第19話 デッド オア アライブ

 それからというもの、予約が入っている夜以外はなるだけ出勤する事を抑え、Kの家へと行くようになっていた。


 スーパーのバイトを終え、荷支度をし、電車に乗って近鉄花園駅で降り、そこからバスに乗り換えて近鉄山本駅まで行き、そこから近鉄大阪線へと乗り換えて高安駅へ。未だ移動手段が公共の乗り物しかなく、バイクの免許取得は来年頭。それまでは仕方がない。


 高安駅からKの家までは少しだけ歩く距離があり、その間にあるスーパーで食材を買い、とぼとぼと歩いていると外環状線へと差し掛かる。そこからは仕事で通った道なりと同じで、公園の先に住まう『グレイス高安』が見えてくるのである。


 Kから預かっている鍵で部屋へと入り、電気をつけ、部屋の換気をする為に窓を全て全開した。買った食材を冷蔵庫へと入れ、まずはお風呂場を洗う。それが終わった後、窓を閉め、温風ヒーターのスイッチを押した。広すぎる部屋も徐々に温まってきたところで、夕飯の準備を始めるのであった。


 なるだけ栄養の事を考えて毎回メニューを考えている。今日はお味噌汁とお漬物に、メインは豚の生姜焼きにもやしとニラを炒めた物をそえて、白ご飯。こういうシンプルなメニューの方がKの口にはあっているらしく、「うまい、うまい。」と勢いよく食べるKの姿を眺めているのが好きだった。


 今日は早めに帰宅できるという連絡を受けていて、一緒に食事ができる訳なのだが、Kの帰宅は大体が、日付が変わるくらいで、食事を取り、お風呂に入り、そのままベッドへと入るとすぐに寝息を立て始める。そして、朝七時前に起床し、シャワーを浴び、これまでは何も食べずに出勤していたらしいのだが、今は私が作る朝ごはんを食べて、行ってきますのキスを私に施して部屋を後にしていた。


 それから私は、ある程度の部屋の掃除と洗い物を終わらせて家に帰るのである。Kの事をもっと知りたい、Kの喜んだ笑顔をもっともっと見たいから勝手にやっている事で、それに他意はない。


 たまの出勤時、Ⅰから色々と詰問されたのだったが、私はそれに何も応じる事なく、ただ無言で微笑みかけるだけ。少しだけでも応えてしまったなら、妙な勘繰りが働き、何を言われるか分かったものではない。今はこの状況を誰にも邪魔される訳にはいかないのだった。


 食事の準備も終えた時、時計の針は二十時を少し過ぎた所を射していた。そろそろKが帰宅してくる頃だろうと思い、風呂のお湯張りをし始めたその時、


「ただいまぁ。あー、疲れたー。」玄関からKの声が上がった。

「あ、Kさんお帰り。もう食事できてるから。」


 私はそそくさとお皿のラップを取り除いている側で、Kはネクタイを緩めながら、寝室のパソコンの側に鞄を置きに行き、リクルートスーツを部屋着に着替えてリビングへと戻ってきた。


「お、今日は豚の生姜焼きなんだね。美味そうだっ!!」


 Kはどこか嬉しそうな表情を浮かべながら、キッチンで急須に茶葉を入れ、湯を注ぎ始めた。これは自分の仕事だと頑として言い張り、私にさせてくれない唯一の事。

もしかするとお茶の国、静岡県人の誇りのようなものであろうか。別に咎める理由などなく、茶の香しい薫りを嗅いでいるのも楽しみの一つになっていた。


 お湯張りも終え、Kこだわりの茶も入れ終えた所で、私達はダイニングテーブルに姿を向かい合わせて座り、「いただきます。」と手を合わせてそう言ったところで食事はスタートした。


 Kの食べっぷりは作り甲斐があると思うほど豪快で、「うん、うんうん。うん?うんっ!美味い、美味すぎるっ!!」白米、おかず、汁、漬物と、順序良く口に放り込まれていく。


 なくなりそうになった御茶碗を受け取り、新たに米をよそい、Kへと差し出すと「佳織ちゃん、ありがとうっ!」そう言って、本当に美味しそうに私の作った食事を召し上がってくれる。


 『これが幸せの形なんだ』と思いながら、私も食事に箸をつけた。


 食事を終え、やはり別々に風呂へと入り、後は寝るだけという体勢のまま、二人肩を並ばせてリビングでテレビを見ていると、寝室の方から携帯音が聞こえた。Kの携帯である。


「あ、佳織ちゃん。ごめんね。」Kはそう言って寝室へと向かった。

「はい、もしもし。あ、T君。どうしたの?」


 テレビの音があったとしても、そこまで離れていない距離感から会話内容は筒抜けである。専門用語で話されている為、詳しい内容までは分からないにしても、T君と呼ばれている人物はKの部下であるらしく、Kの口調からして、T君は女性なのだと思ったのは女の直感。しばらく話している中、「うん、じゃ、また明日会社で…。」


