二葉・宵の余韻に依ってるようで。

翌日、目が覚めたのは陽もすっかり登った正午の事だった。


「うぅ……」


猛烈な喉の渇きと重い瞼に思わず漏らした呻き声は酷くしゃがれていて、僕はそれが自分の声だとは一瞬気がつかなかった。

ガンガン鳴る頭を振りながら起き上がり、台所に立つ。

休みのはずの両親は共に姿が見えなくて、ラップのかけられたご飯だけが僕を迎えてくれた。


ティファールに水を入れてボタンを押し、お湯の沸く間に顔を洗って口をゆすぐ。

揺れる視界になかなかタオルが掴めず、モタモタとしている間にカチリとお湯が沸いた。


「ほぅ……」


白湯を呑む。

ほんの少しだけ頭痛が和らいだ。

頭痛が和らぐと、自由を得た脳みそは勝手に前日の記録をトレースし始める。


「一人で歩いて帰ってきたのか……駅前で夏波と別れたんだっけ? 三軒ハシゴして、お酒呑んで……その前は湯豆腐か? いい歳した二人が泣きながら食べて…………」


ダイニングの椅子に腰掛けて、昨晩の出来事を終わりから順繰りに辿っていく。

朧げな記憶を探りもって、感情の断片を繋ぎ合わせて。


「--泣きながら?」


一瞬、息が出来なくなった。


「そうだ……」


泣いていたんだ。

友達が死んだから。


思い出すと、途端に目頭が熱くなった。


「ダメだなぁ……」


昨日や一昨日は、まだマシだった。

彼が死んだということに実感が持てなかったということもあるのだろうが、心は揺れることなく常に平静であれた。


でも今は違う。

後悔、哀しみ、孤独、苦悩、そして罪悪感。

些細な衝動から瞼には涙が溢れ、鼻の奥はグッと詰まる。

胸は締め付けられるように息が出来なくなって、気がつけば嗚咽が零れて……。


「あぁ…………」


どうにも……ダメらしい。


たださめざめと泣いて、泣いて、泣き続けて。

そんな自分に、嫌気が差す。


「そもそも……」


そもそも、泣く資格なんて僕にはあるのだろうか。

そんな問いかけが胸の内に溢れ出す。


僕は、彼のことを何も知らなかった。

あれだけ良くしてくれた彼のことを、僕は何も知らなかった。

そのことに……いや、そのことにすら気がつかなかったことに、僕の胸の奥で煮え立つような怒りが噴き上がる。


もう遅いのだ。

今さら彼のことを知りたいと思っても、もう彼はここにはいない。

もう、彼が何を思ったのかを知るすべも無く、彼がどんな人生を歩んできたのかを知ることも叶わず。

ただ、己の矮小な在り方と彼に対する消えることのない罪悪に後悔を抱えながら生きていくしか…………そうして、ただ彼のいない世界で生きていくしかないのだ。


「大丈夫……?」


目元が再び熱くなるのを感じていると、声が聞こえた。


「ショウマ……」


弟がいた。

心配そうな顔で、そこに立っていた。


「すごい顔だよ……? ちゃんと昨日、寝た?」

「んっく……」


答えようとして、喉から音が漏れる。

声が出なかった。


「あぁ……」


ただ、悲しい。

ただ、哀しい。


辛い。

辛い。

辛い。


「あぁぁ……」

「……」

「ああぁぁぁぁ……」


今まで、曲がりなりにも順序立てて組み上がってきた感情のタワー。

それが、音を立てて崩れ出す。

そうしてぐちゃぐちゃになった感情たちに染められて、ただ泣き呻く事しかできなくなって。


「……大丈夫。大丈夫だよ」


そんな僕の背中を、弟は静かにさすってくれた。

気遣うように、労わるように。

ただ、僕の背中を優しく優しく撫ぜてくれて。

その大きな手の温もりに、僕は次第に落ち着きを取り戻す。


顔は伏せたままで、しゃっくりは止まらなくて、涙は袖を濡らしたまま。

でも、荒れ狂う高波のようだった心のうちは、いつしか凪いでいて。

泣き疲れたのか悲しみ疲れたのか、そのうち僕は泣きながらもうつらうつらとし始めて。


「良いよ。ゆっくりお休み」


その優しい声に、僕は甘えてしまう。


--本当は、年長者としてしっかりとしていなければいけないのに。


そう呟く僕も、僕の中には確かにいて。

でも、磨耗した心はつい弟に寄りかかってしまう。


「ありがとう」


そう呟いて、僕はただ重く沈む瞼のままに、目を閉じた。


ゆっくりと静かに、そしてゆったりと、僕の全てが沈みゆくような感覚。

どこまでも、どこまでも果てない時間の中で、どこまでも深く、深く、僕は沈んでいく。

上体を伏せていた机も、腰掛けていた椅子も消え去って、ただ温かく優しいものに包まれて。

僕を包むものに意識すらも溶け出すように、僕は眠りについた。




