白くしなやかな指が、首元に迫る。細指が首に絡みつき、そっと力を込める。何も言えず、何も聞こえず、仄暗い天井だけが視界に映る。「どうして」と言った気がする。何も聞こえないのに。確かにそう言った気がする。聞こえた気がする。酷く、顔を歪めている。何も見えないのに。そんな気がする。息が、苦しい。苦しいよ。ごめん。ごめん。ごめんなさい。



「どうして、私を殺したの」



 そう、あの子は言った気がする。

 私が殺した少女。

 物語が好きだ。ミステリーとか、SFとか、不思議なことが起きる世界の謎を解くような話が好きだ。幼い頃からそうだった。引き込まれる序章、スリル満点の事件、流れるような解決編、そんな物語が楽しかった。

 筆を執った。もっと面白いものを書いてやろうと意気込んだ。文豪達が飛び上がっては膝さえついて教えを乞うような代物を、自分なら書けると本気で思っていた。碌に他人とお喋りもできない少年に、そんなもの作れるはずもなかったのに。

 畢竟、出来は中途半端だった。



『ある学校で起きた悲劇の物語。

 転校生の陽気な女の子によって絆を深める少年達。

 けれどある日、彼女が何者かに殺される。

 犯人を捜すため、少年達は立ち上がる。

 そして――』



 そして。

 私は書けなかった。

 自身の指先がまるで人を殺めているようだった。

 架空だ。

 虚構だ。

 空想だ。

 でも、確かに血の匂いがした。

 それとも、鉛の匂いだったのか。

 原稿は焼いた。見ていると、なんだか嫌な気持ちになった。紙束の向こうから、今にもにゅうと腕が飛び出して指先を掴まれるような気がした。だから、すべて焼いて捨て去った。臆病が災いしてこんなことにすら恐怖を覚えるようになったのかと、生来の性格を自嘲するとほんの少しだけ気が楽になった。もっと別のを書こう、そう思った。


 汗ばんだシャツを脱ぐ。

 窓の外には、もう随分高く昇った太陽が顔を出していた。体は気怠いが、今日も生きなくてはならないので階段を降りる。洗面台の水はひどく冷たい。顔を上げると、鏡は痩せぎすの男を映していた。その風体に違わず、頬も少しこけている。

 ふう、と息を吐く。

 冷凍庫を開けると、同じ銘柄のミートスパがいくつも並んでいる。そのひとつを電子レンジで温めていたら、壁にかかったカレンダーが目に入った。今日も、明日も、明後日も、真っ白な空白が続いていた。



 パチ。パチ、パチ。



 ガスコンロに火をつける。青い炎がゆらゆらと揺らめいている。

 何となしにスマホを開いた。容量を空けてください、そんなメッセージだけが出迎える。俳優の結婚とか、ゲームの大会とか、SNSのトピックは各々の話題でもちきりだった。興味のある話はなかった。

 配信サイトのアプリケーションを開く。



『本当につまらない。検索の邪魔』



 先日投稿した動画にコメントがついていた。



 パチ。



 揺れる炎が、視界にチラついて仕方ない。

 煙は高く昇らない。何者の目にも触れないこの火は、ただ静かに燃えるだけだ。誰にも見つからないようひっそりと声を殺すだけだ。いっそ、轟々と燃え上がる業火に成れば、天高く燃ゆる煌めきを人々は見上げるだろうか。ドキドキするだろうか。ワクワクするだろうか。それとも、やんぬるかな。火の車に化けるだろうか。

 逡巡して、スマホを閉じた。

 ヤカンが甲高い音を立てていた。



「これからは、小説を執筆する配信もしていこうと思います」

「趣味と配信、両立できて一石二鳥ですね」

「ゲームとか、少なくなるかもだけど」

「実績作って、全員見返してやりますよ」

「この才能を、あなた方は見逃していたのだってね」

「あらゆる賞、総なめしますからね」

「話題沸騰だ、文豪バーチャルタレントの誕生だ」

「…………」

「それからね、ええと――」



 天高く肥ゆるのは馬、秋口も過ぎた頃にはひとり遊びも慣れたものだった。

 結局、視聴者はひとりもいない。誰も見ていないけれど、これがきっと、いつの日か我が身を救うのだと信じてやまなかった。サイトのトップページには、幾つもの〝ライブ配信〟の文字が並んでいた。何千もの人々がそれらを見ていた。


 ある日、彼らを知った。

 個性豊かなキャラクター達がいた。

 冒険活劇の英雄がいた。ファンタジックな魔法使いがいた。異世界から突如現れた火噴きのドラゴンがいた。未来からやってきた天才科学者がいた。難事件を解き明かしてきた名探偵がいた。駆け出しのアイドルがいた。格好いいヒーローがいた。危険なモンスターがいた。日常的な生活を送っている高校生がいた。

 本当に、生きているみたいな顔をしてそこにいた。



 近いだろうか。

 あなたがいる場所に、少しは。



 会えるだろうか。

 そこに行けば、私が消してしまった人に。



 そんなわけないのに。分かっているのに。けれど、技術が発展したら、そのうちなどと思うのだ。人工知能か。ロボットか。はたまた魔法か。どのような形で実現できるのか、いまだ不明だけれど。それでも、もしも、あなたと会えたなら。言いたいのだ。言わなくてはいけないのだ。そのときは、同じ場所に立っていなくてはならないのだ。



 ごめんなさい。あなたを殺したのは僕だ。


 だから、あなたには――





 読み返すうちに、このエッセイは盛り上がりに欠ける気がした。

 だから、私は席を立った。

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