七葉・大人になれない。

三年間も大学生をやっていると、時々自分が年をとったなぁと感じる瞬間がある。

もちろん、二十代の序盤も序盤なのだから、世間一般から言えば若者なのかもしれないけれど、それでも十代の無垢なあの頃を思い起こしては、いつのまにか遠いところに来たものだなぁと振り返ることが増えていた。


十代のあの頃--僕は未来ばかりに気を取られて、「現在いま」には目もくれていなかったように思う。

早く大人になりたい、だとか、将来はこんな風な生活を送りたい、だとか、そのためにもっと自由が欲しい、だとか。

大人とは、将来とか、自由とは、一体どんなものか深く考えることもなく、漠然とした幻想だけを追い求めていた。

でも、それが良かったんだと思う。

未来に視線を投げることで、自分には成長の余地があるということを認識出来たし、その成長の余地を知ることでさらに未来に夢を見ることができた。

自分の居場所はこんなところではないと信じて、うん百うん千うん万もの先人たちの歩みを眺めては、その歩みの先にこそ自分の居場所があるはずと胸を高鳴らせていた。

いや、先人たちだけではない。

友がいた。

先を行く友の背中が、そこにあった。

僕の見る未来にはいつも「彼」が歩いていて、だからこそ僕はその背中に憧れ、励まされ、時には少し嫉妬をしながらも、追いかけ続けたのだ。

いつしかその彼の背中が夜霧に消え失せ見失ってしまっても、水晶体に灼きついたその背中の影を追い求め、追いかけて。

そうやって何年も何年も歩いた先に辿り着いたのは--。


「居酒屋だった、ってね」


そう呟いて酒をあおった僕に、目の前に座る友人が不思議そうな目を向けてきた。


葬式から五日が経った。

その間、僕は朝ギリギリに起きては学校へ行き、そのままバイトの六時間シフトを経由して帰宅後すぐに床につくという生活を繰り返してきた。

我ながら、相当に無茶苦茶な生活だと思う。

とはいえ、彼の死がその契機となったわけではなく、ただここ数ヶ月の間続けてきた習慣をトレースしているだけに過ぎない。

彼が死んだ。だからといって、特段なにかが大きく変わるわけではなく。

むしろ、そんな無茶苦茶な生活も、テストとレポートの提出日を控えたこの月火水で終わりを迎えると思えば、気分は爽快だった。

そんな中での、大学の友人からの突然のお誘い。

僕は彼らに連れられて、行きつけの居酒屋に来ていた。


オレンジの灯りに木目調の内装の店内で、仕事終わりのサラリーマンや大学生達の華やかな声が響き渡る。

決して、上品なお店ではない。

全品税込300円均一のお財布に優しいチェーン店。椅子は固く机は狭い。

でも、それが良い。

まるで友人の下宿先のような、そんな肩肘張らなくても良い気軽な空気の中で、僕は大学の友人三人と酒を酌み交わしていた。


「なんだか、全員集合は久しぶりって感じだな」


さっき、僕に目を向けた男が呟いた。


「前回が木曜だっけ? で、金曜は河津が来られなかったから、全員が揃ったのは一週間ぶりか」

「そう……だね。丁度一週間だ」


その隣に座る、僕の苗字を口にした男に、僕の隣に座る女の子が頷く。


「丸々一週間もトリキに四人全員が揃わないなんて、久しぶりだよね」

「ヒロに彼女が出来た時以来じゃないか?」

「あの話はもうやめろって……」


僕の斜め前に座る男子が、二人のイジリに苦笑いを浮かべる。


三人とは、大学一回生の時に同じクラスとなって以来の付き合いだ。

ヒロは関西出身で、僕の前に座る男子と僕の隣の女の子は共に関東からの下宿生。

特にヒロ以外の二人は出身地だけではなく「ハル」という名前まで同じ。これも縁というやつなのか、彼らのことはそれぞれ「ハル坊」「ハルぇ」と呼び分けながら、今でも四人で仲良く過ごしていた。

