六葉・頬を伝うのは、雨。
ぼっ、ぼっ、ぼっ。
雨音が、ガラス戸を鳴らす。
そのくぐもった音が響く部屋の片隅で、僕はぼんやりと手元を見つめていた。
「そうだったんだ……」
口から零れた呟きが、僕を現実へと引き揚げる。
いつも飄々としていた彼の思わぬ過去に、しばらく放心した後の一言だった。
放心していたのは、何も悪い意味があってのことではない。
もちろん彼の記したエピソード群に、悲しみや切なさ、同情心といったものを感じなかったといえば真っ赤な嘘になる。
彼の体験した苦しみと、それを思い起こして記したであろうその思いを汲むならば、それらを排除する方が鬼だろう。
ただ、同時に感じた納得や慰み、そして温もり。
むしろ、そういった『安堵』の感情の占める割合の方が存外に大きかった。
手紙を読んでいた時間はたいして長くはなかった。
けれどその後にぼんやりと過ごした時間が存外に長く、気がつくと外は真っ暗に染まっていた。
カーテンを開けたままのガラス戸には、僕を眺める僕が映っていて。
それを見ていると、「そういえば」と記憶の箱がひっくり返される。
「明日、学校とバイトか」
すっかり忘れていた明日の予定を思い出し、吐息をひとつ。
朝から学校に、夜にはバイト。
詰め込んだ予定のことをすっかりと失念していた。
近場とはいえ、流石に今晩も実家にいるわけにはいかない。
慌てて荷物をまとめて居間に顔を出すと、いつの間にやら帰ってきていた両親が僕の方を仰ぎ見る。
「あら、もう帰るの?」
「明日も早いからね」
「晩飯食べていきなさいよ。今6時だから、あと一時間くらいでご飯炊けるよ」
「あ、ほんと? うーーーん……」
少し迷う。
一人暮らしではご飯の用意も面倒ごとのひとつ。
せっかく実家にいるのなら、甘えるというのは定石である。
だが--。
「いいや。今日は友達もうちに来るから」
嘘をついた。
今は、一人になりたかった。
「ごめんね。また今度帰った時にはいただくよ」
「あらそう?」
恐縮する僕に、特に気にした様子もなく母は笑う。
「せやったら、気をつけて帰りや」
「うん。急にこっちに戻るって言った上に滞在日も伸ばして、ごめん」
「何言ってんのよ。実家なんやしそんな遠慮せんでええんよ」
母親の明るい声に、なんだか何かが緩みそうになる。
胸元から込み上げるものを、それでもなんとか飲み込んで、僕は笑顔を向けた。
「まあ、気が向いたらまた邪魔しに来るわ」
「邪魔すんのやったら来んとって~」
「はいよ~」
笑いながら手を振り玄関へ。
靴紐を閉め、荷物を背負い、それからふと思い出して弟の部屋の方へと目を向ける。
「……」
「大丈夫や」
何を思えばいいのか分からなくてぼんやりしていると、いつの間にそばに来ていたのか、父が呟いた。
「ショーマは大丈夫。あいつのことは任せとき」
「……ん」
父の思っていることと今僕が言いたかったことは、きっと少しだけ合っていて、でも少しズレているのだろうと思った。
父は、僕が弟の受験を心配しているのだろうと思っているだろうし、僕は僕でそれだけではないものを抱えていて。
でも、きっと昔は許容できなかったであろうそのズレを、今はそういうものだと受け入れている自分がいた。
全てを正しく理解してもらうことなんてできない。それよりも、こうして心配してくれるほどに自分を見てくれていることや、声をかけてくれるような心遣いをしてくれることがどれだけありがたいことなのか。
親元を離れてたったの一ヶ月で、そう思えるようになっていた。
「じゃ」
「ほいほい。達者でな」
「ん。お父さんもね」
ガラガラと、玄関の戸を閉める。
外は、まだまだ冬の気配が強く残る一面の闇。
街灯の灯りに吐息が白く煌めく中を、僕は黒いアスファルトを踏みしめて行く。
