第17話 ライズ アンド トゥルース

 店を出ると、外気は一層冷たくなったと感覚したのはこれまで暖かな場所にいたからなのか。いや、それは違う。ここまでバイクで来た時も確かに寒かったが、私が着ている詰め入りコートの首の隙間から微かに漏れる肌に差すような痛みも、手の悴みも、まだここまでに至ってはいなかった。


 山中はここよりも確実に冷え込んでいて、そんな中をバイクで走るとなると…。考えただけで寒気が走り、全身粟が生じる想いに苛まれた。


 Kは自身のスポーツバッグの中をごそごそとかき混ぜていて、私の前に何かを差し出してきた。


「多分、佳織ちゃん用意してないんだろうなって思って、一応用意しておいたんだ。これ、使って。」


 それはぶ厚めの黒い手袋と、藍色でふかふかな生地のマフラーだった。バイクに乗る時、ヘルメットと共に何故渡してくれなかったのかと疑問に思ったのだが、もしかするとKはこの状況になってこれの存在を思い出したのかもしれない。


 私は笑顔で受け取り、マフラーを首に、そして手袋をはめると、先ほど感じていた冷気は嘘のように身体から消え失せた。少しの考慮でここまで違うのかと、Kにまた一つ教えられたような気がした。


「さ、ぼちぼち行こう。佳織ちゃん。」


 Kは手袋に包まれた私の手を握り、駐輪場へと向かった。


 新石切駅の側を通り過ぎ、目の前に現れる道を闇雲に走らせていく。


 車とは違い、機動性に長けるバイクには段々と細くなっていく道も何のその。しばらくは閑静な住宅が軒並み、そこを抜けると、向かう方向を遮るように道が横に広がっていて、きっとここが山の麓の極みなのであろう。私に何も相談する事もなく、Kは右方向に指示キーを出し、道を進ませていく中、私にとって見覚えのある風景が現れ始めた。


 別に地元の風景に似た景色とかではなく、最近でも確実に見ている風景。そう、ここは近鉄枚岡駅付近であり、私の家の近所なのである。と言っても、徒歩か自転車で近所をうろうろしているばかりで、住んでいる付近の事をそこまで詳しい訳ではないのだが、確かこの辺りで展望台のような場所があるという話をバイト先で聞いた事があり、それを伝えるべく、Kの背中をトントンと叩いた。


 バイクを道側へと止め、Kはヘルメットを脱いだ。


「どうしたの佳織ちゃん?」

「あのね、この辺りで展望台があるって話聞いた事あるのよ。この道をもう少し進むと左に曲がる坂があって、そこを登った所にあるんだって。」


「ん?佳織ちゃん、どこでそんな話聞いたの?」


 私の住んでいる場所をまだ知らないKがこのような疑問を抱くのも無理はないと思った。


 バイクデートを約束したあの時、私の中ではまだ様子見で、敢えて高安駅まで自ら出向くと言ったのだった。しかし、その時の心持と今とは大分違う。寧ろ今は、自分の些細な事でもKに知って貰いたいという仄かな気持ちが芽生え始めていた。それはきっと、先ほどのファミレスの出来事が故なのだと思う。


「ここら辺、自宅近所なの。最近、近隣の人からその事を聞いたのよ。」

「あ、そうなんだっ!!佳織ちゃんここら辺りなんだね。ここの最寄駅ってどこなの?」


 その明確な問いに、私は少し躊躇してしまった。が、こうなってしまうと応えざるを得ない。


「近鉄枚岡駅よ。」


 Kの顔が一瞬にして明るくなり、「何だっ!佳織ちゃんと俺の家、すごい近いじゃんっ!」


 嬉しそうに私の方を見つめているKの視線をまともにみる事ができないのは、本当にこれでいいのかという自身の声が心の中に鳴り響いたからだった。


 スーパーの面接の時以外、自ら住所を晒した事なんてなく、私の居所なんて知る者などいない。それが、全てを隠して生きる夜の世界で知り合った者に初めて告げてしまうという事実に対しての皮肉。こだました声は、私の中に細やかながら残るKに対して、否、人に対しての警戒する現れなのだろう、きっと。


『しかし、何かを変える為に…。』


 そう強く思い返し、私はKに視線を合わし、笑顔を向けた。


「う、うん。そうね…。電車では大分回らなきゃだけど、ね。とにかくこの先に展望台あるらしいから、行ってみましょうっ!」

「よし、佳織ちゃん。しっかり掴まっててね。」


 Kはヘルメットをかぶり、再びバイクを走らせた。


 この道の先に『これより左、枚岡公園』という看板が現れ、左折し、しばらく道なりに進んでいくと、無駄に広いと感じるほどの駐車場へとたどり着いた。こんな寒い夜の、こんな時間。一台も車は止まっておらず、見える右側の端に自動販売機の光が、闇の中にひっそりと佇んでいる。