ちなみにハル姉ぇは、僕のことを苗字の「カワヅ」を短くした「カズ」をさらに改悪して、「カッス」と呼んでいる。

濁点はトランプの賭けに負けて奪われた。

酷い話である。

そんなハル姉ぇが、ヒロの失恋をさらにいじる。


「就活でも、元カノと同じ業種を選んでるんでしょ?」

「……だぁぁ!! そうだよ! まだちょっっと、ほんのちょっっっっとだけ意識してんねん!」

「就活に持ち込むなよ……人生の岐路なんだから……」

「うぅ……」


ハル坊の放つ苦笑まじりの火の玉ストレートに、ヒロは結構な凹みを見せた。


そう。

僕らは今、人生の岐路にある。


昔は良かった。

ただ、自分のためだけに生きたら良かったのだから。

子供でいられた頃の僕の心の中には、沢山の温もりと希望と幸せと、そして同じくらい沢山の悲しみだとか怒りとか、そうした豊かな感情達が溢れかえっていた。

それらがまるで大海のように、時にはうねり、時には凪いで…………流され包まれ溺れるようにしながらも、ただ前だけを向いて生きることのできた学生時代に、僕らは別れを告げるのだ。

これからは誰かのため、何かのために、死というゴールがやってくるまで歩き続ける。

自分を殺し、何かのために全てをかけて、これまで自分のために生きてきた時間の何倍もの時間を費やすことになる。

それはきっと幸せなことで、生き甲斐のあることなのだろう。


でも、まだその在り方を、心は受け入れられない。

まだ、自分のために生き足りない。

まだ、自分の全てを捧げたいと思えるほどのものを見つけることができていない。


そう思うともう、かつてのように「希望に満ちた未来」を見据えるということは出来なくて。

いや、未来どころか、岐路にある「現在いま」にすら目を背けたくなってしまって。

美しいものは、みな過去に過ぎ去ってしまったと思ってしまう。


「昔に戻りたいなぁ……」


グラスを傾けながら、嘯く。


「大人になんてなりたくない。ずっとこうして、みんなで馬鹿笑いしていたいや」


子供のワガママ。ガキの戯れ言。

そんなことは、分かっている。

分かっているけれど…………。


「あ……れ? ちょっと酔ったかな……?」


瞼は熱を帯び、世界が歪む。

溢れそうになる雫に、僕は思う。

--大人には、なれそうにない。


と、ひとりごちていると目の前にヌッと顔が現れた。


「お、かわちゃんのグラス空いてるじゃん」

「え? あ、ほんとだ」


ハル坊に言われるまで、自分が空のグラスを傾けていたことに気がつかなくて、少し焦る。

慌てて店員さんを呼んでカシスオレンジのおかわりを注文してから、僕は三人を振り返った。


「みんなは何か呑む?」

「「「いや、いい」」」


中身の残ったグラスを掲げる仕草まで息ぴったりにそう応える三人に、思わず店員さんと二人で笑いをこぼした。

やがて運ばれてきたカシスオレンジに口をつけていると、「やっぱり……」とハル姉ぇが呟いた。


「やっぱり、最近のカッス、なんだかアレだよね」

「アレ?」

「うん。なんていうか、アレ」


語彙力皆無のハル姉ぇに首をかしげていると、彼女はヒロとハル坊にも「ね? アレな感じだよね?」と同意を求め出す。


「まぁ、言いたいことはわかるけど……」

「分かるんやけど、語彙力がなぁ……」

「二人とも分かるの!?」


頷くヒロとハル坊にツッコミをかますと、ハル坊が「つまりさ……」と口を開く。


「なんていうか…………今日のかわちゃんはちょっと元気がないよなって言ってるんだよ。姐様は」

「元気はないし、目端の利く河津らしからぬ質問をしたりもするしな。グラスに飲み物が八割残っとるのにおかわりいるか聞くとか、今までほんなことなかったやろ?」


ヒロも頷いてそう呟いた。


ちなみにハル坊はハル姉ぇのことを「姐様」と呼んでいる。

理由は知らない。

大方、パワーバランスによるものだろう。同い年のくせに、ハル坊はいつもハル姉ぇの尻に敷かれているから。

とはいえ、それは二人の間だけの話。

僕らはふつうに「ハル姉ぇ」と呼んでいるし、彼女自身もそう呼ばれることを殊更好んでいるようだった。

また、ハル坊に関しても、一見軟弱さがどうにも頼りなく感じるけれど、それは気遣いの裏返し。