ひとりぼっちの夜道だ。
車もなく、人影もなく。
ただこの世界に一人きり放り出されたような感覚になる。
--あいつも、そんな感覚だったのかな。
不意に、彼の小学校時代の話が頭に浮かんできて、僕はそんなことを考えた。
ひとりきり。
自分の気持ちをうまく伝えられず、大切な人たちは去っていく中で、ひとりきり。
だから、中学ではあんなに明るく振舞っていたのだろうか----。
ひとり歩く夜道の中で頭に浮かぶのは、彼のことばかりだった。
小学校の頃の断続的な喪失。表現の未熟さゆえの誤解。そして自己否定。
改めて振り返ってみると、それこそが僕の知る中学校以降の彼を形作ってきたのかもしれないと思えた。
いつでも明るかった親友。
周りが明るい空気でも少しギスギスとした空気であっても、いつでも--本当にいつでも変わらずに明るいその性質には、時折違和感を感じていた。
だって、人には必ず得意不得意得手不得手が存在する。
なのに、どんな場面でもどんな相手であってもいつも変わらずにいられるなんて、正直少しおかしいと思っていた。
でも、そんな明るさが、実は喪失を繰り返してきたことの裏返しなのかもしれないと思えば、その違和感も少しだけ理解ができた。
--理解はできたけれど。
「なんだか遠い存在みたいだ」
中学から先のエピソードならば、彼のことで知らないことはほとんど無いに等しい。
僕はいつも彼と一緒にいたし、彼の隣から彼の見ているものをいつも一緒に眺めていたのだから。
まぁ、だからこそ、隣に立つ彼のことを見ていなかったという悔恨は生まれたわけだが……。
ともかく、そんな中学以降と違い、僕が関わることの出来なかった小学校時代のエピソードは、あまりにも僕からかけ離れたもので。
僕の手の及ばぬ経験をしてきたのだなと思うと、ほんの少し彼がほど遠い存在であるかのように感じた。
いや、むしろ--。
「安心……した」
抱えていた違和感に、納得が与えられたような感覚。
これまでは、あまりにも近くに彼のことを置こうとしてきた。
彼のことをより親密に思うほどに、その違和感は大きくなって、遠く感じて、感情がぐちゃぐちゃとしたこともあった。
その彼に対する認識や距離感が、彼の過去を知ることでようやく適正距離に落ち着いたような、そんな『安堵』を感じていた。
「親友って言葉に縛られて、拘りすぎてたのかもなぁ……」
中学や高校の彼の歩みについて、知らないことなどない。
でも、その歩みをどう見るか。そこに関わるような彼に対する理解を、僕は彼との関係性に拘るあまりに欠いていたのかもしれない。
だからこそ、これだけ中高の彼を知っていると豪語しながらも、大学生以降にすれ違う事となったのだろう。
それは、彼自身に目を向けてこなかったツケ、なのかもしれない。
「いや………」
過去の、いまさらどうすることもできない悔いを、首を振って霧散させる。
たしかに、そういった姿勢の問題はもちろんあるだろう。
それが大学三年生も終わろうかというこの時期までの二年間、少しずつ疎遠になっていった理由の一つであることは、多分間違いない。
でも、それだけでは到底否定し難い、共に過ごした中高大の六年間も、僕の胸の中には確かにある。
たとえ「親友」という言葉に縛られていたとしても、僕が彼自身を見ていなかったとしても、それでもうまくやっていた時期は確かにあった。
丸二年。
それだけの月日、連絡を取らなくとも、いつでも会えるという信頼があった。
六年という時間の積み重ねが保証してくれていた、『その気になればいつでも会えるという』という確信が。
「……いつでも、か」
僕は、これまで親しい誰かの死に遭遇したことはなかった。
父方の祖父は僕の生まれる前に亡くなっていたし、母には父がおらず祖母が一人で育て上げた。
