彼岸の君との別れ方

ねこたば

一葉・雨の葬式

「これをどうぞ」


そう言って渡されたのは、分厚い茶封筒だった。

僕はその封筒を抱きしめたまま、それを手渡してくれた少女が遺族として車に乗り込むのを見送った。

その目が、一切の感情を伺わせないものであったことに何も言えないまま、何も言わないまま。


雨の葬式だった。

もうすぐ春だというのに、冷たい雨が朝からシトシトと降り続いていて、そのあまりの冷気は葬式の湿っぽさすらもどこかへと連れ去っていくようで。

それは、生前明るかった彼の去り際としてはとても相応しいように感じた。


彼は、僕の親友だった。

親友「だった」。

そんな過去形には、もちろん彼がもう鬼籍の人であるということも含んでいるけれど、それ以上に、成人式以来一年も会っていないという事情もあった。

中学一年生の入学式の日に初めて言葉を交わして以来、高校卒業までの六年間を僕らは同じ教室で過ごしたというのに。


大人になって、「一年」の長さや意味合いが昔とは少し変わったとはいえ、やはり365日という時間は重く、果てしない。

いつのまにか遠くなってしまったふたりの距離は、その気になればいつでも会えるだろうという慢心故に、永遠の距離になってしまった。


黒い人波が流れていくのを背中で感じながら、僕は手元に目を落とす。

角形A3サイズの茶封筒。

表にはその几帳面な字で、僕の名前が書いてあった。

一瞬それを指でなぞって、それから思いの外に分厚くて重い封筒を鞄にしまう。今すぐ開けようという気には、ならなかった。

そのまま、黒い流れの一部となって外に出ると、相変わらず雨が降っていた。

葬式の日に雨が降ると、必ず誰かが「天が泣いている」と言う。

だけど、僕にはどうにもそういった情緒はないらしい。

ただ、肩を濡らす雨が鬱陶しく、澱む空気が煩わしく感じるだけだった。


しばらく歩いて、駅についた。

電車を待つ間、ただぼんやり立っていると頭の芯が霞みがかってくるような感じがして、気がつくと僕は茶封筒を鞄から引っ張り出していた。

重く分厚い茶封筒。

その真ん中に書かれた四文字の漢字と再び対面する。

それは紛れもなく彼の筆跡。

その見慣れた字が醸す不思議な日常感は、もうすでに書いた当人がこの世にはいないということをまるで夢か嘘かのように感じさせる。

動かない君の瞼も、雨の日の静けさも、まるで全部虚構のように…………。


「はぁ……」


--それ以上、そのことを考えたくなくなって、僕は茶封筒を開けもせずに再びカバンにしまい込む。

手持ち無沙汰に時計を見ると、ちょうど針は二本とも12のあたり。

まだ昼前。これから長い長い午後をどう過ごそうかと考えながら、スマホを取り出す。

半ば夢見心地で、思考も働かないままに親指が動く。

この数年で何度も繰り返して、いつしか指が勝手に覚えた一連の動作。

それが、やがてスマホの画面を見覚えのあるものとしてから、僕はハッと気がつく。


--そうだ。


「彼は、いないんだ……」


画面に表示された親友の名前を見ながら、小さく呟く。


彼と会わなくなって、丸二年。

時々……というにはあまりにも頻繁に、SNSの彼とのトーク画面をスマホの画面に呼び出してきた。

親友として聞いてほしい話、親友にだけ相談できる迷い、親友にだけは寄り添ってほしい想い…………何かに蹴躓く度に、僕はその名前を画面に呼び出してきた。

結局一度も言葉を送ることはなかったけれど、いつしかスマホのホーム画面から彼とのトーク画面を開くまでの操作手順を指が覚えてしまっていた。

最後の会話の日付が、いつしか二年半も前になってしまった、彼とのトーク画面の開き方を。


「『君に会いたい』なんて……」


自分の打ち込んだ言葉から物思いにふけるうちに電車がホームに滑り込んできた。

それに僕はため息を一つついてから、スマホを閉じて電車に乗り込む。

平日昼間のローカル線はガラガラで、容易に席を取ることが出来た。

ロングシートの背面の窓に頬をくっつけると、微かに曇る窓ガラスの向こう側で景色がゆっくりと動き出す。

もう、スマホを開く気にはならなかった。


曇天の下、懐かしい街並みがゆっくりと流れていく。

葬式は、彼の家からほど近い場所で執り行われた。

車窓に流れるこの辺りの風景も、かつてはよく二人で歩き回ったものだったが、それももう三年前の話。

