第11話 イン ザ ライフ、オン ザ フェイト
こう湯船にゆったり浸かるのは久しぶりだった。
自宅の風呂はユニットバスでシャワーだけ。仕事で風呂に入る時は必ず客の相手をしなければならない訳で、このようなケースは正しく初めてである。Kの心情はいまいち理解しかねるのだが、何より一人で風呂に浸かる機会を与えてくれたこの時に対し、感謝の念を抱かなければならない。
それよりもこの後の事を考えなければならなく、暖かな湯が私の思考を鮮明にさせていく。
ただ言える事は、前回よりは話が前進したというこの状況であるものの、Kのあの調子なら、これからも何も仕出かしてこない。私の真正面からの裸を見たとしても、きっと…。
本懐を遂げたいという気持ちは確かではあるが、ここは焦らずKの出方を測り、その雰囲気に従う事が今のところ最有力であると思い、湯船を立った。
浴室の扉を開けると勿論Kはおらず、扉は閉められていた。ふと足元を見てみると、丁寧に畳まれたバスタオルとTシャツとハーフパンツが置かれていた。バスタオルはさて置き、衣服が用意されているという事は…。
とりあえず身体を拭き、いつもの仕事なら乾かすのに時間がかかる為、湯につける事のない髪をドライヤーで適当に乾かした。そして、私の体つきには一回りほど大きい衣服を身に纏い、リビングとここを隔てている扉を開けた。
部屋の電気は消されていて、ここから漏れる光でリビング内は分かるものの、奥の部屋までは届いていない。しかし、家内全体が蒼白い光に薄く映し出されている。真向いにある窓からその光が漏れていて、この光の正体は月明かり。今宵はきっと、特別輝いている満月なのだろうと思った。
「あ、佳織ちゃん。風呂から出たかな?俺、こっちにいるから。」
奥の部屋からKの声が聞こえ、私は伝うように歩いていき、そっと部屋へ入ると、Kはベッドへと上向きに横たわっていた。
息を潜めるように顔半分まで布団を被らせながら、天井のどこかを一点に見つめている姿を映し出す蒼白い月明かり。
私は何故かその姿に瞳を奪われていた。
「その服、佳織ちゃんには流石に大きかったようだね、ははは。」
いきなり上がったKの声に私はふと我に返り、
「お、お気遣い…。ありがとう。」
「うん、今日はちょっと寒いからね。湯冷めしちゃったらいけないからと思ってさ。」
今まで湯に浸かっていた事で身体が温まっているのだが、今宵は確かに一段と冷え込みを見せている。それもその筈で、北風が吹き荒ぶ季節を迎えようとしているのだから。
多分。Kの言葉の意味は…。
「寒いので、私もベッド入っても、いい?」
「……、うん。おいで。」
私は身を委ねるようにベッドへと入ると、私の頭は、いつの間にか伸びていたKの腕に支えられ、身体ごと抱きかかえられた。
睫毛が長く、大きな瞳。若干の鷲鼻であるが、すらっとした鼻立ちに、重ねた事のある薄い唇。改めて近くで見るKの横顔。掌は自然とKの胸元にすべり落ちていて、頭を包む腕も然り。見た目とは裏腹に意外と逞しい身体が、私の全てを大きく包み込んでくれているように思うと、ふと胸が高鳴った。
「あのさ、もし誤解を招いてたらいけないから、正直に言わせて貰ってもいい?」
Kは再び天井に視線を向けて、呟くように言った。
「う、うん。何…?」
「俺は別に、ゲイとかそんなんじゃないから。」
いきなり何を言い出したのか。思わず噴き出しそうになった感情が、胸の高鳴りを消した。
「何よ、弁解のつもり?じゃあ、何で私に手を出さないの?」
「いやあ、上手く言葉にはできないけど、こんな状況で出す気が起きないというか、何というか…。」
こんな状況とか言われても、お金を払って私を呼んでいるこの状況だからこそ、私に手を出すべきではないのか。最早辻褄の合わないその言葉に憤りを感じた私は、
「えっ?どういう事…?」
胸元から掌を離そうとしたその時、私の手を優しく握ったKの手は小刻みに震えていて、激しい鼓動が私に伝わり始める。
「ホント言葉足らずでごめんな。正直言うと、お金払ってでも佳織ちゃんに逢いたいと思ったから呼んだんだ。でもな、この状況で、佳織ちゃんと一線越えたくないんだよ。」
一度言葉を止め、大きく息を吸った。
「佳織ちゃんは仕事だから。だから、本当の事は言ってはいけない事くらい、俺だって分かってるから…。」
腕にきつく抱きしめられている私の頬に暖かな滴が伝わり落ちた。それは直に冷たくなり、また暖かな滴が落ちてくる。
静寂と月明かり。濡れた長い睫毛と伝わる暖かな涙。Kの激しい鼓動と、私の冷静さと混沌とした…期待。
大阪に流れ着き、これまで様々な客が私の横を通り過ぎていった。
