第10話 イン ザ ライフ、オン ザ フェイト

 四条畷市の仕事の後、その他2件の御予約を終えた時には、とうに日が変わり、深夜一時を少し回った時となっていた。


 持っていた薬によって本日を何とかやり過ごせたのだったが、身体はやはり疲労困憊の極み。売り上げをⅠに預けてそのまま帰宅しようかと思った矢先、店からの着信音が鳴った。


「はい、佳織です。次の受注先ですか?ええ…。」


 正直気分が乗らず、断ろうとしたその時、店側から思いもよらぬ住所が言い渡された。


「えっ?八尾市教興寺のお客様ですかっ?あ、大丈夫です。これからすぐ向かいますので、よろしくどうぞ。」

「佳織さん。教興寺の客って、前に初めて行ったあの?」


 フロントミラー越しにⅠが話かけてきた。


「そうみたいよ。本当は断ろうと思ったんだけど、リピーター指名じゃ、断る訳にはいかないわよね。」


 私はメイクを直しながら、わざとそっけなさそうに言った。


「ふーん…。佳織さん、そう言いながらもそんなに嫌そうに見えないんすよねぇ。前の時もどこか様子おかしかったし、やっぱなんかあるんすか?」


 私は思わずメイクブラシの動きを止めた。


 どんなイケメンでも、お金持ちでも、リピートしてくれた客に対して有り難いと思う気持ちがあるとしても嬉しいと感じた事はない。所詮、飾った私を求めているだけで、そこに私情など生まれる筈などなく、何より仕事なのだから。

 しかし、この胸に激しく脈打つ音の意味…。


「佳織さーんっ!?」


 その声に視線を前に向けると、Ⅰのにやにやとさせた顔がミラー越しに見えた。私は我に返り、再びブラシを走らせながら、


「そんな事ある筈ないでしょ?そんな馬鹿な事ばかり言ってないで、運転に集中しなさい。アンタと事故死なんてまっぴらよ。まったく…。」

「へーい。んじゃ、いきますよっと。」


 今、車を走らせている位置は平野区流町付近。ここから八尾市教興寺は目と鼻の先という訳ではないが、この時間だと三十分くらいであろうか。


 ともかく、早くたどり着けばいいと思いながら、流れる景色は中央環状線を南下し、国道25号線を右に降り曲がった。そして八尾市。


 確かあれから数えてみると、一カ月くらい時は流れている。


 最後のキスの意味は確かに嘘ではなかった。でも、おまじないと評したように信憑性に欠ける冗談のようなもの。寧ろ仕事の、いや気持ちの延長上で施しただけ。あの時、何もできなかった私が再び呼ばれる事なんて思いもしなかったから。

 だから今日の受注は、私にとって嬉しく、何よりリベンジ戦でもあった。


『だからこそ、胸が高鳴っているのだろう…。』


 私はそう気を確かに持ち、あのバイクが止まるマンションにたどり着く事を待ち望んだ。


 その日と同じように公園の側に車を止めさせ、『グレイス高安203号』まで、ゆっくりと歩いていき、そしてインターフォンを押すと、


「今日は早かったね。佳織ちゃん、いらっしゃい。どうぞ。」


 あの日と同じような笑顔のKに誘われ、私は軽く一礼して、家の中に入ると、あの日と何も変わらない空間が目の前に広がった。


「Kさん。本日は私をお呼び頂き、誠に有難う御座います。して、本日のご利用時間で御座いますが、如何に致しましょうか?」


 今日だけはあの日に犯したミスをしないようにと、三つ指を着きながら頭を垂れ、敢えて誰にもしている言葉で接客した。


「佳織ちゃん?俺、前そんなの嫌いだって言ったよね?嫌がらせなのかな?」


 私の心にふと蟠りが起きた。Kの言葉は続く。


「うーん、実は俺、給料貰ったばっかりだから懐暖かいんだよね。うん、せっかくだから、佳織ちゃんがいたい時間でいいよ?さあ、どれくらいがいい?」

「はっ!?」


 利用時間の決定権はお客様にある事など当然の話であり、お客様から告げられた時間を全うする責務がある。それは当然であり、これまでやってきたのだが、客側から逆に時間を委ねられる話などこれまで聞いた事がない。幾ら給料日で懐が温かいにし