そして気遣いの出来るオトコハル坊は、ともすれば感覚的な言葉選びをするハル姉ぇの発言を翻訳するプロだった。


「やっぱ、調子が変に見える?」

「笑顔がない」

「そっかぁ……」


ハル坊の返しに、思わず僕は口ごもる。

隠していた訳ではない。

ただ、僕が中学高校時代の友人を失ったと聞いて、それぞれ面識のない彼らはどう思うだろうと考えてみただけだ。

彼らは、きっと困るだろう。

だから、「言えない」とは言わないが、言うにはタイミングが必要で。

今は、ただ目を伏せることしか出来なかった。


「--やっぱり」


そんな僕に、ヒロが口を開いた。


「やっぱり、就活のこと? 分かるわ~、僕もどないしよって感じやもん」


そう言ってヒロは難しい顔で首を振った。

何かを疑うでも窺うでもなく、心底「参った」という感じに。

一方でハル姉ぇは涼しい顔のままにお酒をあおる。


「私は教職課程だからねぇ。教育学部じゃないから実習だとか試験勉強だとかはあるけど、一応何とかなると思う。信じてる」

「俺も信じたいけど……胃が痛くなる……」


--訂正しよう。

ハル姉ぇは涼しい顔なんかしていなかった。

これは、凍りかけの顔だ。

その隣でハル坊も青白い顔でウンウンと頷いる。

人を育て導く道に舵を切っている二人は、それはそれなりの苦労があるみたいで。

その表情は明らかにお酒のせいだけではなく、様々な色が色々と巡っていた。


「どうせ教職にするんなら教育学部に行けばよかった……」

「四回生で教育実習ってのがなぁ……」


蛇の道は蛇……そんな言葉が頭に浮かぶ。

きっと二人には、二人にしかわからない苦労があるのだろう。

それは僕の届くものではなくて、現在地に縛られてどこに首を向けるべきか分からない僕には、先を行く二人の話は少し羨ましくもあるもので。

そんなことを思っていると、ハル姉ぇが僕に目を向けた。


「カッスは院に行くんだっけ?」

「あ、うん。一応、そのつもり」


僕は学部の中でもそれなりに成績が良かったらしく、ゼミの教授からの熱心な勧誘もあって、大学院への進学を決めていた。

そのための勉強も始めていて、もう引き返しは効かない。

これがいいのか、はたまた間違った道なのかは分からない。

自信を待てないままに、ただ周りに流されて……さながら迷子のような歩みである。


思えば、いつもそうだった。

高校受験の時は合格がゴール。

大学受験も、大学名と学問分野で選んだ複数の候補のうちの一つに進学出来れば良いと思っていた。

その先のことはボンヤリとしか考えていなかったし、だからこそ、受験が終わるたびに次はどうしようかと暫しの思案を必要とする羽目になっていた。


だからいつも、分からなくなる。

高校も大学も、いつも大切な進路は自分では選んでこなかったから。

ただ、憧れた背中だけを追いかけるだけだった僕には、彼のいない世界でどう振る舞えば良いのかが分からない。

間違った道を選んでしまいそうで、少しでも良い道を選びたいのに、どうすればいいのか分からなくなって。

悩み迷うほどに僕は彼に頼りたくなって、そして、ただその背中についていけばよかったあの頃が懐かしくなるのだ。

----もうあの背中は、ここにないというのに。


「--先週の金曜日にね……親友が、亡くなったんだ」


気がつくと、口が動いていた。


「中学からの付き合いでさ、そいつにはある意味、憧れてたんだ。ずっとそいつと同じ未来を目指して、同じ景色を見たくて、ずっとその背中を追っかけて……。でも、大学が離れてからは、少しずつ疎遠になって、気がつけばあいつは彼岸に行ってしまっていた」


静かな時間が流れる。

隣の席も後ろの席も、どこか遠い果てへと消え去って、ただ僕の声だけが耳を打つ。


「聞いてみたかった。この道で、本当にいいと思うかって。いつもいつでも明るかったあいつに、あの笑顔で、あの明るい声で……背中を押して欲しかった。いや……あいつがこの世界のどこかで頑張っていると思うだけで、僕は迷いながらも道を踏み出せた。これまでも、そうやってここまで歩いてきたのだから。----でも、それはもう叶わなくて。彼の背中も見えなくて、彼の存在すらも此岸からはかき消えて、遺された僕はどんな未来を描いていけば良いんだろう……」