そして、父方の祖母も母方の祖母も今なおピンピンとしている。
だから、親しい人の死というものがイマイチ実感に乏しい所があった。
--いつまででも、一緒に居られると思った。
そんな親友の嘆きは、だからこそ、なんだか遠いところにある感情に思えて。
そう俯瞰してみると、自分がまだ彼の死を全ては受け入れられてないのだな、と心の片隅でぼんやりと思った。
「あるいは……そこが一番のズレだったのかな」
『いつでも』を疑わなかった僕と、『いつでも』が儚いものだと知っていた彼。
だったら、と思う。
だったら、彼にとってのこの二年は、どう見えていたのだろうか……。
問うたとして、今はもう何も返っては来ない。
『いつでも』は、もう終わってしまったから。
もうその声は、聞けないから。
「…………会いたいなぁ」
いつしか足は止まっていて。
見上げれば、そこには星の海。
その瞬きを眺めていても、涙は出なかった。
*
「ただいま」
真っ暗な部屋の中に声をかけると、静けさだけが返ってくる。
ひと月前から住み始めた部屋。
ワンルームの部屋の片隅にはまだ2、3の段ボール箱が残っていて、まだ自分の部屋だとの実感の希薄なその空間で、僕は腰を下ろす。
念願だった自分だけの王国。
何者にも侵されず、一人きりになれる場所。
実家にいるときにはそんな空間に戻りたくてたまらなかったはずなのに、それが今はどうしようもなく寂しく感じる。
「寂しいよ……」
スマホの画面を開いてSNSのトーク画面を開き、口から零れた言葉をそのまま打ち込んだ。
送信ボタンの上に手をかけて、その四文字をぼんやりと眺める。
僕は決して強い人間ではない。
むしろ、弱いと思う。
弱いからこそ、いつもどんな時にも自分の中には後ろ向きな言葉達が次々と浮かんでくる。
だから、僕はいつもそれらをこうしてスマホに書き出すのだ。
書き出して、しばらく眺めて、そして消す。
指が覚えるほどに繰り返してきたその動作をすることで、僕は弱気を挫き勇気を得ることができる。
二年にも渡って文字の行き来が途絶えているそのトーク画面に、勇気をもらってきたのだ。
「よし」
それは今回も例外ではない。
だらりと垂れた腕には再び血が通い出し、石のように動かなかった足には力がこもる。
そろそろ、立ち上がろう。
そんな声が、脳裏にこだまして僕は動き出す。
荷物を片付け、浴槽を洗って風呂を沸かす。
そうしているとはじめて、僕は空腹に気がついた。
「そういや……朝と昼も食べてないのか」
呟きながら冷蔵庫を漁る。
いまさらご飯を炊く気にはなれなくて、冷凍しておいたご飯や冷凍食品の唐揚げで出来合いの晩御飯をしつらえる。
塩胡椒マヨをつけて食べるのが最近のマイブーム。
カロリーがエグいことくらいは分かっているけれど、どうにも止まらない。
それらを貪るように食べて、食べて、食べて…………。
「はむ……はふ……うぅ……」
気がつくと、涙が溢れていた。
意味がわからなかった。
わけもわからず、でも、涙が溢れて止まらなくなった。
「うぅ……うっ……うぅ……」
泣きながら食べて、泣きながら風呂に入って、泣きながら歯磨きをして。
「もう寝よう」
もうそれ以上何もする気になれなくて、布団を敷いて、電気を消して、横になる。
真っ暗な部屋の中でひとり目を閉じていると、まつげが温かく濡れる。
その温もりが、なんだか寝付かせてくれなくて。
--そうか、また明日から学校とバイトだ。
また嵐のように忙しい一週間が始まることに意識を無理やり持っていくと、さっきとはベクトルの異なる憂鬱が胸に溢れてきて。
でもそのおかげでようやっと、すぅ……と眠りに沈みこむことができた。
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