第9話『早川希華という少女(後編)』☆
無意識にも、生まれて初めて外へ出たこの時の心境は、怖いとかそんなことは微塵も考えていなくて……。
ただまれちゃんに一刻も早くお絵描き帳を届けてあげたいの一心で、それに今日はお別れした彼女にもう一度会える、なんて思ったり。
ふと胸が高鳴った、この気持ちが何なのか今の俺にはまだわかっていなかった、ただ彼女といると胸が暖かくなって、安心するような気持に慣れて……。
『まれちゃんと一緒なら、外も怖くないかも』
彼女へと伝えたあの言葉は本心だった。
まれちゃんの家がどこにあるかは遊んでいる時に聞いていた『あの赤い屋根がわたしのおうちなんだよーっ』とニコニコしながら話してたのを覚えてる。
今も昔も、まれちゃんは可愛い。
走って1分もせず彼女の家へたどり着くが幼い子供には少し長く感じてしまう時間だった。
息を切らしながらドア横のインターホンを押して少し待つ、俺を出迎えたのは早苗さんで俺を見ると彼女はものすごく驚いていた。
「えっ、恵斗くん!?」
「これ、まれちゃんがわすれていったから!」
「そ、それはわかるけど……」
驚いてる早苗さん、それも当然だろう。
今日に至るまで外へ出ることを怖がっていた男の子が、近所とはいえ今ここに居るのだから。
「ママ~? どうしたの~?」
戸惑っていた早苗さんの奥から、会いたかった彼女がトコトコとやってくる。
「あ、けーくんだ!」
俺の姿をその可愛らしい目に入れると、まれちゃんは目を輝かせて笑顔になり駆け寄って俺に抱き着いた。
「えへへ~、けーくんにまた会えた~」
無邪気な笑顔を浮かべるまれちゃん、まるで何か大きなご褒美をもらったかのようにぎゅっとしがみついている。互いの頬がくっ付き、彼女の暖かさが頬を通して身体全体に広がる。
「わたしに会いに来てくれたの?」
「う、うん……」
「嬉しいっ! ぎゅ~っ!」
再び強く抱きしめられる。
その行為に早苗さんは『え、尊い……』と小さくつぶやいた。
心臓はまるで跳ね上がるように鼓動を打ち続けていくのを感じる。
彼女に抱きしめられることで湧き上がる安心感と胸の高鳴り。
この気持ちの正体はきっと……。
しかし幸せな気持ちも束の間。
「や、やっとご尊顔が見られた……っ! この子があの一ノ瀬恵斗君ね!」
「カメラを早く! 貴重なシーンよ!」
「え、え!?」
完全に忘れていたけど、俺は今家の外にいた。
無意識に、彼女の元へ向かったのは良いけど、ここは俺が怖がっていた外の世界。
それはもちろん、俺に恐怖を植え付けた女性たちがいるところだった。
ペンやノート、カメラを持った諦めの数人ぐらいの大人の女性。
「この地区初めての男子の一ノ瀬恵斗君、 取材をさせてください!」
「おほぉ……っ、カッコよさで眩しい」
「この記事は売れるわよ……っ!」
フラッシュバックするあの時の眼差し、薄れかけていた恐怖の思い出が蘇っていく。
「あ、あぁ……っ」
頭が真っ白になり言葉が出ない。
逃げなきゃ、今すぐこの場から逃げないといけないのに足が動かない。
「一ノ瀬恵斗君、どうして今まで外に出なかったの?」
「どうして今抱き合ってたの?」
「その女の子は誰、特別な関係なの?」
彼女たちは一斉に質問を浴びせかけ、カメラを容赦なく俺へと向けた。
この世界で初めて接する赤の他人の大人たちは目が血走っていて……怖い。
「答えてよ、一ノ瀬恵斗君!」
「男の子として、あなたの将来の夢を教えて!」
無数のフラッシュが目を刺し、言葉の嵐が容赦なく襲い掛かってくる。
視界がぼやけ、恐怖に心臓が喉まで飛び出そうとしていた。
――あぁ、そうか俺は……馬鹿なことをしてしまったんだ。
この時の俺は既に、世の中の男女比が偏っていることを理解していた。
何故あんなにも注目されていたかを少し経ってから知った。
この世には男の人が少ないからただでさえ注目される。
しかも俺はこの地区で初めて生まれた男の子だから、余計にみんな物珍しくて人が集まってくる。
家族からはいつか外へ出られるようになった時は、気をつけて行動してねと言われたのを思い出した。
「けーくん……?」
まれちゃんの声が聞こえたが、それに答えられなかった。
「何も言わないの?」
「私たちは何年もあなたのことを追っていたんだよ!」
記者たちの声はさらに強まっていく。
元は大人でも、精神が子供になってしまった今の俺に、この仕打ちは恐怖でしかなく涙が浮かんできた。
あの時のように大泣きしそうになる……そんな時だった。
「けーくんをいじめるなっ!」
「……まれちゃん」
両手を広げたまれちゃんが俺を守るように記者たちの前に立っていた。
「ちょ、ちょっと邪魔しないでよ!」
「けーくんをいじめたらゆるさないんだからっ!」
「わ、わたしたちはそんなんじゃ……っ」
「うるさーい! けーくんからはなれろぉっ!」
自分よりもひと回り、ふた回りも大きな大人に物怖じせず立ち向かうまれちゃん、記者たちもそんな彼女に圧倒されたのか後ずさる。
ふと足元に目をやる、僅かながら震えてるのがわかった。
自分だって大人相手に怖いのに、それなのに自分を顧みずに割って入る彼女を見て胸がバクバクとうるさいくらいに音を立てる。