大学生になり別の街にばかり繰り出すようになって、この辺りにはついぞ寄る事など無くなってしまった。


「そういえば……」


ふと、思い出す。

何がきっかけだったか、以前彼と遺書の話をしたことがあった。

その頃の僕は、「死」なんてものを数十年先の未来の話か創作の中だけの縁遠い存在だと思っていた。

だから、そんな話を雑談のひとつとして消費出来た。

そんな僕に、親友は真面目な顔をして答えてくれた。

遺書を書くなら自分の人生を書いてみたい、と。

どんな人生を歩み、何を思ったのか。それを、言葉として誰かに残したい、と彼は言った。

いつになく真剣な声だったから、ハッキリと耳に残っていた。

まさか、その数年後に「死」に見舞われるなんて知らない高校生の僕は、ただその言葉を心の片隅に留めることしか出来なかった。


「高校、か」


そういえば、母校はこの近くだった--そんなことを思って、僕は窓の外に意識を向ける。

思った通りに、やがて懐かしい高校の校舎が、チラリとその姿を見せる。

白く、規律正しき四角い校舎。

溢れんばかりの思い出を収めたその箱は、まるで僕に手出しさせまいとするかのように、瞬きの間に流れ失せる。

これより先は、平々凡々の住宅街が並ぶだけ。

見るものが無くなり、それでも僕は頬を冷たいガラスにつけたまま、微かに薫る在りし日の残滓を抱きしめる。

もう、戻れない。

その郷愁と空虚感を胸に宿してまぶたを閉じると、今はもう潰れてしまった、学校帰りに二人でよく寄ったたこ焼き屋さんの味が不意に舌の上に蘇ってきた。



--あの桜の木、カワヅザクラって言うんだよ。


中学校の入学式直前。

事前に振り分けられたクラスで席についていると、隣の席に座っていた少年が突然声をかけてきた。


--かわづ……?

--『カワヅ』。君の苗字と同じ読み、だよね?


いつの間に確認したのか、僕の苗字を口にして、彼はニッと微笑んだ。


不安だった。

小学校を卒業した春に、僕は家の事情で見知らぬ土地に引っ越してきたばかりだったから。

新たな環境、新たな土地、新たな人。

うねる波のように、不安が胸の中をかき乱していた。

そんな時に、明るく声をかけてくれた彼の姿は、僕にとってとても眩しくて。


そんな初対面だったからこそ、僕は……僕は…………。


「あ、みぞれ……」


傘の外を流れる景色に白いものがあることに気がついて、僕の目の前に見えていた過去の情景は一気に色褪せ消えていく。


葬式からの帰り道。

暖房の効いた電車を降りて見飽きた景色の中を歩いているうちに、いつしかかつての遠景を見ていたらしい。

それに夢中になっているうちに、気がつくと僕は実家の前まで帰り着いていた。


「ただいま」

「おかえり」


久しぶりの実家。

ちょうど一ヶ月ほど前に一人暮らしを始めたばかりの僕にとっては思いもかけない早めの帰還で、実家特有の空気感にも懐かしさは欠片も喚起されない。

そんな家の玄関で、神妙な顔の弟が僕を出迎えてくれていた。


「あらあら高校三年生の受験生さん。まだ午前なのに家にいていいの?」

「高三の二月なんて、授業も無いんだぜ? 学校もわざわざ受験生に来いとは言わないし」

「なるほど。それで自宅警備に精を出していたってわけね。お勤めご苦労様です」

「ひどい言い草だなぁ」

「風呂場借りるよ」

「実家なんだから好きにしなよ」

「はいはい」


困ったような顔をする弟に笑いかけて、それから荷物を置いている部屋へと向かう。

一瞬でも早くこの窮屈な服を脱ぎ捨てて、陰気な気持ちをシャワーで洗い流したかった。


「ねぇ」

「ん?」


鉛のように重い足を引きずるように歩いていると、遠慮がちな声に呼び止められる。

振り返ると、玄関で外に向いたままの弟の背中。

その、いつもよりどこか小さく見える背中が、弟の言わんとすることを教えてくれていた。


「今日のこと……その……」

「うん。ちゃんとあいつにはショウマの分まで手を合わせておいたから」

「…………うん」


親友は弟に優しかった。いつも弟を「ショウマ、ショウマ」と可愛がり、いろんなところへ遊びに連れて行ってくれた。弟も弟でそんな親友のことを実の兄のように慕っていて、彼と同じ大学に行くことを目標にして受験勉強をしていたくらいだった。

