◇
「わあ、むずかしい」
けたたましかった銃声がぱったりと止む。白黒の画面にはゲームオーバーの文字が映っている。ありがとうございました。お疲れさまです。暗転した画面に、次のおすすめ動画が映る。
黒い塊からコードを引き抜いた。プラスチックにマイクを入れると、乾燥剤が音を立てる。慣れた手つきだった。
「水馬赤いな、アイウエオ」
「熱心だ」
女はベッドから興味深そうに口を挟んだ。
四ヶ月は経っただろうか。
届いたパソコンで、毎日のように配信活動を続けている。配信前、配信後、風呂に入るときも北原白秋の五十音を諳んじる。喋りの練習をする。それを、ずっと繰り返している。
「経験が足りないからだ」
「何の?」
「配信の」
「普通やったことないよ」
「それじゃダメだ」
「どうして」
「見てもらえない」
「誰に」
「誰にも」
企業にも。
視聴者にも。
一切の音沙汰はない。事務所のオーディションはおろか、視聴者からだってコメントのひとつのもない。誰も見ていない。誰も聞いていない。そこにあるのは、壊れたラジオみたいに、虚空に向けて喋り続けているくたびれた人間の姿だけだった。
「なにやってんの、それ」
指差した先には、楽譜のように横線が何本も並ぶ液晶画面があった。
赤やら、青やら、太い線が川のように伸びている。上部には、動画のワンシーンと思しき映像が流れる。テレビで見たことがあるな、と女は思った。実際、テレビ局みたいだと口にした。
「動画を作るんだ」
「どんなのを」
「確実に、誰かが見る動画」
「あるかなぁ」
「もう撮ったよ」
「仕事が早いね」
「早いだけかも」
「そうかも」
「困るね」
「参るよ」
「解説動画を作るんだ」
焦れったくて、男は言いながら振り返った。
それを編集してるのかぁ。女は、何の気なしにマンガ本を捲ってみせる。文字とか入れるんだね。大変そ。鼻歌交じりのその声は、もう動画なんて興味なさそうだった。
「本当に、誰かは見るのかな」
興味なさそうに。
そして、少しだけやるせなさそうに彼女は尋ねた。
「サービス開始したばっかりだ」
待望の人気ゲーム。その説明、とか。
そういうものを人は見る。
知ってくれればそれでいい。誰かが見てさえくれたなら、僕の才能に惹かれるはずだ。こんなに面白い人がこの世に隠れていたとはね。ああ、とんでもない人材を見つけてしまったよ。そう言って、歓喜する。吃驚する。卒倒する。
そのはずだ。
「うまく撮れてるかな」
並木道に、カメラを持った女が立っていた。
レンズ越しに映っているのは、運動公園の地面に這いつくばっている男だ。その指を雑草にかけ、カメラの映り具合を何度も気にかける。もうちょっと右。もっと。そう、そこ。うん、いい感じだ。
撮影の合図は早かった。
「う、う、おええええっ」
「ばっちいなぁ」
数十秒の撮影時間だった。
胃まで落ちた雑草を吐き出しながら、男は側溝にめいっぱい嘔吐する。
「犬のおしっこの味がする……」
「なにこれ」
「凄い配信者はね、おえ」
「わっ」
「人の注目を集めるんだ、うえ」
「汚ない」
「ごめん、ちょっと待ってね」
「はいはい」
「彼らは」
「はい」
「彼らはいつだって」
「うん」
「……うっぷ、おえええ」
そんなに嫌ならやらなきゃいいのに。
バカだねぇ。呆れた声が、男の背中を擦る。げえ、げえ、潔癖症は喉から血が出るほど中身を吐き出した。バカだなぁ。自分でもそう思った。けれど、仕方ないのだ。
彼らは。
彼らはいつも、過激なことで盛り上がる。
「空中浮遊」
「あはは」
今日イチおもしろいかも。
男に肩車された女が笑っている。カメラは地面から高く離れ、足下の脱ぎ捨てられた靴を映し出す。体が宙に浮いていくよぉ。男の言葉に、女はまた腹を抱え、転げ回らんばかりの勢いではしゃいだ。
「あ、ちょっと」
「ぐえっ」
あんまり暴れるから。
体勢を崩して尻餅をつく。幸い怪我はなかった。
「もう、帰ろう」
「ほんとだ」
陽が沈む。帳が降りてくる。
公園には、人影のひとつもない。
「帰ったら、動画を編集だ」
「あはは」
あー、あー、お腹いた。
笑いの収まらない彼女を尻目に、男は落ちたスマホを拾い上げた。癖になってしまったのかもしれない。反射的に、配信サイトのアプリケーションを開いていた。
「……え」
親指が、ほんの少し彷徨った。
「どうしたの」
「ううん、別に」
「教えてよ」
「ええと。いや、まあ」
男はスマホの画面を示した。
「応援してますって」
「え?」
「編集も、声も、好きですって」
「なになに?」
「見つけてくれたんだ」
「……ああ」
「見つけてくれた」
「…………」
宇宙人に見つかることを願って飛び続ける、宇宙探査機みたいだった。
ずっと、会えない誰かに出会いたかった。
バーチャルタレントがなんだと言っても。お金もないし、才能もないから、結局誰にも見つからないまま消えていくのだと思っていた。心のどこかで諦めていた。それでも、こうして好きだと言ってくれる人がいるのなら、この人にそう言わしめるくらいの才気は持ち合わせていたのだろう。
仄暗い林道を抜けた先に、家々の灯火が光る。
帰ったら、書くべきことがいっぱいある。エッセイの備考をしたためて、オーディションの応募記入欄を考えて、ああ、そうだ、これからは視聴者がいるのだから、配信の仕方をもっと考えないと。そうだ、僕は――
「嘘ばっかりなのに」
振り返ると、女がぽつねんと佇んでいた。
ざわ。
ざわ。
木の葉の擦れる音が、やけに耳障りだった。
「もうやめようよ。こんなの」
「何を言ってるの」
「君は嘘つきだ」
「分からない」
「嘘をついた」
「分からないんだ」
「また嘘をついた」
困惑を浮かべるしかなかった。
温い風が、肌を撫ぜるたびに浮ついた空気を運んでくる。男は身を震わせた。なんだか、ただの風さえ気持ち悪かった。
エッセイのために配信を始めた。本当だ。
だって。
そうだ。
そうだろう。
今だって――この文章は、配信に映っているじゃないか。
『配信の練習258(小説枠:エッセイ部門4)』
そんなタイトルがここにはあるじゃないか。本当じゃないか。
そりゃあ。
その。
「……多少の脚色は、あるけれど」
「エッセイなのに」
「そういうものだよ」
「実話」
「そうだけど」
「リアルな話」
「そうなんだけど」
完全なノンフィクションは存在しない。
書いた時点で、作者の恣意が混ざることは避けられない。
「パソコンを注文したのは、オーディションに応募した後だった」
「演出だよ」
「君は無職じゃない、フリーランスだ」
「職と呼べるほどじゃない」
「実家に住んでいて、お隣さんと話していたのは母親だ」
「別に隠してない」
「公園なんて滅多に行かない」
「たまに行く」
「さっきのコメントを貰ったのは、もっとずっと最初の頃だった」
「だから、それも……演出だ」
「じゃあ、私はなに」
「え?」
「私は誰なの」
「君は――――」
私は、存在しないのに。
「君は……僕の、友達……」
「あれ」
「ねえ」
「おーい」
「君は……」
「――――…………」
「僕は」
「どうして」
どうして。
「あなたを殺したんだろう」
返事はなかった。
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