第22話 デッド オア アライブ

 ふと瞼を開けると、白く眩い光が一瞬広がり消え、いつもの見慣れた天井が視界に映った。


『あ、あれ…?』


 上半身を起こすと、どうやら私は下着姿でベッドへと横たわっているらしい。視界の片隅に物影が見え、そっと足元の方へ視線を向けると、床に膝を着かせ、仰向きにベッドへと倒れているKの姿。私は驚きを隠せなかったが、何故か声が出ない。


 恐る恐る辺りを見渡してみると、棚の引き出しという引き出しが全て引きずり出されていて、散乱している服、そして水浸しの絨毯の上に錠剤のような粒がまき散らかされている部屋の有様を垣間見た時、私の頭に激しい痛みが走り、徐々に記憶が蘇っていく。


『確か、八尾市へと向かう準備をしていた時、Kから電話を貰い、後輩が倒れたから今日は逢えないというそんな内容だったはず。様々な憶測が頭を過り、そして…。』


 その先を思い出そうとすると、再び激しい頭痛が走った。


「うっ…、うふううう。」


 足元から呻き声が上がり、Kは上半身を起こし、何気なくこちらへと眺めた視線とぶつかった。するとKは瞬時に目を見開かせ、素早くこちらへと近づき、「佳織ちゃん、しばらくじっとしてて。」そう呟いて、私の目に指を当て、ペンライトのような物で私の瞳に光を当てた。


「うん、瞳孔の開き方は正常だ。よかった。佳織ちゃん、この薬をすぐに飲んで。」

「えっ?何この薬…。」

「説明は後。いいから先に飲んで、早くっ!!!」


 いつもよりどこか強引というより、乱暴なKの物言い。差し出された薬をペットボトルの水で喉へと流し込んだ。すると、


「よし、これで多分大丈夫だ。」呟くように言ったKに、

「Kさん、この薬何だったの…?」

「これはね、解毒剤みたいなもんさ。胃の中は水で洗浄できているとしても、体内にどこまで分解されているのか皆無だからね…。」

「ごめんなさい、言っている意味がよく分からないわ。」


 召されているおしゃれな服はくたびれ、髪型はぼさぼさ。Kは蒼白気味の顔つきで深い溜息をついていた。


「あのな、佳織ちゃんが飲んでいたあの薬は、Mって男から処方されてるっていう薬か?」


 床に落ちてある錠剤のような粒の方へと指で示しながら、全て押し出されていたプラシートをこちらへと差し出してきた。私は一つ頷き、


「そうよ、Mさんは安定剤だと言って私に渡してきたわ。何、何なの?」


 Kは首を何度も横に振りながら、また深い溜息をついた。


「佳織ちゃん、その男に騙されてたんだよ。薬事法の名の元に置かれている安定剤で、こんな名前の薬なんて見た事がない。電話で問い合わせたところ、これは今、巷で流行っている脱法ドラッグだ。」

「えっっ!!?」


 起きて間もない私には、Kから話されている事や、今置かれている状況など理解できるはずもない。とりあえず呼吸を整えていると、途絶えていた思考回路が正常に動き始める。それは先ほどKに飲まされた薬のお蔭なのかはまだ分からない。


 まず、Mに与えられていた薬を脱法ドラッグと暴いたKは一体何者なのか。この薬を私に与え続けていたMの思惑。それよりも、倒れた後輩を助けに行ったはずのKが、何故ここにいるのか…。


 考えれば考えるほど、思えば思うだけ、やはり困惑の境地に追いやられていく。が、やはりこれだけは確かめておかなければならない。


「Kさん、後輩って…。」「…ん?」


 こちらへと向けたKの視線に、私は思わず言葉を噤ませ、言い直した。


「病院へ運ばれた後輩さんは大丈夫だったの…?」

「ああ…。大丈夫も何も、何ともなかったよ。」

「ふーん。そか…。Tさん無事だったならよかったね…。」


 私は虚しさを隠すよう、顔を俯かせて軽く微笑んだ。


「よくないっ!全くよくないよっ!!佳織ちゃんをこんな状態に追いやったのは俺のせいだっ!」

「それは違うわっ!!KさんはTさんの為を心配してやったまでの事じゃないっ!Kさんの事を信頼していたのに、妙な勘繰りをしてしまった私の責任なの。」

「いや…、佳織ちゃんとのデートの事、安易に話していなければ、佳織ちゃんからあの書類を手渡された時、T君の事を少しでも疑っていれば…。こんな事にはならなかったんだ…。」