その親友が死んでから三日。

昨晩、弟は葬式には出ないといった。自分は勉強をしなくちゃいけないんだと言って机から離れなかった。

大学の合格通知を彼への手向けにする----そう言った弟の目には涙が浮かんでいた。


シャワーを浴びる。爽快感はみじんもない。

当然だ。

湯浴みは、疲れた身体にこそ心地よい。

ただ座って手を合わせていただけの数時間に、疲れる要素などあるはずもない。

快活とした身体にとって、まとわりつくような温水と蒸気は、ただ鬱陶しいだけだった。


結局、カラスの行水かと見紛う早さで風呂場を後にする。

弟は自室に戻ったらしく、ただ静寂だけが僕を迎えてくれた。

服を着て、冷蔵庫を開ける。牛乳はなかったから、仕方なくインスタントのコーヒーを淹れた。

コップを片手に、かつては自室として使っていた部屋に入ると、飾ったままにしてあった親友とのツーショット写真が目に入ってきた。

ぼんやりと、写真を指でなぞる。

特に何の感慨も、憂愁も、憐憫もなく。

ただ、なぞるだけ。

自分でも驚くほどに心は動かなかった。

さすが、「親友『だった』」と言えるだけのことはあるなと、思った。


ブラックコーヒーに口をつけて、虚空を仰ぐ。

ぼんやりと、何をするでもなく。

ただコーヒーを飲んではコップを置き、また飲んではコップを置き。

しんしんと静けさが降り積もる部屋の片隅に一人でいると彼のことを思い出す--なんてことはない。

ただ、頭の芯が重く霞むような感覚にぼんやりとするだけ。

時計の音がやけに大きく聞こえたり、遠くを走る電車の音が届いたり。

そうしてどれだけの時間が過ぎただろう。

湯冷めにそろそろ暖房を入れようかと思い始めた頃、電話の音が耳を打った。



朝から降り続いていた冷雨は、夕刻過ぎに雪へと変わった。

今が盛りと彩る梅花に白雪の降りかかる様は、改めて春の遠さを実感させるようで。

それを窓の外に見ながら、僕は温かな湯豆腐を口にする。


「今日はお疲れさまだったね」


鈴のような声が、耳を打った。

顔を上げると、小さなコップを手にした女の子の目が優しく僕を包み込む。


「こんなに寂しい半日は、久しぶりだったよ」


呟き、彼女もまた湯豆腐を口にした。


湯豆腐を食べよう--目の前の彼女がそんなお誘いの電話をかけてきたのは、いきなりのことだった。

何かを口にしながら、僕と話をしたいと……彼女はそう言ってくれた。

しかし、何かを食べながらといっても、葬式の当日に何でも食べて良い道理はない。

精進料理なんてものはよく分からないが、ともかく肉や魚は避けなければ--そう考えて彼女が選んだのが、湯豆腐だったのだとか。


「おーい?」


そんな風に、湯豆腐のことを考えていると、彼女が「大丈夫?」と僕の顔を覗き込んできた。


夏波なつは……」


彼女の名前をよぶと、夏波は少しだけ目元に労わりの色を浮かべた。


「やっぱりボーッとする?」

「ううん。大丈夫。ちょっと湯豆腐のこと考えてただけ」


分かっている。


湯豆腐のことなんて、どうだっていいということくらい。

話をしようと誘ってくれた人を前にして、ぼんやりとしてる場合ではないということくらい。


それくらい、とっくに分かっていた。

分かっていながら…………それでもそのことを脳みそから引き剥がすのに少し時間がかかった。


「……お葬式、思ったよりも明るい雰囲気だった」


気を取り直して、僕はお茶をすすりながら呟く。

そしてすぐ、それがさっきの彼女のセリフに対する返答としては相応しくはないことを自覚して、僕は言葉を重ねた。


「あれなら、あいつも寂しくはなさそう」

「そうだね」


夏波は頷いて、でもその目は暗いような暖かいような、色んな色を湛えていて。

その目の色のまま、彼女は何かを吐き出すように小さく続けた。


「中学の頃からずっと、明るいことが好きな人だったからね」

「……」

「懐かしいなぁ……。あの頃みたいに、またいつか三人で会いたかったなぁ……」


夏波もまた、彼と同じ中学校に通っていた同級生だった。

僕と親友と、そして夏波。

三人は度々一緒に遊んだりする仲だった。

夏波だけ別の高校に行ったこともあって、一時は少し疎遠になりかけたりもしたけれど、成人してからはまた一緒にお酒を呑んだりご飯に行ったりするようになって。