ても、「丸一日」と、私が言ったのなら、この男からどのような言葉が投げかけられるのか。


「Kさん、そんな事言っちゃっていいんですか?私、かなり我儘な事言うかもしれませんよ?」

「そんな冗談を悪戯に口走るような方ではないのは前回で分かっているから。バイク好きに悪い奴はいないって言うじゃないか。ははは。」


 内心ギクリとさせながら、誤魔化すように一つだけ咳払いをした。


「そ、そうですね…。まあ、前回が六十分という事だったので、今回はその倍で。…いかがでしょうか?」

「へっ?そんなんでいいの?明日有給もらったし、俺は別に朝まででも構わないんだよ?」


 ファミリータイプの家に住んでいる事といい、この言葉といい、私の頭の中は更に困惑の渦に巻き込まれていく。


「い、いや。Kさんっ!!私にも一応仕事の段取りがありましてですね、その提案は大変有り難いのですが、ま、また今度という事で…。あ、長時間よりも、数で呼んでくれた方が嬉しいなー、って…。」


 この仕事が入る前は帰宅しようと考えていた私にこれからの予定などある筈もなく、余りにもの困惑さについた咄嗟の嘘。まあ、最後の言葉は本当の事ではあるのだが…。


「ふーん、分かったよ。んじゃ、今日は2時間という事で。佳織ちゃん、よろしくね。」

「はい、こちらこそっ!とりあえず店へと連絡するので、少しだけお待ち下さいね。」


 Kは笑顔で頷き返すと、キッチンでポットから急須に湯を注ぎ始めた。多分それは私に茶を勧める為であり、一体どっちが客であるのか分からないという皮肉が何だか可笑しく、Kの背姿に何故か心が癒される感覚に驚愕した。

 店へと利用時間を告げ、電話を切ると、目の前に茶が注がれた湯飲みが置かれ、


「はい、佳織ちゃん。2時間だけど、ゆっくりしていってね。」


 あの日と同じく終始笑顔のKと、湯飲みから薫り立つ放漫な薫り。ふと、窓に外側から光が照らされたと思うと、家の横をカブのようなエンジン音が通り過ぎていった。


 そして、耳が痛くなるほどの静寂。

 私は湯飲みに手をかけ、少しの間思考していた。


 再びここへと来る事ができたのは正直嬉しかった。でもそれは、前回何もして差し上げなかった事を悔いる気持ちであり、私情を挟むものではない。と、信じたい。


 満を持した心持で、今日こそKを満足させる仕事をしなければならない。と、思っているのだが、旨そうに茶を啜り、くつろいでいるKを見る限り、手を出してくる気配は一向に感じられない。


 Kが奥手であるという事は前回の別れ際、自身の口から告げられている。という事は、私の方から率先して手を出さなければ、やはり何も起こらない事など明白である。


 客がイヤらしい気持ちを発散すべく、私達を呼ぶ筈なのであるが、嫌に読めないこの男の心情。恐怖と似て非なるものが私の心に憑依し始めていた。しかし、行動を起こさなければ先には進めない。


 私はなるだけ嫌味を含ませないよう、単純且つ、しかしながら妖艶に、Kへと語りかけた。


「シャワー…。一緒に、浴びましょうよ。」

「へっ?あ、嗚呼…。シャワーね、シャワー。俺はさっき風呂入ったばかりだから、佳織ちゃん入りたかったら勝手に入ってきなよ。俺は大丈夫だから、ねっ?ははは、はははは…。」