--どれだけの時間が過ぎたろうか。


暗い……どこまでも暗い世界の中で。

僕は、ひとつの背中を追い歩いていた。

いつから歩いていて、いつまで歩き続けるのか。どこからやってきて、どこへ向かうのか。

それは分からない。

ただ、僕とその背中以外に何も見えない世界の中で、僕はそれに何の疑いも躊躇いもなく追い続ける。

でも。

時折振り向きながらも、決して止まらぬその背中は、どれだけ足をはやめようとも追いつけなくて。

少しずつ少しずつ小さくなっていくその背中に、やがて僕は諦めて膝をつく。


闇に紛れて消えゆく背中。

その背中は親友のものなのだろうと分かった。

何か証拠があるわけでもない。

ただ、そのはずだという確信があった。

そして、その確信が教えてくれる。

もう少し歩けば、僕は彼を追い越してしまえるだろう、と。

だから頑張れ、膝を折るな、と。

そう、『確信』は僕を叱咤する。


だから、僕は立ち上がらない。

僕が望むのは彼の隣に追いつき並ぶことであって、「追い越す」ことなどではない。

追い越してはいけない。

一度追い越して仕舞えば、もう二度と彼の元には戻れないと知っていて、足など動かせるはずもない。


立ち上がることも出来ない僕は、地面の砂を掴み取る。

ただの時間潰しだ。

けれど、その土を掻いてみて、ふと砂の下に何かが埋まっているということに気がつく。


「封筒……?」


そこには茶色い封筒が砂に埋れていた。


--これは鍵だ。


そんな確信が、僕の胸を突いた。

鍵。

今はもう他に術はない、彼を知るための鍵。

彼の側に至れる、鍵。

僕はそれを引っ張り上げる。

砂を払えば、そこには僕の名前。

僕の--。



「僕の……名前」


その瞬間、まるで水から浮き上がるように僕は眠りから覚めた。


「あ、起きた? おはよう」

「あぁ……」


硬い机と痛む腕。

口元と、それから頬には雫が濡れる。

夢を見ていたんだと思った。


「どれくらい……寝てた?」

「30分くらいかな? もう一時だよ」

「そんな時間……」


二度寝の前よりかは、色々なものが幾分か楽になっていることを実感しつつ、僕は顔を拭う。

右手を握りしめたまま、寝間着の袖でゴシゴシと。

それから僕は立ち上がる。


「どこ行くの? ご飯は?」

「今は良い」


足元がおぼつかない。

座っているうちはマシだったのだが、急に立ち上がったことで頭はクラクラとした。

それでも、壁に手をつきながら自分の部屋に入ると、僕は机の上に放り出したままの茶封筒に手をかけた。


「それは?」

「宝の地図」

「なんやそれ」


弟はほんの少しだけ笑って、それから「部屋に戻るね」と扉を閉めた。

僕がどんな顔をしていたかは知らない。

でも、大切なことだろうと、察してくれたのだろう。


「さて……」


椅子に腰掛ける。

手にした茶封筒には相変わらず「彼」の几帳面な字が静かに並んでいて。

わざわざ、僕のためにこれを遺してくれたということに、相変わらず実感が湧かなかった。


けれど。


夢を振り返る。

真っ暗闇の世界の中で。

夢に見た彼は、三年前までの彼のまま、常に僕のことを気にかけてくれていた。

その、何度も振り返ってくれた顔にはきっとなんらかの表情があったはずで。

でも、その表情も、目鼻立ちすらも思い出せない。


「見て……無かったのかな」


写真に手をかけ、「なぁ、親友」と声をかける。

僕の隣で微笑む親友は何も答えてくれない。

彼自身を見てこなかった僕は、その表情から何も読み取れない。


今更遅いということは分かっている。

分かっているけれど--。


「開けよう」


彼を知る、その最後の鍵が手の中にある。


怖いという思いもある。

開けて中身を見てしまえば、彼の死が完全に不可逆なものとして固定されてしまうような、そんな取り返しのつかないことへの恐怖。


でも、覚悟は出来た。

望みも生まれた。


だから----。


「原稿用紙……手紙?」


のりどめされた茶封筒を切り開けると、中には分厚い原稿用紙の束が収められていた。

四百字詰の、文房具屋さんでよく売っている標準的な原稿用紙。

その上には几帳面な字が美しく整然と並んでいた。


語るべきことがそれだけあったのか、伝えたい想いがそれだけあったのか。

でも、その分厚さとは裏腹に----。


「『将来に希望が持てなくなった』……?」


手紙は、そんな絶望とも取れるような冒頭から始まっていた。

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