でも、また集まるようになっても、その席に彼はいつもいなくて。

いつかまた、三人で話す機会もあればと二人で話していた。


「だけどまさか、三人揃うのが葬式になるなんてね」

「……」


僕は答えず、お茶を口に含む。

静かな店内。

暖かな湯豆腐と少し熱いお茶が凍える身体を溶かしていく。

身体が溶かされ心がほぐれると、口が緩む。


「初めて会った時のこと、今でも覚えてるんだ」


入学式のあの日。

未来に落胆し、灰色に色褪せた僕の世界が、彩りと輝きを取り戻したあの日。


「入学式の日、彼が話しかけてくれたから、今の僕はあるんだ」

「入学式の時のって、あの桜の話でしょ?」


遠いところを見るように話していると、目の前で女の子が笑いだした。


「桜の種類が間違ってたってやつ」

「笑うなよぉ~」


思い出し、爆笑する夏波に釣られて半笑いになりながらたしなめると、彼女は「だってぇ」と笑いながら返す。


「あいつ、ドヤ顔で話しかけながら間違ってたんでしょ?」


--カワヅザクラって言うんだよ。


そう言って話しかけてきた、在りし日の彼。

その頃の僕は桜の種類になんて興味が無かったから、それをそのまま受け入れて、そして彼のことを博識な人なんだなぁと思ったりもしたものだった。

彼の指差す「カワヅザクラ」が、実は「エドヒガン」と言う種類の花だなんて、知らなかったから。


彼の間違いが露呈したのは、彼と夏波とそして僕が仲良くなって随分と経ってからで、そのことは僕らの中では笑い話になっていた。


「でも、あの時に間違えてくれたからこそ、僕は彼と仲良くなれたんだと思う」


彼の間違いなんて些事でしかない。

笑いながらも、僕は思う。


彼が話しかけてくれた。彼が、僕の名にかけた話を振ってくれた。

ただそれだけのことが、彼のそばにいる理由になった。

そんな出会いだったからこそ、僕は彼のそばにいたいと……そう思った。


「懐かしいなぁ……」

「……」

「懐かしい……懐かしいなぁ……」


笑いながら、滲む視界に鼻をすする。

視界がぼやけると、今度はとめどなく彼への想いが口から溢れる。


彼はいつでも明るく、そして優しい人間だった。

クラスの中心にいたわけではなかったが、誰とでも話す事の出来る人間で、しかもその少し抜けた性格もあってか、男女問わず誰からも愛され、友人も多かった。

そんな彼の姿を、僕はいつも斜め後ろから眺めていた。

まだまだ追いつけないといつも感じながら、それでもその眩いばかりの後ろ姿に導かれ、その光に憧れ、目標にして歩いてきた。

親友として、憧れの存在として、いつも僕は彼を見ていた。


そんな、彼への想いを。

とめどなく溢れるその感傷を口にしていく。


「……本当に、あいつのことが好きだったんだね」


酒を呑み、湯豆腐を食らって、また酒を呑む。

そうして語る話に尽きることはなくて。

そんな僕に、夏波は優しく包み込むような微笑みを向けた。


「うん。憧れだった」


その顔に絆されて頷くと、急に夏波はニヤニヤとし始めた。


「あいつが他の男の子とか女の子と話してる時のあんたの顔、ずっと見せたかったんだ」

「え?」

「すっごい顔してたんだよ。ムッスー!って!」

「嘘!? マジで!?」


さっきまでのしんみりとした空気は何処へやら、突然のカミングアウトに顔が火照るのを感じた。


「ないないない! そんなことはない!」

「あっはっは! だからみんなで言ってたのさ。この二人、いつか付き合うんじゃないかって」

「そんなことあるか!」


思わず笑いが零れた。

笑って、そうすると、楽しい思い出が湧き上がる。


「そんなことはあるはずなかったけど、でも中学の間はいつも一緒にいたなぁ」

「あれでしょ? 中一の時の奈良への校外学習の時も! 二人は同じ班で」

「そうそう。夏波だけ違う班になっちゃったんだよ」

「そう! それがとっても残念で! だから、修学旅行の時、二人と同じ班になれて嬉しかったんだ!」

「うんうん! 東京、楽しかった」

「覚えてる? 浅草のお寺で、あいつがバカをやらかしたこと」


「覚えてる覚えてる! 本堂の前で、アホみたいにお線香を大量に燃やしたんだよね!」


