第18話 ライズ アンド トゥルース
「佳織ちゃん、そろそろ帰ろうか。」
どれだけの時間が流れたのだろうか。
Kの声にふと我に返り、辺りを見渡してみると、景色は相変わらず輝いていたが、外気は更に冷たさを増していた。携帯を見てみると、時刻は十二時十三分。寒いはずだと私は思った。
二十時に高安駅から始まり、今に至る間、まるで一瞬と感じるほどの時の流れ。猜疑心がなかったとは言い難いが、今は微塵もなく、これまで感じた事のない幸福に包まれている。
Kは変わらず優しく私を抱きしめている。その言葉を素直に応じてしまうと、今日という日は終焉を迎えてしまう。明日も明後日も、Kから連絡があり、私が仕事を入れなければいつでも逢える事など十分理解している。
でも、今はKの側にいたい。この温もりを離したくない。
「Kさん、これから何か予定でもあるの?」
「い、いや…。ないんだけどさ、最近出勤が早くて、帰宅したすぐに寝るような毎日なんだわ。ははは…。」
私はKの全てをまだ知らないのだが、忙しいのだろうという事はこれまで逢った時の顔色から想像できていた。この言葉に嘘はない事を分かっている。が、でも…。
「そうね、帰りましょうか。」
私は作り笑顔を浮かべると、「…うん、そうだね。」Kは切なそうに笑い、私の手を取った。
駐輪場まで戻り、Kはバイクに跨り、キーを回すと、エンジン音が闇夜に広がった。
「佳織ちゃん、家はどこら辺?」
私はここからの家路を告げて、バイクへと跨り、Kの腰に手を回す。背中から伝わるKの温もりが切なく、正直この優しさから今だけは離れたくなかった。それを振り切られるように、バイクは駐車場を後にしていった。
ゆったりとしたスピードで坂を下りていく中、建物や木々の影に大阪の景色が徐々に隠されていく。展望台の事を告げた場所を通り過ぎ、枚岡駅の側でKは何故かバイクを止めた。
「えっ?何で駅に…?」
「いや、佳織ちゃんの家、多分ここから近いと思ってさ。」
私はKの言っている意味が理解できなかった。
「Kさん、マンションまで送ってくれないのですか?」
「佳織ちゃん、俺に家の場所教えてもいいの?何か悪いかなって思って、ここで下ろそうと思ったんだけど…。」
「いいんです。マンションまで送ってください…。」
ここから自宅は確かに目と鼻の先である。まるで打診を測るように線路沿いをゆっくりと進み、踏切を越し、この緩やかな坂をしばらく降りた所に自宅がある。
一フロアに三つの部屋、三階建ての大分古い佇まいのマンション。何故ここを選んだのかはよく思い出せないが、安い家賃に惹かれただけであったのだろう。まあ、この立地条件から寧ろ妥当な家賃だと今となれば思わざるを得ないのだが…。
それはいいとして、バイクはマンションの元へとたどり着くと、Kは近隣住人の迷惑にならぬようにと考えたのだろう。エンジンを切ると、辺りは深海の底のような静寂さに埋もれていた。
「佳織ちゃん、今日は楽しかったよ。またいつか二人で遊ぼうね。」
ヘルメット越しのぐぐもったその声を聞いた瞬間、心は波にさらわれて、とてつもない切なさに苛まれてしまった。どうしようもない感情。一人ではどうする事もできない淋しさ。気がつくと私は叫んでいた。
「私、まだ貴方と離れたくない…。もう少しだけ側にいたいっ!!」
私の心の叫びにKはきっと驚いているに違いない。私自身、驚いているのだから。ヘルメットを脱いだKは困惑気味の表情を浮かべていたが、妙な雰囲気は漂わせていない。
「うん、分かった。もう少しだけなら…。」
ハンドルロックと、後ろタイヤにU字ロックをかけ、バイクを降りたKは私の手を握りしめた。私は頷いて合図をし、最上階の北側に位置する自宅へとKを誘導していった。
開錠し、「いらっしゃい。上がって…。」扉を開けた瞬間、少し強張らせたKの表情を私は見逃さなかった。
まだ何も知らない女の部屋に様々な憶測を立てていたからなのだろうが、Kを驚愕させた理由は多分、この玄関の光。
