第13話 ライズ アンド トゥルース
「お前最近、いい事があったのか…?」
その言葉を聞き流すように、私は何食わぬ顔で帰り支度をしていた。
「え…、何故そう思うのでしょうか…?」
「お前の態度がいつもと違うからだよ。」
ここは大阪某所、Mの自宅。忙しいらしい彼なのだが、一月に二度、必ず私を丸一晩指名する日がある。
その帰り際、いつもならテーブルに金だけ置きざりに眠るMなのだが、今日だけは何故か言葉数が多い。
私は彼が眠るベッドの向かいにあるソファーに腰掛けて、鏡越しにルージュを引いていた。
「そうでしょうか。私はいつもと同じですよ。」
全てを終え、私は作り笑顔で振り向くと、Mは未だ裸のまま、気怠そうな表情を浮かべて呟いた。
「お前最近、いい客ができたらしいじゃないか。」
「えっ…?」
「八尾市に住んでる客だってなぁ…。」
「何故、そこまで知ってるの…?」
Mは煙草を咥え、火を着けた。ベッド横にあるブラインドカーテンの隙間から漏れる街頭の光が、吐く煙を靄のように映し出している。
「俺はある意味、お前の主治医だ。そんな事、知っておかなくてどうする…。」
「いや、意味が分かりませんが…。」
私の方へと漂い始めた煙は、いつも彼から薫る臭いそのもの。しかし、今だけはやけに疎ましく思え、私は彼の方をきつく睨みつけた。
「お前の事は何だって知っているさ。」
薬のプラシートをこちらに見せつけながら、Mはニヤつかせた表情を浮かべて、こちらへと投げた。
「お前はこの薬なくて生きていけなくなっている。だからお前の素行を、主治医の俺が知らなくてどうする…。」
「御心添え、有り難うございます…。」
そう呟き、無口にプラシートを拾い上げる私の姿を、Mはため息交じりに、煙を吐き出していた。
「あの…、お金も、頂けますでしょうか…?」
Mはやれやれと表情を浮かべ、枕の手元に置いていた茶封筒をこちらに放り投げてきた。私はそれも拾い、机の上に置いてあるメイクケースとプラシートを鞄に終い込んだ。
偶然私がこの家へと運ばれてきたその夜。この男は確実に私に魅せられていた。
一通りの事を終え、淡々とした態度の私を見て、何かを思い、自身の博学で私を貶めた。その時から私の主治医と語り始め、言葉巧みに薬を掴ませて…、今に至る。私の事を気にかけていると口では言いながら、圧倒的なこの立場で私を押えつけようとしているMのサティズム。
店からしてみると、一晩で大量の金を落としてくれるMを上客扱いしていて、それは他の客の予約さえも後回ししてしまうほどの有様。私としてみてもそうであるには違いないが、Ⅰ以外で私の過去を知る、しかも一方的に立場を握っている危険人物。いわゆる、唯一無二の私の天敵なのである。
もし、私がこの仕事から完全に足を洗ったなら、Mの存在は私から消え、Mも私の前に二度と現れる事はなくなるのだろう。何故なら、精神科医という情報以外、私に何も教えようとしないのだから。
別に知りたいとも思わない。ただ今は、Mから渡されているこの薬が必要不可欠であり、それが悔しいやら情けないやら…。しかし、そう思わざるを得ない状況に苛まれるほど、私の心は蝕まれているのである。
店から終了の電話が鳴った。
対価と薬を受け取った後、この男の側から一刻も早く離れたい。私は鞄を手に取り、そそくさと部屋から出て行こうとしたその時、
「おい、佳織…。」
Mの声が私の背中にぶつかった。
「その八尾の客をお前がどうしようが俺には知った事ではないが…。」
振り向くと、Mは上半身を起こし、咥え煙草のまま私を睨みつけていた。
「何が、言いたいのでしょうか…?」
あれからどれだけ煙草を吸ったのか、煙る空間の中、空気清浄器の勢いのよい音が耳についた。
「所詮お前は風俗嬢。カタギの男にどれだけ肩入れしても、最悪の結末を迎えるだけ。そんな事、分かってやってんだろうなあ、ええ…?」
刃のように鋭く、厳しい言葉が私の心を深く刻みつけた。
そんな事分かっている。分かっているからこそ、どんな男の甘い言葉にもこれまで応じず、部屋の片隅で1人蹲っていた。
でも、これまでの男とは確実に違う何かを持ち合わせているKという男が、これからの人生を変えられるきっかけであると、未だ明確ではないが私は信じたいし、何より頼りたかった。
「ええ、存じ上げております。お気遣い、有り難う御座います…。」
深々と一礼し、部屋から出た私の背中に、Mの低く舌打つ音が襲いかかってきた。
Mのマンションを出た時、鼻を突く冷たい外気。夜空に浮かぶ月を眺めながら1人、Ⅰの車がたどり着くのを待っていた。
溜息交じりに吐く息は、街頭の光に白く映し出され、風にさらわれていった。
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