本当に大学院に行くのか。行ったとして、その先はどうするのか。

これから歩むことになる未来に、そこを行く自分に、自信が持てない。


「院に行くべきなのかなぁ……無駄に時間をすり減らすだけなんじゃないかなぁ……これからでも、就職するのが正解なんじゃないかなぁ…………」


憂鬱に頭の中身が押しつぶされるような感覚を受けて、僕は机に目を落とす。

考えるほどに、僕だけがこの世界の隅っこに掃き寄せられるような気がして苦しくなった。

何が正解で、どうすれば良いのか……。

抜け出すことのできない考えの泥沼に足を取られて気持ちがズンズンと沈んでいくのを、自分ではどうにもできなくなっていって----。


「何が正解なの? どうすれば良いの?」

「かわちゃんは、どうしたいの?」


--え?


不意に隣から聞こえてきた思いもしない言葉に、僕は一瞬固まった。

目を移すと、ハル姉がくるくるとワイングラスを回しながら僕をまっすぐに見つめていた。

呼び方が昔の「かわちゃん」に戻っていたことにも驚いたけれど、それ以上に言葉の意味がすぐには飲み込めなかった。


「どう……したいか…………」

「それが大事なんじゃないかな」


くるくると回る濃い赤の液体。

ぐるぐる、ぐるぐる。

答えられないままに、ただ僕の目はぐるぐると回る液体に吸い寄せられる。

ぐるぐる、ぐるぐる。


「んっく!」

「あっ……」

「ぷはぁ! ッ~~! 効くねぇ、一気飲みは!」


突然、ハル姉ぇがグイッとワインをあおった。

その豪快な呑みっぷりに思わず目を見張る僕の前で、途端にくわりと大きく開く眼。

そのキマッた目のままに、彼女は語る。


「自分の選択が良いか悪いかなんて、きっと誰にも分からない。いや、そもそも良いとか悪いとかは無くて、その選択はただの分岐でしかないんだと思うよ」

「分岐……」


思わず、唖然とする。

--自分の下した選択が良いか悪いかわからない。

そんなことは考えるまでもなく当然のことで。

でも、それは言われるまで考えることもなかった考え方で。

そしてそれは、まるで渇いた喉に染みる真水のようにスッと胸に入ってきた。


「気にすべきは良い悪いじゃない。大事なのは、どんな未来を望むのか、どんな今を望むのか…………かわちゃんが何を望んでいるのか、だよ」

「何を望むのか……僕は何をしたいのか……」


それは、とても難しい問いだった。

いつからか、やりたいことなんて考えなくなっていたから。

この選択は正しいのか、どう在ることが本当にいいことなのか……そう考えて、自分のしたいことよりも『正解』を追い求めて……。

いつからか、そんなことばかりにとらわれて生きるようになっていた。


だから、『自分が何をしたいのか』なんてことは、ここ最近は考えたこともなかった。

いや……きっと昔から考えたことなどなかったのかもしれない。

ただ親友の背中を追いかけて、目の前のゴールにばかり気を取られて……そこには「自分」がどこにも無かった。

その背中が見えなくなって、ずっと五里霧中を彷徨って、ようやく誰かに見つけてもらってはじめてそのことに気がついたのだ。

僕は、自分すら持たないポンコツなんだ、と。

だから----


「--正直、分からない」


何を望むのか、何をしたいのか。

分からない、分からないんだ--そう、何度も繰り返す僕に、ハル姉ぇは優しく頷いて。


「それを、これから探したらいいんだよ。--大丈夫、かわちゃんはひとりじゃない。私もいるし、ハルも、ヒロもいる。まずはひとりでとことん考えて、主観的に見ても自分の望むものが分からないなら、客観に頼ったら良いさ。そうしたら、意外な発見があるかもしれないでしょ?」