何も明かりが灯っていない家に帰るのが億劫になった時から、出かけている間でも部屋の明かりを絶やす事がなくなった事は先に語った事があったと思う。玄関は敢えて赤色のライトにしていて、予想もしていなかった色に出迎えられたKは初っ端から出鼻を挫かれた想いになったのだろう。
赤色は情熱。エネルギーを感じさせるアクティブな色で、暗く沈むこの心を自ら奮い立たせる為に、出入り口にこの色を選んでいたのだった。
玄関を締め、「Kさん、コーヒーをお入れするから部屋で待っててください。」すぐ先にある部屋へと指をさすと、Kはどこかたどたどしく靴を脱ぎ、一つしかない部屋の中へと入っていった。
私の家は、Kの家とは対照的で、狭く、物が所狭しに溢れ返っている。
部屋の半分を占領するベッドに腰掛けながら辺りを見渡しているKの姿を横目に、私は通路側にあるキッチンで一人分のコーヒーをドリップしながら、自分の心を窘めていた。
Kを家へと招き入れてしまった。いつも冷静であろうとする自分が激情に流されてしまった意味。Kと過ごす時間の中で、里心を抱いてしまったのは確かであるが、きっとそれだけではなく、思い当たる節は、やはり私に手を出さなかったKの想いと、『お金払ってでも佳織ちゃんに逢いたいと思ったから呼んだんだ。でもな、この状況で、佳織ちゃんと一線越えたくないんだよ。』という、嘗てのKの言葉。
その状況以外でのこの状況で、Kがどうするのかを知りたいだけなのかも知れないと、私は今の意味をそれにすり替えた。ただ、淋しかっただけという気持ちを隠すように…。
トレンチにカップを乗せ部屋へと入ると、
「いやー、佳織ちゃん。入り口の電気も正直ビビったけど、この部屋もすごいね。まるで映画のセットみたいだっ!!」
先ほど困惑させていた表情はなく、何が面白いのか、相変わらず辺りを見渡しながらKは興奮気味に息を漏らしていた。
ベッドで半分埋まっているこの部屋の端には二段の低い棚があり、その上には、マリモが入れてある金魚鉢の横にLPプレーヤー。その上にはボブ・マーリーとスピーディ・ワンダ。クリームとシンディ・ローパーなどのLPジャケットを壁一面に張り巡らせていて、そしてお香立。今には珍しい羽根つきの一八インチのテレビを並ばせている。その反対側には、クローゼットを隔てる為にマンダラ模様の布を張りつめらせていて、Kにとっては珍しいのだろうが、ここだけが居場所である私は見慣れた日常の景色。
「そう…?買った物を置いてたらそうなっただけよ。」
コーヒーカップを前に差し出すと、Kは何も思わない様子でカップを口に運ばせた。
コーヒーが喉に通り、動く喉仏。それを見るや否や、先ほどすり替えた思惑は思考を凌駕させていく。Kはコーヒーカップをテーブルに落とし、私に視線を移そうとした瞬間、私はKの唇をまた度奪っては、ベッドへと押し倒していた。
私は馬乗りにKの唇を感情のまま吸い続け、お互いの吐息を孕ませた音を、しばらくの間部屋中に響かせ続けた。硬直させていたKの身体は徐々に緩んでいくのを確認するよう、私は唇を離すと、Kはどこか悲しそうな瞳で私の表情を見つめていた。
「佳織ちゃん、一体どうしたの…?」
その問いに詳しく説明する必要は存在しない。
「うん…?このまま終わるのは淋しいじゃない…。」
私はそう呟いて、再び身体を重ねると、Kは私の腰に腕を回した。
寒い夜。虚しい日々を過ごしていた二人が細やかな温もりに包まれた夜。決して誰に用意されていた訳でも、自らが特別望んでいた事でもない。成り行き、ただそれだけである。
鏡に映し出された自身を見ているように、お互いはただ、感情のまま何かを確かめ合っていた。
気がつくと明け方。遠ざかるバイクの音を耳にしたが、布団とこの身体に残る温もり。
私の心に淋しさはどこにも見当たらなかった。
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