 Kはリビングへと戻ってきて、何食わぬ顔でテレビの画面に再度視線を向けた。


『ただの会社の後輩の電話じゃない。そんな気にする事でもないわ。そう、気にする事でも…。』


 妙な感覚を押しこめるように、そう自分に言い聞かせて、私も再び視線をテレビに向けた。


 時間が深夜へと差し掛かろうとした時、Kは優しく私の手を握り、「佳織ちゃん、そろそろ寝ようか…。」そう呟き、私へと唇を重ねてきた。


 電気を消し、寝室へと向かうと、私達はあの時と同じように愛し合って夜を過ごした。


 朝。Kを送り出した後、いつものように部屋の掃除をしている時に、ふと昨日のKの電話を無駄に思い出していた。でも、気にしていても仕方がない事も分かっている。ただ、心に引っ掛かるこの想いは、やはり嫉妬の念。そんな事も…。

 全てを終え、私はKの家を後にした。


 実はこの話には続きがあり、師走に入ったやけに寒い日の事、年末の余波のせいか、Kが帰宅するのは、ほぼ深夜差し迫る頃になっていた。


 私はそれでも家事をするだけの為にKの家へと出向いていた。すでに止める事ができなくなってしまっていたのは、もしかすると自分の中で義務化されてしまっていたのかもしれない。が、それはKを想う気持ちが故であるには間違いなく、Tの事が心の隙間にあったからなのかもしれない。


 そんな自身の浅ましい気持ちを止める事ができないそんなある日の事。共に食せないだろう食事を作っていた時、徐にインターフォンが鳴り響いた。


 時計を見ると、時刻は二十時十五分辺りを射しかかろうとしていて、こんな時間にインターフォンが鳴るという事に訝しく思った。初めは無視しようと考えたのだが、ここはKの家。私がここにいるという事は、全てを任されていると仮定しても過言ではない。どのような客であろうとも、接客する義務があるのだ。

 私はそう思い返し、鍋の火を止めて扉を開くと、そこには小柄でスーツ姿の可愛らしい女の子が立っていた。


「あ、貴女は…?」


 女の子は私の姿に驚いた表情を向けながら深々と頭を垂れた。


「あ、私はKさんの部下のTと申します。」


 Tという人物が女性であるという直観は当たっていた。という事は、その先の感覚も…。


「はい、Kから窺っております。して、どのようなご用件でしょうか?」


 私は少し嘘をついた。それはこの女の子に私とKの間柄を理解させようという思惑。Tは頭を上げ、こちらに笑顔を向けた。


「Kさんが取引会社より直帰するという事でしたので、社内でお渡しする事ができない書類をお届けに上がりました。明日会議で使うそうなので、それまで目を通して欲しいと上司からの伝言をKさんにお伝えください。では、失礼致します。」


 私に書類を手渡して、Tは軽く頭を下げてその場を立ち去っていった。

 誰もいなくなった踊場。寒い外気を感じる中で、ジジッと鳴る白熱灯の音を聞いた。私は何も思わないようにして扉を閉め、食事の準備に取り掛かった。


「ただいまー。」


 Kが帰宅したのはやはり日が変わろうとした時だった。


「あ、お帰りなさい。Kさん、お風呂にしますか?食事にしますか?」


 私は往年の決まり文句で迎えると、Kはそれに気づく訳でもなく、ダイニングキッチンの椅子へと座った。ラップをかけた皿をレンジで温め、Kの前に差し出すと、美味しそうに頬張り始めたKの姿に、私はよそよそしく言葉を投げかけた。


「あ、そうそう。女の子がこれを届けに来たんだけど。」

 そう言いながら封書を差し出した。Kは一度手を止め、その封書を受け取り、書類を眺めた。


「これを届けに来た女の子って、Tって言ってなかった?」

「うん、確かそう言ってたかも知れない。」


 Kは書類を眺めながら訝しそうな表情を浮かべていた。


「どうしたの?」

「いや、この内容なんだけどな、メールで添付すればいいものの、なんで紙に起こして届けなければならなかったんだろうって思ってね…。」


 私はTの言葉を思い出していた。


「Tさんは確か明日の会議までに目を通しておいて欲しいって言ってたわよ。」

「明日の会議は十時からだから、会社のパソコンにメールしたとしても、充分確認できるんだけどな。何でなんだろう…。」


 呟くKの言葉に私は女の勘が働いた。でも、何も気づかない振りをして、私はKの前に座った。


「今日の料理は美味しい?」


 嘘くさいくらいの私の笑顔に、Kは「う、うん…。」少したじろかせながらそう呟き、ご飯を口へとかきこんでいた。

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