 Kの声は段々と涙に濡れ始めた。


「看護師や医者に呼び止められて足止めを食らってて、病室でT君から泣きながらこの真相を明かされた。俺の事が好きだ、全部分かっててやった事だってね…。」


 当然だと私は思った。Kの涙に濡れた言葉は続く。


「俺はもう、いても立ってもいられなくなって病院を抜け出して、急いで佳織ちゃんに電話したら留守番につながって、そこで全身から血の気が引いたんだ。」


 軋む電車の音と汽笛が遠くから聞こえ始め、そして通り過ぎて行くと、部屋にまた静寂が覆い被さっていく。


「バイクすっ飛ばしてここまで来て、何回インターフォン鳴らしても反応がない。ドアノブを回してみると、鍵が開いている事にびっくりして、急いで部屋の中に入ったら…。」


 一度Kは言葉を止め、喉を鳴らした。失っていた時の事を探るべく、私はまるで法廷に立つ被告人のように、Kから言い渡される言葉を黙って待っていた。


「その金魚鉢の横で座り込んで、佳織ちゃんへらへらと笑ってたよ。完全に常用者の顔だった。台所にペットボトルの水があったから、佳織ちゃんの口へそのまま突っ込んだ。乱暴だけど、この時この方法しか思い浮かばなかったんだ。なら案の定、水と共に大量の薬が吐き出された。」


 Kは一度水を飲んで軽く息をつき、目をしかませながら視線を窓の方へと向けた。外の光に照らされているKの頬は濡れ、それは汗なのか涙なのか分からない。ただそれは、私を助ける為に思いあぐねた結晶だという事は確かで、恥ずかしさと申し訳なさに私は静かに頭を垂れた。


「薬を吐き出した佳織ちゃんは次第に呼吸が落ち着いて、とりあえず安静な体制にしなくてはいけないって思って、服を脱がせてベッドへと運んだんだ。それ以外は指一本も触れてないから安心してねっ!」


 私に考慮したのか、無理をしているようにおどけた言葉が発され、私はKに視線を向けると、親指を立てて微笑むKの姿が涙に歪んでいった。


「Kさん、ごめん。ごめんなさい…。」


 恥ずかしくて、情けなくて、身体を震わせ、嗚咽を漏らしながら泣く事しかできない私の肩に、暖かな温もりが落とされた。震える身体をけん制するように、きつくKに抱きしめられ、「もう大丈夫、大丈夫だから…。」と諭し、Kは私の頭を優しく撫でていた。


 白く優しい時が私達を包み、いつまでもそうしていたいと思っていた矢先、


「あのさ、佳織ちゃん。一つ聞きたい事あるんだけど…。」神妙な面持ちでKが再び語りかけてきた。


 言葉なく、Kの視線に合わせると、「夜の仕事、これ以上続けるつもりなの?」その問いに、私は思わずKから視線を外してしまった。


 その言葉の含みの意味は分かっている。しかし、この仕事でこれまで生活を成り立たせている私としてみると、その問いに対し、安易に応える訳にはいかない。寧ろ、その問いが深い意味を持つ事をKが理解しているのかと思った。


