◇
「動かない」
スマートフォンを片手に、男は唸った。
試しに導入したアプリケーションがうんともすんとも言わないのだ。これが使えなければ、バーチャルがどうのなどという前提すら叶わない。公園ではしゃぐ子どもたちを尻目に、スマホの画面に映ったアバターをじっと見つめてみる。
残念でした。
君の冒険は、ここで終わってしまいました。
「……と、言いたげな表情であった」
心情をメモ帳に書き留める。
今このときをエッセイで使うかもしれない。物語の主人公ならば、当然ここで打開策を練るのだ。そして、自分はそれなのだ。
最低限の容量しか契約していないボロスマホを懐に入れ、男は立ち上がった。
「応募?」
「うん。企業にね」
ノートパソコンを立ち上げながら語る背中に、女は訝しげな視線を送った。
「スマホが支給されるんだ。事務所によっては」
「すごいね」
「注目度高いよ」
「いいね」
「お金も、稼げるかも」
「へえ」
でもさ。
肩越しの気配に、パスワードを打つ手が止まった。
「無理だと思うよ」
「どうして」
「配信の経験ないじゃない」
「そうだけど」
「何の実績もないよ」
「うん」
「取り柄もない」
「うん」
「努力もできない」
「うん」
「そんな人に、企業はかけない」
うん。
時間も。金銭も。それから人手も。
しばし黙して、男はワードプロセッサーソフトを立ち上げた。
窓外から、お隣さんの陽気な声がする。この間はありがとうございました。いえいえ、こちらこそ。これお返しですよ。まあ、そんな構いませんのに。いつもお世話になっておりますから。ええ。ええ。あはは。はははは。大したことじゃありませんよ、そんなこと。はい。はい。では、また。
六月の夜風は、なんだかいやに湿っていた。
スマホをイヤホンに繋いで、有名なバーチャルタレントの配信を開きながらキーボードを叩く。配信の残り香みたいな動画のことを、アーカイブと言うのだっけ。ならば、配信じゃなくてアーカイブだ。それを、2倍速で垂れ流していた。
締め切りが近い。
高価なパソコンはいまだ届かない。企業に送るための動画をつくるには、この運動不足のおじちゃんみたいにいちいち息切れするノートパソコンを操作しないといけないらしい。編集ソフトの使い方だって、碌に分かっちゃいないのに。
「未来は映えるぞ」
「どういう意味?」
「苦労した人間の成功ほど面白いのだ」
「ああ、エッセイのこと」
「盛り上がる表現はないかな」
「例えば」
「同音異義とか」
「よくわかんないや」
「わかんないか」
「うん」
ベッドの上であぐらをかく女は、興味なさげに体を傾いだ。
配信サイトのトップページが目に入る。関連動画に示されるのは、カッコイイ少年たちやカワイイ少女たちの映ったサムネイルだった。彼らの多くは、市販のゲームを遊んでいた。
「だから、ゲームをつくった」
「は?」
「自分でつくったゲームを遊ぶ」
「それで?」
「おもしろいよ」
「そうかな」
「編集だってしなくていいし」
「そうかなぁ……」
起動すると、モニターにRPGのオープニングが映し出る。古ぼけたノートパソコンでもギリギリ動くくらいの低容量な演出だ。
くりっくえんたー。
そこから始まるのは、モノクロ公園の冒険だった。
『彼は少女を殺したのだ。許されない罪だ』
へえ、と女は感嘆した。
キャラクターがいる。話しかけると言葉を発する。前に進むと、次のステージがある。不思議な生き物がいる。変なことが起こる。音楽が流れる。戦闘が始まる。それに、逐一男がコメントしていく。
「ゲーム実況だ」
「それ」
「すごいじゃん」
「まあね」
「自己紹介も兼ねてるんだ」
「うん、キャラクターが語るの」
「君のことを」
「僕のことを」
「途中で気付くんだ」
「そう」
「実況中にね」
「これ僕のこと話してる! って」
「自分でつくったのにね」
「自分で書いたのにね」
くす。
ふふふ。
なんだかおかしくって、ふたりは笑った。
湿気が邪魔するから、その声たちはどこにも届かなかった。六畳一間は、ふたりだけの六畳一間だった。秘密基地でいたずらの作戦を立ててるようだと。懐かしい気持ちだけが部屋を支配していた。
でもね。女は言った。
本当に、面白そうに。愉快そうに。楽しそうに。
「これ、つまんないよ」
うん。
男は恥ずかしそうに肯いた。
秘密基地なんて作ったことないしね。
友達もいなかったから。
だよね。
うん。
あ。
だからか。
だから。
判らないのか。
何が面白いのか。
応募は、結局、一次選考で落ちた。
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