そこまで言い切ると、いきなりハル姉ぇはハル坊の手からワイングラスを奪い取り、一気にあおった。


「姐様!?」

「へーきへーき! こんぐらい!」

「僕のワインは平気じゃないんですけど!?」

「いいからいいから……ねぇ、かわっちゃん」


案の定すぐに頬が真っ赤に染まったハル姉ぇは、少しトロンとした遠い目で僕を見る。


「親友さんのことは……残念だと思う。かわちゃんが『憧れ』とまでいう人だもの。どれだけの人だったか」

「……」

「そんな人には敵わないかもしれないけれど、それでも今あんたの周りには友達がいるのよ。かわちゃんのことを三年もの間そばで見てきた……そんな友達がここにいるの」


知っている。

誰よりも、この三人がそばにいてくれたことを。

いつしか、僕が弱音を溢すことのできるだけの存在になっていたということを。

僕は知っている。


「だから……かわちゃんもしばらく親友さんのことを悼んであげたら、それからは笑顔で前を向いてね。あなたの一番の魅力は笑顔なんだから。私はねぇ……あんたの笑顔がねぇ…………とぉっても、好き。あんたの親友さんも………きっと…………きっとねぇ、あなたのねぇ、笑顔がねぇ、一番……好き。だから…………いつかまたぁ……好きなことをしてぇ…………笑顔にぃ……………………」


そこで、ハル姉ぇは事切れた。

僕の肩に頭を預けて、「すぅーー……すぅーー……」と寝息を立てるハル姉ぇ。

その可愛らしい眠り姫を、僕はどうにもできなくて。


「うぅ……」


--ただ、顔を濡らす大粒の雨を拭うことに精一杯で、僕はどうすることもできなかった。


「……流石は、姐様だよ」


ハル坊が僕にハンカチを差し出しながら、しみじみと頬を緩めた。


「僕じゃ、姐様ほどうまく自分の思いをここまで真っ直ぐには伝えられないや」

「本当に……ハル姉ぇだからこそできる力技やったな」


眠る姐様の手から空になったグラスを静かに抜き取りながら、ヒロが頷く。


「言いたいこと、全部言うてくれた」


その口調は柔らかで、その優しい微笑みは温かくて。こんな風に包み込んでくれる友達がいる事がどれだけ幸せなことだろうと思えば、また何かが胸の奥から溢れてきそうになった。


「大丈夫か?」


いつしか、ハル坊が僕の背中に手を当てていた。

ゆっくり、優しく、落ち着かせるように背中を撫ぜる大きな手。

その温もりとともに、思いが伝わってくる。


「うん。大丈夫。ありがとうね」

「いやいや、僕らは何にも。姐様もお礼を言われるなんて思ってないだろうよ」


友達なんだから辛い時はお互い様さ--ハル坊はそう笑った。

それから店員さんを呼び止めて、お水を二つ頼んでくれた。


「俺からの奢り。太っ腹だろ?」

「タダじゃん」

「タダより高いものはないんだぜ?」


くっくっく、と笑うハル坊に少しだけ顔から力が抜けた。

そうしているうちに水がやってくる。

それを口に含んでいると、「あのさ」とヒロが呟いた。


「少しは、楽になったか?」

「うん。ごめんね、号泣したり……変な話をしたりして」

「いやいや、ええんやで。いつもは俺たちばっかり相談させてもろてたしな。時には話してもらわな釣り合わんわ」


そう笑ってから、ヒロは少し顔を伏せる。


「……親友さんのこと、どんな人やったんか、聞いてもええ?」


遠慮がちな声。

それは、単に親友に対して興味を抱いたとかではなくて、まるで僕のことを慮るような感じがして。

だから僕は頷いてから、ポツリポツリと話していく。

彼との出会いを、彼との日々を、そして、彼と道を別つことになってからの二年半を。

涙は充分に流したから、今度は笑いを持ってその思い出達を丁寧になぞった。


「……良い……友人やったんやねぇ」


充分な時間をかけて語り終えると、ヒロはボロボロ涙を流しながらそう言ってくれた。


「修学旅行で、夜に部屋を抜け出して星を眺めるとか、カップルかよ」

「ロマンチックもろてもうたな」

「思った通りに叫んだんやろなぁ」

「ちゃーかーすーなーー」


笑いながら、二人を小突く。

こうして軽口を叩きながら、鬼籍に入った人の話を当人を知らない人たちとできるのは、仲のいい彼らだからこそで。


「ずっと、親友さんがそばにおってくれはったんやね」

「うん!」

「いつもそばにいてくれて、自分の憧れで……本当にかけがえのない友人だな」

「話聞いてたら俺まで惚れてまいそうになったわ」

「好きになるってことはなかったのか?」

「友達で、憧れの人だったからね。親友でいられることで大満足だったのだぜっ」


笑いながら受け流す。


彼は、恋愛対象だったのか。

中高で周りから散々にからかわれて、考えなかったといえば嘘になる。

でも、彼は『親友』で。

恋人だとか、クラスメイトだとか、そんな数多ある軽薄ですぐに崩れ去るような関係よりも、何より近くにいられてなんでも言えて、そしていつまででも関わることのできる--そんな『親友』でいられることで満足だった。


