幻想のあなたへ
合歓 眠
◇
パチ。パチ、パチ。
揺らめく炎が視界にチラついて仕方ない。肩を震わせているのは少年だ。乱れそうな呼吸を必死に抑えながら、河川敷に燃え上がる炎をじっと見つめていた。ひとりでひっそりと。
逃げるように。
隠すように。
願うように。
誰にも見つからないように――
「次は、エッセイを書くんだ」
青年は誰にも聞こえないくらいの声で呟いた。
六畳一間の小さな部屋には、推理小説や児童向けのファンタジー小説がそこら中に散らかっている。けれど、それ以外のものは何もない閑散とした物寂しい空間だった。そこで彼は、安物のノートパソコンを前に独りごちた。
女は答えなかった。
ベッドの上、怠そうに寝転がってマンガ本を広げている。
「何を書こうか」
「だから、エッセイでしょ」
「実話?」
「そう」
「リアルな話か」
「本当の話ね」
そっか。男は考える。
誰も体験したことのない話がいいか。そんなものあるだろうか。少なくとも、経験者はあんまりいない方がいい。そういうものに、多くの読者は心惹かれるものだ。初体験を感じたいのだ。何よりも、審査員はみんなそういう話が好きなのだ。多分。
けれど、ない。
自分には、面白い経験も、美しい体験も、輝かしい実績も、素晴らしい努力の過程さえもないことを男は知っていた。ずっと。ずっと。暗い部屋でひとりぼっちだった。想像だけが傍にいた。
「絵が動いてる」
女はノートパソコンの画面を見ていた。
そこには、如何にもキャラクターチックな人々が和気藹々と語らっている姿があった。これが、最近の流行なのだ。最先端の娯楽なのだ。未来の芸能人なのだ。
だから、学ぶのだ。
物語を綴るには必要な知識だろうから。
現代のユーモアや、近年のポピュラリティが。
そういうものが。
ウケるから。
「じゃあ、それか」
「何?」
「エッセイだよ」
「が、なに」
「バーチャルタレント」
「はあ」
「体験談を書くんだよ」
「それを賞に応募?」
「そう」
「……ええと、ね。君はバーチャルタレントじゃないよ。それにね」
どこも、エッセイの募集なんてしてないよ。
マンガ本のページを捲る。彼女にとっては、迂闊な男のお粗末な言動など日常茶飯事だった。以前、女流作家を募集している賞に何年も応募し続けていた前科だってあるのだ。今回もまた、ただのウッカリだと思っていた。
「でも、いつかはどこかが募集するよ」
「そのうちはね」
「そのうちにエッセイが書ける」
「つまんなそ」
「結構いるかな」
「いるでしょ、配信者とか」
「そっか」
「うん」
「じゃあ、大人気バーチャルタレントになるよ。そうしたら、きっと凄いぞ。あのバーチャルタレントがなんと受賞。小説界、配信者界ともに激震だ。うん、これだ。よし、決めた。さっそく取りかからなくちゃね。いや。いや。既に始まっているんだ。だって、もう、三十万のパソコンを注文しちゃったんだから」
その言葉に、彼女は少しギョッとして顔を上げた。
こいつは何を言っているのか。冗談のつもりか。ふざけているのか。そう思ってパソコンの画面に目をやると、そこには、確かにお買い上げのメールが届いていた。こいつ。こいつ。本気で言っているのか。
だってそれ。
全財産じゃないか。
気が早すぎるじゃないか。
なあ。バカじゃないのか。
どうするつもりだ。
失敗したら。
後はないんだぞ。
君は、だって、無職なんだから。
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