後ろのから見る彼女の姿は小さいけれど眩しくてとても美しかった――。
「あなたたち大事な子供たちに何するのよ!」
まれちゃんに押され記者たちが黙っている間に、俺を追いかけてきていた母さんと早苗さんが記者たちの間に入り込み、すかさず俺とまれちゃんを守るように抱きしめた。
少しの間黙り込んでいた記者たちだったが待ちに待ったこのチャンス、なんとか記事にしようと『取材をさせて!』と声を張り上げる。
けれどその圧は守ってくれている母さんと俺を安心させるかのように手をぎゅっと握るまれちゃんのおかげでこっちに届くことはない。
やがて、到着した警察官に記者たちは取り押さえられた。
家で騒ぎを知った姉さんが警察に通報していてくれてたのだった。
通補してから警察が到着するまでかなり早かったらしい。
これに関しては、男に関連する案件はこの世界の警察の最優先事項らしく、この場所で通報があった時点ですぐに出向く準備ができたそうな。
あっという間の出来事だった。
最初は彼女の忘れ物を届けに行っただけだったというのに、瞬く間に大人たちから囲まれてしまった。
前の世界ではありえないような出来事、子供がはじめて外に出て友達の忘れ物を届ける。
字にすればとても簡単なこと、はじめてのおつかいよりも簡単だ。
問題は男の子が珍しい……ただそれだけの事だった。
この時俺はようやくこの世界のおかしさを実感することになり、同時に怖くなってしまった。
警察へ事情を話す母さんと早苗さんをぼうッと見つめている。
ふとその時後ろから人の気配を感じて振り向くと。
「けーくん、だいじょうぶ? こわかったよね?」
心配した様子のまれちゃんが俺を覗き込んでいた。
恐怖で動けなかった俺の前に立ってくれた優しい彼女。
「もうだいじょうぶだから、わるい人はいなくなったよ!」
「うん……、そうだね……」
まれちゃんへ感謝の言葉を述べなきゃいけないのに……。
口から出てくるのは、力のない肯定の言葉だった。
今、俺の頭の中はぐちゃぐちゃだった。
この世界に転生したときは、理想の人生が待っていると信じていた。
あれ程モテたい、女の子たちから囲まれたいと願っていた自分の欲望を叶えられると信じていた。
だが、現実は違った。
囲まれるのは同じでも、それはまるで物珍しい生物を見るような目。
思い描いていた女の子たちからの『モテ』はこの世界には存在しなかった。
どうしてこんな恐ろしい世界に転生してしまったんだろう、あの時安易な気持ちで広告を開かなければ……。
モテたいとかそんな馬鹿なことを思わなければ……っ。
後悔が波のように押し寄せてくる。
『もう勘弁してくれ、俺が悪かった、俺にはこの世界で生きていける度胸なんてないんだ』
『モテたいなんてもう二度と願わない、一生独身で構わない、だから俺を元の世界に返してくれ!』
強く心の中で願う。
足元が不安定になり、そのまま倒れてしまいそうだった。
しかし、その瞬間、ふわっと温かい感触が俺を包み込み……。
『けーくん』
心から安心させてくれる、彼女の声が耳の傍で囁かれた。
ぎゅっと抱きしめられる感触、小さいけれど俺を守ってくれて、優しくて柔らかくて、あたたかな腕が自身を包み込んだ。
「よくがんばったね、外、こわかったはずなのに……、がんばったねけーくん」
彼女の温かな温もりに包まれる、背中をそっと撫でるたび、心に安らぎが広がっていく。
「けーくん、もう大丈夫だよ。わたしがずっとそばにいるから怖くないよ」
「う、うぅ……っ」
涙が抑えられなかった。
怖くて……怖くてしょうがなかった。
この小さな身体から見る大人が、女性があんなにも怖いと初めて思った。
けれどそれ以上に……。
「う、うぁぁ……っ」
「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ」
「うわぁぁーっ!」
この小さな女の子の強さに、早川希華という女の子の強さに心を震わされて……俺はこの世界で二度目の大泣きをした。
「……あれ、それわたしの?」
ようやく涙が止まり、彼女から離れるとまれちゃんは俺の手に持っている物に気づいた。
そういえばこれを届けにきたんだったっけ。
記者に取り囲まれても手放さなかったお絵かき帳、すっかり忘れていたけど彼女に無事手渡す。
家から駆け付けた姉さんと芽美。
母さんと早苗さんも事情聴取が終わってこちらに寄ってくる雰囲気を感じた。
そんな中で彼女は――。
「ありがとけーくん!」
お絵描き帳を受け取り満面の笑みを浮かべると……俺の目を見つめ、急に顔を近づけた。
そして、彼女はそのまま、ふわっと俺の唇へ優しくキスをした。
「えへへ、ご褒美のちゅーだよっ!」
咲き誇れんばかりの笑顔を浮かべて言った。
『なーっ!?』と姉さんと芽美の悲鳴が聴こえる。
母さんと早苗さんはびっくりし顔を手で覆っている。
――この時、俺は彼女に恋をしたのを自覚した。
――そしてこの日の事を……俺は生涯忘れるないだろう。
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