「まぁ……大学生になってからは疎遠になったけどねぇ」

「言うてたなぁ」

「何かきっかけでもあったのか?」


ハル坊の問いかけに首を振る。


「多分、近すぎたからこそ……お互いのすれ違いに気づかなかったんだと思う」


この間、自分の中で決着のついた言葉を口にする。

数日ぶりに言葉にしてみると、それは前よりも少し寂しい言葉に感じた。


「そっか……とっくに道は分かれてたんだなぁ……」


カラリ。

乾いた音を立てて、グラスに浮かぶ氷が崩れた。

それをくるくると回して、僕は続ける。


「--でも、ひとりじゃない」


--そう、僕はひとりじゃない。


ひとり歩く道の先で、僕はかけがえのない友人たちと巡り合った。

彼らは僕を受け入れてくれる。そう信じることのできる友人だからこそ、僕は悩みを打ち明けることができて。

話さないと言う選択肢を微塵も頭に浮かべることなく、どんな風に相談するかばかりを考えることができた。


もたれかかり、受け入れられる。

そんな友人に再び巡り会えた僕は、とても恵まれている。


「--ありがとう。ヒロやハル坊、ハル姉ぇが友達でよかった」

「「どいたま」」


ニカッと笑う二人と、寝息を立てるハル姉ぇ。

三人に、僕は自分ができるだけの笑顔を見せた。


「さて、かわちゃんに笑顔が戻ったところで……」

「ほんじゃ、改めて乾杯といこか!」

「おう! あっ、その前にそろそろ姐様も起さねぇと」

「そうだね! おーい、ハル姉ぇー! 朝だよー!」

「んにゃ…………あさ!?」

「はいおはよー」

「はいお冷や」

「んんーー…………ん、あんたたちまだ起きてたの?」

「せや。今から乾杯や!」

「かん……かんぱい!? 今何時??」

「十二時だよ」

「まあとりあえず乾杯だ! はいカンパーイ!」

「「カンパーイ」」

「かっ……かんぱーい……」


ハル姉ぇを叩き起こし、乾杯をする。

そのまま流し込むお水は、今日イチ美味しい飲み物だった。


「じゃあ、またこっから頑張るか!」

「一時の閉店まで、まだ時間あるしなぁ」

「よっしゃ!!」


--ざわざわ、ガヤガヤ。

いつしか、店内の喧騒たちも戻ってきていて。今までどこに身を潜めていたのか、僕もそれに身を委ねる。


「ほんっと、あんたたち元気よね……」


そうボヤきながらも、一番ノリノリに口を開くのはハル姉ぇで。

仕切り直してお酒が入り出すと、やっぱり恋愛の話が話題にあがった。

自分たちの最近の恋愛事情だとか、昔の話だとか。

少し下品な話も交えながら、それもお酒のせいにして、ここぞとばかりに浮世の垢をこそげ落としていく。


「やっぱ、良いなぁ」


みんな、たくさん恋をしていた。

出会っては恋に落ち、付き合っては別れて、また出会いを得ては、違うと悩んで。

色恋に縁遠い僕には、それが少し羨ましく感じる。

そんなみんなの恋バナを聞いているうちに、完全復活を遂げたハル姉ぇが、「カッスは最近どうなの?」と、僕に話を振ってきた。

当然のように、濁点は再び奪われていた。


「カッス、顔はいいんだからそろそろいい人見繕いなよ」

「だめだめ。 ぼかぁ、モテたりしまへん」


おどけてみせると、視界の隅でヒロが鼻で笑った。

…………こいつ!! 今、鼻で笑いやがった!! 僕と同じ独り身のくせに!!!!