 駐輪場はその自動販売機の側にあり、そこでバイクを止め、ヘルメットを脱ぐと、これまで護られていた頬に切り刻むような冷たい外気が襲った。


 バイクを降り、何気なく遠くの空を眺めている私に、「俺、暖かい飲み物買うから、佳織ちゃん先に行ってて。」私は一つ頷いて見せ、その闇の先へと歩いていった。


 コンクリートの緩やかな階段を下りると、密かながら浮き彫りにされる遊具の影が、そこはかとない淋しさを醸し出しているように思え、地面に映る薄い影に何となく視線を落として進んだその先には、何という事でしょう…。


 宝石を散りばめさせたような夜景が、私の視界に映し出されていた。


 一つ浮き出ている光の道はきっと阪奈道路に続く中央大通り上の道。それ以外、どこまで繋がっているのか分からないほどの光の絨毯が広がっていて『これが私の住んでいる大都会の姿』と、私は様々な想いを抱きながら見尽くしていると、


「うわー、すごいな。これが噂の百万ドルの夜景ってやつなんだろうな…。」


 Kの素っ頓狂な声が私の意識を現実へと引き戻していった。私は何も思わず後ろを振り向くと、Kは何食わぬ顔でこちらへと近づいてきて「佳織ちゃん、どっちがいい?」と、二つの缶コーヒーを差し出してきた。


 微糖と無糖。私は微糖を選び「ありがとう。」そう受け取ると、Kは満足した面持ちでベンチへと座り、私もその横に座った。


 プシュっと音がして、Kはこちらへとコーヒー缶を差し出してきた。


「この景色と、君の瞳に、乾杯。」

「何よそれ、馬鹿じゃないのっ!?」


 おどけた言葉に私は思わず笑いながら栓を抜き、缶を重ね合せて、お互い同時に口をつけると、先ほどまで感じていたはずの寒さが嘘のようにさらわれていった。ふとKと視線が合い、「温かいね。」私は呟くと、「暖かいな。」白い息を吐きながらKもそう呟いた。


 この景色のように、手前には闇、その先には光、この大都会には、いや、どこでも同じなのだろうが、いつでも表と裏が存在している。昼と夜、過去と未来。自分にさえも嘘をつき、これから先もそうやって生きていく事に何の意味があるのだろうか。

真実は訪れるのだろうか。男と女、これも表裏一体の理に組み込まれているのならば、仲良く化かし合い、生きる事で何を失い、何を得られるのだろうか。


 何となくぼんやりとそう考えていた私はきっと渋い顔をしていたのかもしれない。ふと、こちらへとすり寄ってきたKは、後ろから私の右肩に掌を落とし、「やっぱり寒いね。」私の顔を見つめながら優しく呟いた。


 缶を持つ自分の手が微かに震えている事に今気がついて、「うん、とっても寒いよ…。」そう言うや否や、いきなり私の視界は暗闇に包まれた。手から滑り落ちた缶コーヒーがどこかへと転がり落ちていく音が微かに聞こえた。


「聞こうかどうか迷ったんだけど、やっぱり聞くわ。佳織ちゃん、何でタトゥ入れたの?嫌じゃないなら聞かせて貰ってもいいかな?」


 鳴り響くKの鼓動と、その問い。Kの静かな温もりの中で、これまで孕ませていた膿を滔々と垂れ流していた。


 鹿児島での過去と大阪に流れ着いた日々。この仕事をやり始めたきっかけとこれまでの事。ドライバー、Ⅰを下僕にした事や、安定剤を与えてくれるMという客の事。しかし、昼の仕事の事だけはやはり告げる事ができなかったが、それ以外の事はなるだけ語ったつもりである。


 話の途中、Kは私から離れ、まるで聞き入るように神妙な面持ちを浮かばせていた。コーヒーを口に含ませて、遠くの空へと視線を浮かべているKの心に今、何があるのだろうか。


 Kは煙草に火を着け、溜息交じりに煙を吐いた。


「そか、やっぱりあの時の…。」

「えっ?」


 うまく聞き取れず、聞き返した私の声を促すように、Kは私に笑顔を向けていた。


「佳織ちゃん、辛かったんだね。でも、もう大丈夫。俺がいるから。佳織ちゃんの側にいつも俺がいるから。もう大丈夫だから…。」


 Kは再び私を抱きしめた。それはまるで何もかも見せないように、過去を忘れさせてくれるように…。


 Mとは違う煙草の薫り。凍てついた心を溶かしてくれるような温かさに、私は全てを忘却させ、刹那溺れていた。

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