。

彼女にとって束の間の平穏の場であっただろう、そして、かつての僕にとって確かにかけがえのない時間であったあの場所には、もはや立ち入る資格など今の僕にはありませんでした。


次の日からも、日常は淡々と僕を迎えては去っていきました。

学校では友人たちに笑顔を見せ、家ではモリモリとご飯をかっ喰らう。

いつも通りの日々。

それを享受しながらも、僕はいつもたった一つの真実を胸に宿して生きるようになりました。


「僕は、他人にとってロクな存在にはならない」


それは、僕にとってはじめての、ハッキリとした自損願望でした。

他人との関わりの中で、僕が何かをしようとすれば、それは裏目に出て他人を傷つけることになる。

僕と関われば、必ず誰かが不幸を見る。

だけどもう、大切な人たちには誰にも悲しい思いをして欲しくない。

ならばどうすべきか。答えは簡単、僕がいなくなれば良い。

それがどうにも素晴らしいアイデアのようにしか感じられなくなりました。


もう、僕は死んでしまうしかない、と。


中学三年に入る前の春休み。

結美と会わなくなってから一ヶ月が過ぎようかという頃。

僕はこの世に別れを告げることを決意しました。

これまで、自分は他人を傷つけ過ぎた。きっとこれからも、生きている限り僕は他人に涙をこぼさせ続けるだろう、と。

そんな未来を甘受するくらいなら死んでしまおうと、近くの高層の建物の屋上に忍びこみました。

それは雪の降る夜のこと。

舞い散る牡丹雪は、街灯りに照らされ夢のような景色を浮かび上がらせていました。

美しい…………本当に美しい夜でした。

美しくて怒りすらも湧き上がるような、夜景で。

それをぼんやりと見下ろしながら、僕は唇を噛み締めました。

こんなに美しい世界に死ぬことができる幸せを、僕に受け取る資格はない、と。

いつもいつも、僕はこうして幸せを引き寄せて、それを台無しにしてしまう、と。

それが嫌で、嫌で、嫌で。

早く消えてしまおうと、僕は屋上から足を出してその縁に腰を下ろしました。

下を覗くと、雪が視界の端から現れては小さく消え、また現れては小さく、遠く消え。

今自分がとてつもない高さにあるのだろうという予感に、背筋が凍るように思いました。

こわばる身体。ひきつく心臓。

それらに、決心が揺らぎかけた時。

投げ出した足が風に煽られるのを感じました。

それから先のことはろくに覚えていません。

ただ、自分が逃げ出したということだけははっきりと覚えています。

向き合うべき自らの行い、罪、責任、恐怖、そして、自らが選択した「死」そのものからも。

私は走りました。階段を駆け下り、表通りも路地裏も関係なく、ただ闇雲に、無茶苦茶に。

駆けながら、僕は自らの行いに対する責任として自らが選んだ「死」に対する覚悟すら持つことのできない自分に、本当に心の底から絶望し、そんな自分を心から軽蔑しました。

そんな狂乱の中、今にも叫びだしそうになりながら駆け込んだ自分の家。


「おかえり。寒かったでしょ? お風呂、沸いてるよ」


何も知らずに僕を迎えた母の声は暖かく優しいもので。

僕は泣きそうになって、慌てて風呂に入りました。

いつしか凍るように冷えていた身体。

それを、温かなシャワーが少しずつほぐしてくれて。

それでも、凍りついた身体の芯は決して溶けることはありませんでした。

その夜、僕は明かりもつけずに自分の部屋で膝を抱えていました。

沈黙と暗闇の中で、ずっと自分のこれまでを考え続けました。

同じようなことばかりを、何度も何度もぐるぐると。

いつしかカーテンの端からは光が漏れていました。

いつものように顔を洗って、朝ごはんを食べました。

制服を着て、荷物をまとめて、そしていつも通りに学校に行きました。

いつものように能面を顔にはっつけて、どこか少し離れた宙から別人を見るような感覚で、僕は友達と話す僕を見ていました。

見ながら、考えました。


僕はこれからどうするべきなのか。


でも、考えても考えてもそれが分からなくて、僕はただいつものように生き生きとした友人達に、まやかしの微笑みを返すことしかできませんでした。

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