「今で独身生活何年目だっけ?」


ヒロに拳を叩き込もうと構える僕に、ハル姉ぇが変わらずのテンポで次弾を叩き込む。

味方から背中を打たれるとはこのことか。

歯軋りをしながら、指折り数えてみる。


「二年ちょい? 二年半くらい?」

「……それくらいかな?」

「大学入ったばっかの頃に付き合ってた先輩が最後?」

「うん」


大学生になって最初の半年くらいの間、僕は先輩と付き合っていた。

同じ高校の、一つ上の先輩。

ずっと憧れていたから、付き合えた時はまるで夢心地で、すっごく舞い上がって。

でも、半年くらいで別れた。

キスもなく、それ以上のこともなく。

ただ、3、4回だけ一緒に出かけたくらいの、中学生みたいな付き合いだった。


清純派を気取る気はない。

僕も人の子で、しかもそういう年頃なんだから、当時も、そして今も色々と持て余すことくらいある。

でも、先輩とはそういう気持ちにはならなかった。

こう言うと、失礼なのかもしれないけれど、それは何も先輩にだけではない。

どんな人でも、性的にも恋愛的にも、なんだか「違う」と感じてしまう。

先輩と別れてからも、告白をされなかったわけではない。出会いがないわけでもないし、むしろそこに関しては僕よりもハル姉ぇがヤル気を出して、僕に合いそうな人を見繕わんとしてくれたりもした。

でも、僕は恋することができなかった。

昔からずっと、そうだったのかもしれない。

中学の頃も、高校の頃も、ずっとずっと。

僕は恋をしたことがないのかもしれない。

ただ、親友と一緒にいたかった。

ただあいつとくだらない事を話して、一緒に歩いて……それだけで毎日が楽しくて。

きっと、先輩に対して感じていた好意も、単なる憧れ以上の何でもなかったのだろうと今では分かる。


「先輩には、悪いことをしたなぁ」

「なになに? 何か後悔してるのぉ? 手を出さなかったこと? それとも手を出されなかったこと?」

「ほんっと、姐様は下ネタ好きだよなぁ」


僕の言葉への下品な合いの手に、ハル坊が呆れたような声を出す。


こんなでも、ハル坊とハル姉ぇには恋人がいるらしい。

写真などは見せてくれないけれど、話に聞くその関係はそれぞれとても幸せそうで。

そんな二人が、いつも少し羨ましく感じる。


「まあ、河津は俺の仲間やしな。あんたらみたいに俺を置いて行ったりはせーへんねん! この新快速列車どもが」

「新快速列車って……」

「こっちは定刻通りに走ってるだけよ。ヒロがいちいち止まってるだけなのよ」

「風が吹けばすぐ止まるねん……って、誰が湖西線や!」


風でダイヤが乱れることで有名な関西の鉄道路線を例えに出して、ヒロが首を振る。

さすが関西人と言えばいいのか、一旦ヒロが話の主導権を握ってしまうと、騒がしさのボルテージは一気に上がっていく。

そんな中で、呑んでは笑い、笑っては呑んで。

いつしか夜も更け行く中で、やがて僕らは店を追い出された。

月明かりに浸される街並み。

そこに陽気な声を響かせながら、僕らは駅への道を行く。

フラフラと眠そうだけど、その割に一番明るいハル姉ぇ。一番喧しくて、一番余裕がありそうなヒロ。一緒に笑いながらも、一番落ち着いていて、酔っ払いの僕たちを監督してくれているハル坊。

そんなかけがえのない友達と共にいると、思う。

最近読み進めることのできていなかった手紙をもう一度読み直そう、と。

友人達を見ていると、無性に親友が恋しくなるのだ。

二度と会えなくても、遥かな場所に消え去ってしまっても。

かけがえのない人たちと過ごす時間が、かけがえのない彼との時間を思い起こさせる。

それは、決して覚悟が要るようなものでも悲しみに凌辱されるためのものでもなく。

ただ、君を感じていたい。

今となってはただ一つ、それが叶うものを通して。


「じゃあ、ここで解散だな」


ハル坊とハル姉ぇは電車、ヒロは駅の裏手、そして僕は駅のこちら側。

ここでみんなとはお別れだ。


「おやすみ」

「「「おやすみー」」」


一人になると、途端になんだか世界が広くなったように感じる

まるで蛍のような、眠らぬ街の灯り達。

それらを追い抜き追い越して。僕は足を止めて、その温もりのある輝きに手を伸ばす。


逢いたい。

猛烈に逢いたい。


ただ、君を感じたい。

そんな願いにも似た心の内は、今は灯りに遮られて見えない星空に溶けていった。

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