第20話 デッド オア アライブ
年末に向けて街が段々と慌ただしくなっていく中、冷たい季節が人の影をより深くする。
やはり心にも堪えてしまうのだろうか、予約が毎日のように入り、Kの家へと行く見込みがなくなっていた。そんなKも年末の余波を受けているらしく、帰宅せずにそのまま会社の会議室で眠る日々が続いているとメールにて伝えられていた。
電話すらできない日々。思えばまだ二週間足らずなのだが、私の心は形のない不安に縛られていた。まあ、私の仕事柄、Kも同じ想いに苛まれているのだろう。が、忙殺される日々にまみれ、いや、あまり物事を深く考えない性分であるが故、何も感じていないのかもしれない。それはそれで悔しい想いなのではあるが…。
スーパーのバイトも多忙を極めていて、この季節はまた物品が飛ぶように売れる売れる。それはやはり年末効果というものなのだろうか、そんな単純と思える愚かしさに叱咤しながらバーコードを通していたのだが、今年だけはそのような想いに苛まれる事なく仕事をこなす事ができていた。それもKの存在があるから。素直にそう思えていた。
昼休憩。私は控室でいつもの通り持参していたお握りを頬張っていた時、珍しく携帯電話が鳴った。その音はまさかのKからの着信。この時間帯に連絡を貰うのは初めてであり、Kの身に何かが起こったのかもと、私は恐る恐る通話ボタンを押した。
「はい、もしもし…。」
「あ、佳織ちゃん。今大丈夫かな?」
その心配とは裏腹に、やけに明るいKの声。多分この仕事の事は、まだばれていないはずで、私は平常を装いながら言葉した。
「うん、大丈夫よ。どうしたの?」
「あのさ、クリスマス・イブの夜って空いてる?」
クリスマス。カップルと子供の為だけに存在している日だと認識しているこの国特有である(?)、謎のホーリーナイト。
前夜と当日。この二日だけは前々からの予約を店側が断っていて、その理由は、街全体に溢れ返っている幸せにあぶれてしまった男達からの電話が引っ切りなしに鳴る事が毎年恒例になっているから。
その日になると、大体二時間枠で予約が入り、向かった先、全てにホールケーキが用意されているという惨劇。毎度毎度喜んだ表情を浮かべなければならないという面倒くささよろしく、甘ったるいケーキの他、タンドリーチキンをどれだけ食さなければならないのかという恐怖の他、忙しさのストレスや、『使い過ぎ』により顔面麻痺を引き起こしてしまったり、または疲労困憊や、はたまた『使い過ぎ』による足腰が立たない状態になってしまったりと、嬢である私達にとってクリスマスは恐怖の日の他ないのである。
実は店側から内緒に伝えられていた事があり、数日前に店にMから電話がかかってきたらしく、どうやらイブの日に私を貸切にしたいという内容だったという。本来なら断るべき話なのだが、超上玉客からの頼みを無下にする事などできるはずもなく、店側は二つ返事で了承したのだとか。
という事で、私のクリスマス・イブの予定は出勤するという事になっていて、Kにその事を伝えなければならない。しかし、Kの要件を聞いてからにしようと、ふと私の心がそう呟いた。
「その日に何かあるの?」
「実は俺の友達にシェフがいてね、そいつがやってるダイニンングバーの予約が今だったら取れそうなんだよ。でな、せっかくだから佳織ちゃんと一緒に行きたいなって思ってね。」
「そ、そうなんだ。ふーん。」
私はしばらくの間考えた。ここでMの予約を解消すればどうなるのだろうかと。
これまでクリスマスなんて仕事のイベントの一環としか考えた事しかなかった私には、Kのこの誘いがこれまで貰った事のないほどの大切な宝物のように感じ、『断りたくない、一緒にいたい』と、深く思った。
でも、でも…。これまで築き上げたキャリアや店との信頼関係。Mという上玉客と、…薬の入手先。いや、いやいやいや。Kと出逢ったあの時、これ以上惑わされない、これまでの人生をニュートライズし、そしてこれからの人生を修正するとい誓いを立てて、痛みと共にこの青い蝶々を刻んだのではないか。
今、私はまだサナギの姿。変体を経て生まれる姿は蛾、ではなく美しい蝶の姿。この身体の青は、飛び立とうと見上げた時、雲一つない晴れ渡る青空を表現した。何より今を変え、生きていく未来の為に心に決めた私なりの幸せのシンボルである。
多分、Mの予約を私自身から拒否したら、気高いMは敢えなく私を切り捨てる。いつか私が失墜したMの後釜を狙っている嬢が沢山いる事を私は知っていて、店は売上の為、的確な嬢を選出して宛がい、その嬢も未来を紡ぐ為に、Mに気に入られるように必死になるのだろう。
そうなったら私にとって好都合。Mから解き放たれるチャンスは正しくこれしかないと思った。
Mには私から直接、お断りの電話を入れ、店にもどうでもいい適当な言い訳をこじつけておけばいい。私の変わりはいくらでもいるのだから、そこまで文句を言われる事はないだろう、きっと…。
そう思うと、これまで片意地を張って頑張ってきた事が何だか馬鹿らしくなってきて、受話器を外して細く息を吐いた。
「うん、誘ってくれてありがとう。クリスマス・イブの日、楽しみにしてるわ。」すると、
「えっ!まじっ!!!あーよかったっ!!なんか、あいつ。俺が彼女できたって聞いた時から席空けてたってそんな事言いやがったからさ、佳織ちゃんに断られたらどうしようかって思ってたんだよねっ!!あー、まじ、よかった!!」
私の沈黙にどれだけ不安だったのか、受話口から飛び出す子供のように喜ぶその声を聞いていると、ふと私の心のどこかから、いやらしさを孕ませた低い声を聞いた。
『私に断られたなら、あの可愛い女の子を誘ったらいいじゃない』
それは間違えなく私の声。そんな事思ってないのに、考えてもないのに、その声は私の頭の中でしばらくの間、鳴り響き続けた。
私の顔は今、青ざめている。でもKには見えていない。鳴り響く声を振り払うように、私は送話口にそっと囁くように言った。
「私、どんな格好をしていけば、いい…?」
「えっ?いや、佳織ちゃん。この間みたいな恰好をして来たらいいと思うよ。オシャレだなって思ったし。」
「そう?ならそれで。私もこの季節忙しいから、その当時までKさんと逢えないと思うの。予約時間はメールで教えてね。じゃ、また…。」「え、かお…。」
私はKの反応も聞かず、電話を切った。
汗に濡れた額をハンカチで拭い、深い溜息をつきながら丸椅子に腰かけた。
この謎の切迫感をKに悟られぬよう、唐突に切った意味はそれだけではなく、煙草の煙が立ち込めるあの部屋で、こちらを睨み笑うMの姿が脳裏に浮かんできた。私はそれに激しく蓋を閉めたのだった。
時計を見ると、休憩時間終了まで後十五分余り残っている。未だ片手に持っているお握りの残りをもう食べる気が起きず、ラップに包んで鞄へとしまい、ペットボトルのお茶を勢いよく喉に流した。何より早く昼間のダサい私のキャラへと戻らなければならないのだから。
柔と剛が私の狭い金魚鉢の水面で激しく争っていた。
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