下心で私を口説こうとしていた、現、している客は限りなく、それを邪険にできないのは勿論、金の為。結局はどの客も金を支払い、私を抱き、それに満足しているのだが、この男は確実に違う。
しかし、妙な勘繰りが働く私は確実にこの世界に毒されていて、真面に取り合う事ができない。欲と金だけの世界を生き抜いている私には仕方がないのかもしれない。
でも、信じたいし試したいという気持ちも否めない。
『いっそ、泣くくらいなら…。』
震える気持ちを抑え、私はKの耳元で、
「言ってみなくちゃ、分からないじゃない…。」
そう呟いてみると、Kはいきなり視線をこちらに向けた。
お互いに息を感じ取れる距離感。Kは真顔ながら瞳一杯に涙を含ませ、私はどんな表情を浮かばせているのだろう。
視線はお互い捉えている中、
「じゃあ、俺の想い、言ってもいいの…?」
「うん、いいよ。何…?」
順に言葉が闇へと広がり、Kは呟くように、
「俺な、初めて佳織ちゃん呼んだその日に、一目惚れしちゃったんだわ。ごめん…。」
Kの涙交る声を聞いた時、私の心に再び痛みが走った。
純粋に、真面目に生きているKの想いが、身体全体から痛いほど伝わってきたのだった。
Kほどの男なら素敵な出会いは幾らでもあると思うのだが、幾ら一人暮らしの淋しさが故だとしても、何故私のような風俗嬢を愛してしまっているのかという疑問。しかも涙が零れ落ちるほどに…。
はっきり言って訳が分からなくなっていた。
他の客なら適当にあしらって終わるのだが、こう泣き腫らしている大の男を目の前にして蔑ろにする事はできず、どうしたらいいものかと、私は困り果ててしまった。
この涙はKの感情が溢れ返っている現れ。もしかすると、どうする事もできない自分に苛立っているのかも知れない。私が無理矢理何かを仕出かしてしまっても、虚しさを与えるに違いなく、満足させるは愚か、最悪の結果を招いたまま帰る羽目になるというこの状況に落胆していた。
もし、私が告白を受理したとしても、Kは訝しく思うだろう。何故なら、最後にあった『ごめん…』という言葉がそれを意味していて、風俗嬢である私に好意を抱いてしまった意味を深く理解しているから。
このままタイムアップを迎えてしまうのか、もう成す術もないのか。まるで前回ここへ来た時、必死に思考を凝らしながら会話内容を探していた状況と同じではないかと思ったその時…。私の脳裏に、一枚の画像が舞い降りてきた。
いつの間にかこちらへと背中を向け、未だ啜り泣いているK。
もうこれ以上の打開策は見出せないと思い、私は意を決して言葉を放り投げた。
「Kさん、一つお願いがあるんですけど…。」
即座に涙を拭い去る姿で、
「あ、うん…。さっきから、何か、ごめんね…。」
そう呟きながら、こちらへと無理矢理な笑顔を向けたK。多分私の言葉に何かの期待を馳せたのか。私の見出した思考は、きっとこれに応えられるものである、はず。
様々な思考、想いを馳せながら、妙な言葉を加えぬようにと、私は言葉を這わした。
「Kさんの都合のいい日でいいので、バイクの後ろに乗せてくれませんか?」
Kの大きな瞳が更に大きく広がった。窓から伝わる冷気と儚く蒼白い光。北風の冷たい音が耳に届く。そんな事より今はKの反応。きっとこの言葉で間違いはないと思った。
「嫌なら、別にいいんですけど…。」
「いやいやいやっ、嫌じゃないっ!そんな訳ないじゃないかっ!寧ろ、俺のバイク乗ってもらって、いいの?」
Kは何とも言えない表情を浮かべ、どこか焦る口調で逆に問いてきた。
「私が言い出したんだから、当たり前じゃない…。」
「そ、そか。そうだよね…。ははは。」
そうとだけ呟くと、言葉を噤ませ、もう一度こちらへと向けた背中が確かに震えていた。
「ど、どうした…の?」
「……。うれしい。只々嬉しいのです…。」
「そう、それならよかった。」
Kは又度涙しているのだろう。こういう身体の繋がりがあってもいい。私は心からそう思い、Kの背中を優しく抱いて、そっと瞳を閉じた。
静寂で、優しく、限りなく白い時の流れに身を委ねていると、リビングの方から携帯音が激しく聞こえてきた。店からの終了の合図である。
求めるとKはきっと延長してくれるのだろうが、今日はこれ以上、ここにいる必要はない。後は帰り際に、アドレスにキスを沿えるだけ。私達はバイクデートの後、何かしらの形で誘われていくのだろう。
『もう終わりか、2時間ってこんなに早かったっけ…。』
私は急いでリビングへ行き、鞄から携帯を取り出し、「延長なし」の旨を店へと伝えた。
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