ひとかたまり百円のものを五つ。

張り切って、自由行動の班のメンバー全員分を買ってきた彼には度肝を抜かれたことを思い出す。


「『こうしたら頭が良くなるんだ』って言ってね」

「ブワァァア!!って煙が立ってる中にむせながら頭突っ込んでたよね」


天高く昇る煙に涙目になりながら頭を突っ込んでいた彼を思い出す。

目にはいっぱいに涙を溜めながら、それでも彼は笑顔で、そしてとても楽しそうで。

だから、気がつけば僕たちもみんなでその煙の中に頭を突っ込んでいた。


「くだらないことを、ほんっとに楽しそうにするんだもん……」

「見てるこっちまで楽しくなる」

「ほんとにね……」


いつも、目の前のことにまっすぐで、一生懸命で。でも、「熱血!」というような変なくどさはない。

そんな楽しみ方をされるから、いつも僕らまで楽しくなって。

だからこうして、数年経っても笑って話せるかけがえのない思い出と友達が残っている。


「本当に、彼といて楽しかった……」


数多溢れる思い出たちに、気がつくと僕らはすっかり泣き腫らしていた。

今はもう戻らぬ日々に、涙を流して。


「……そういえばさ」


二時間ばかり語り合って。

話題と話題の間隙に、ふと夏波が呟いた。


「あいつはいっつも明るくて優しかったけど、どんな育て方をしたらあんな風になるんだろうね」

「育て方かぁ……気になる?」

「育て方っていうか、どんな人生を送ればあの年からあんなに大人びた人になれるのかが気になるというか」


大人びた。

その言葉は、彼の不思議な存在感を的確に表現しているように感じた。


「そうだね。どんな……どんな人生、か……」


大人びた彼の人生……。


--彼の人生?


「あれ?」


口元に持ってきた手をそのままに、僕は固まる。


「どうしたの?」

「いや……うん…………」


曖昧な返事をして、覗き込んでくるような夏波の目に目を向ける。


「たしか、彼は中学入学直前にこの街に引っ越してきた……んだっけ?」

「そうじゃなかった? なんかそんな話を聞いた気がする」

「じゃあ、どこから来たの?」

「えと、北のほう……南だっけ?」

「どこだっけ……僕も分からないや」


背筋が凍るのを感じる。


「え、じゃあ、家族構成は……?」


同じく戸惑い気味の夏波は、さらに問いを投げかける。


「多分両親がいて……兄弟はいたのかな?」

「今日、僕は妹さんと話をしたよ」


茶封筒を渡されたことも思い出す。

結局、あの中身は見ていない。


「妹さんがいて……それ以外は分かんないや……」


投げ出す夏波に僕も頷く。

今まで限りなく近しい人の話をしていたはずなのに、なんだか急に寂しさが押し寄せてきた。


「……知らないことばかりだね」


ポツリと夏波が呟いた。


そう。

僕らは何も知らなかった。

彼とのエピソードは沢山あるくせに、彼自身のことは何も知らなかった。


「知らなかったんだ……」


さっきとは違う涙に頬を濡らさんとする少女を見ながら、僕はポツリと呟く。

その事実に、これ以上素面ではいられなかった。


それからのことはあまり覚えていない。

ただ、二人でお酒を呑んでは新しいものを注文し、お店を変えてはまたお酒をかっくらい。

ただ二人で浴びるように酒を呑んで、呑んで、呑んで。

そうして、酩酊状態のまま気がつくとひとり、実家の自分の部屋の机に突っ伏していた。


何も覚えていない。

何を話したか、何を思ったか、何を嘆いたかすらも忘れてしまった中で、ただ一つだけはっきりと覚えているものがあった。


それは、葬式で渡された茶封筒のこと。


寄せては返す波のように、あるいは寿命間近の蛍光灯の明かりのように、ついては消える頼りのない意識の中で、僕はぼんやりと思ったのだ。


彼が、僕に何を遺したのか。

僕だけに、何を遺したのか。


僕は何も知ってあげられなかったのに、知ろうとしてあげられなかったのに。

そんな親友失格の僕に、彼は何を遺してくれたのか。

それを知るだけの勇気も覚悟も固まらないまま、僕は夢の世界へと沈み込んでいった。

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