「うん、そのつもりよ。だって、辞めちゃうと食べていけなくなっちゃうから…。」

「佳織ちゃん、スーパーの仕事あるじゃんか。」


 驚愕。ばれていないと思っていたのが、実は見抜かれていた。いや、そんなはずはない。しかしKは今、スーパーの仕事と明確に言った。ならば、何故…。

「えっ…。何で…、その事を…?」

「偶然立ち寄ったスーパーのレジでパンとコーヒー。夜の仕事とは全く違う感じで、俺もちょっと戸惑ったけど、この優しい雰囲気は隠し切れてなかったよ?佳織ちゃんも俺に気づいてたよね?分かってたけど、敢えて言わなかっただけだよ。ははは。」


 私は躍らされていた気分になり、少しだけ気が滅入ってしまったのだが、そんな事を思っている場合でもない。


「そう、そうだったのね…。私の正体見破ったの、Kさんが初めてだわ。」

「だって、俺は佳織ちゃんマニアだからねっ!!」

「何よそれ、馬鹿じゃないのっ!!?あははは。」


 更におどけるKの言葉に、私の心は心底浮かばれた。でも、生活を支えている金は夜の仕事であり、レジ打ちの給料だけでは、どう考えてもこの都会で生活できない事は明白。女一人で生きていくには中々厳しい世の中である。


「レジ打ちなんて微々たる給料なの。だってね、昼の四時間くらいなのよ?そんな事で暮らしていけると思うの?だから、夜の仕事は止められないの。わかって…。」


 Kの顔に怒りの色が走った。


「いや、分からない。他の客はさて置き…、いや、さて置けないけど、何より、ドラッグ掴ませるようなやぶ医者いるんなら、俺は我慢できないっ!というか、本当なら警察に密告して、Mの正体を暴かなくてはならない話なんだよ?この事はっ!!」


 この言葉…。Kはそこらの商社マンだと思っていたのだが、この対処といい、薬の知識といい…。


「Kさん、お仕事は何なさってるの?」

「えっ!?俺、言ってなかったっけ?製薬会社の薬剤師だよ。だから、薬の知識に詳しい訳で、病院に行けば知り合いもいっぱいいるから中々離れられなかったんだ。」

「あ、そういう事だったのね…。」


 妙に納得していた私に、


「あのさ、今日…。あ、もう昨日って話になったんだけどね、佳織ちゃんを誘ったのは、やぶさかじゃないんだよ。」


 Kは胸元から何かを取り出し、私へと差し出してきた。それは小さい包みで、それを開け、中から小さく光る物を掴み取った。


「佳織ちゃんに夜の仕事を止めて貰おうって思ってさ…。」


 微笑みながら、私の手を取り、銀色に光るリングを指にはめた。


「佳織ちゃん、これから、結婚前提にお付き合いして欲しいんだ。」


 その言葉に、私は天と地がひっくり返った心情に見舞われた。


 電話を貰った後、心の中に嫉妬心や嫌悪感がまるで泥のように蓄積され、あの日から絶っていた薬に手を出してしまった事や、大阪に来て、生活の為とは言えども、数々の男に弄ばれ続けたこの身体の事。地元も捨て、身寄りもなく、本当に何もない私。何の為に生きてきたのかさえ分からない私が今、出逢って数カ月である男から正真正銘の愛を手渡されようとしていて、Kは私の左指にリングをはめた手を離さず、真剣な面持ちで私を見つめながら返事を待ち続けている。


 Kにはもっと相応しい女性がいる。私なんかよりもずっと。でも、こんな不躾な私を愛してしまったKの罪。まるで罰を与えるように、私は意地悪な意味を含ませて言った。


「私はこんな女なのよ?全く普通じゃないわ…。私は思うけど、Kさんはもっともっといい女の子がいると思うの。それなのに、それなのに、私なんかでいいの?」


 その言葉にKは、満面の笑みを浮かべ、誇らしげに胸を張りながら、


「それは愚問だよ。佳織ちゃんじゃなきゃだめなんだよっ!!」


 私は思わず感極まり、Kの身体を抱きしめると、Kはそれを受け止めるように唇を重ねてきて、二人ベッドへとなだれ倒れた。


 その後、男女。愛し合う二人だけの時間を過ごしただけで、その他は何もない。

この日、私は初めて店に何も告げぬまま、仕事を休んだ。

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