 Kの顔に動揺の色が走った。私はすぐ様Kの身体にすり寄り、息の温度が分かるほど、顔を近づかせた。


「そうやって、誤魔化さないで。前にお別れした時、次はよろしくって言ったのアナタの方じゃない…。」


 目を見開かせながら沈黙しているKの唇に、私はそっと唇を重ねた。するとKは身体を後退させながら立ち上ると、


「そうだよねっ!そうだったよねっ!!うん、佳織ちゃん。俺、シャワー浴びてくるわっ!!佳織ちゃんはお茶でも飲んで待っててっ!」


 そう叫びながら、窓と反対にある扉を焦りながら開けた。


 どうやらそこに洗面場があるらしく、そこへ逃げ込もうとしたKの背中に優しい口調で追撃した。


「アナタの御身体を私が流して差し上げるのよ?だから、二人で…。」


 肩をピクリとさせた後、動きが止まり、こちらへと振り向いたKの顔は笑顔であったが、確実に引き攣っていた。


「うん、ありがとう。本当にアリガトウ。でもね、佳織ちゃん…。俺は昔から風呂は一人で入るって決めてんだよ。ごめんねっ、ごめんなさいねっ!!!」


 笑顔のまま、苦しいのか悲しいのか分からない声をこちらへ浴びせかけながら、扉は絞められ、『ガチャっ』という音が聞こえた。何故か錠までかけられてしまった。


 このシャワータイムは客の要望がどこまでなのかを聞き出すいい機会であり、これからのコミュニケーションを作り上げる一環なのであるが、こうされてしまうと最早どうする事もできない。


 一人取り残されたリビング。静寂さが浮き彫りにされ、不安感が私の心を蝕んでいく。


 私を見て美人だとは言ったものの、何故か手を出してこない上に、私の誘いも通じない。この業界を頑張って生き抜いている私さえも困惑させるKという男。只々傑物なのか、Ⅰと同じく馬鹿なのか。はたまた、私が考え過ぎているだけなのか…。


 扉の奥から水の流れる音が聞こえ始め、この場に凍てついた静寂も温く流されていくような気がして、私は既に冷たくなった茶を初めて口に注ぐと、やけに冷静な感情が働いた。

 家宅捜索。

 本来、人間レベルでタブーな事であるのは分かっている。

別に何を盗ろうとしている訳でもないし、ここまでわだかまる感情を抱えらされているのだから、他の部屋を見る事くらいで罰は当たるまい。寧ろ、自分の家に赤の他人である私一人を残し、風呂に入ったあの男が悪いのだ。


 私は立ち上がり、奥にある部屋へと近づいていき、そっと電気を灯した。


 窓際にベッドが置いてあり、その他はラックにデスクトップパソコンが置かれてあるだけのやけにシンプルな部屋。その横にも部屋があり、ここには一切物が置かれていなかった。


 リビングにはテーブルと十八インチ型のテレビとDVDプレーヤー。冷蔵庫とレンジ。最低限家事ができる物しか置かれていないという、生活臭が全く漂ってこないこの家内。


 これくらいの僅かな物数なら、少し広いワンルームマンションでも優な空間が確保できる筈が、Kは何故、このようなファミリータイプの家に住む必要があるのだろうか…。


 家宅捜索したところで何も分からず、余計謎を深めるばかり。『やはり見ない方がよかったのかも。』と、深い溜息を漏らしながら部屋の電気を消した。


 このリビングだけでも、きっと十畳くらいの広さはあるだろう。物がない上に、只々広いだけのこの部屋はやけに居心地が悪い。この静寂さの中で毎晩過ごさなければならないKは、遠い故郷の事を想いながら、きっと淋しい生活を送っているに違いない。


 そう思うと、胸の奥に少しだけ痛みが走った。


 いつしか水の流れる音が止んでいて、私は元に座っていた場所に戻り、扉の向こう側からKが現れるのを待っていた。すると、錠が外される音が鳴り、


「お待たせっ!!佳織ちゃんの為に風呂に湯溜めたから、ゆっくり浸かって疲れを癒してね。」


 シャンプーの香りを乗せた湯煙に塗れながら、ほてるようにほんのり赤い顔を綻ばせているK。やはり裸のままではなく、パジャマの上に何故か腹巻まで施されているという、それはまさしく寝る体制であり、最早完全防備。


「あ、ありがとう…。」

「いやいや、いいよ。今から髪乾かすから、もうちょっとだけ待っててね。」


 Kは扉を開けたまま私に背を向け、鼻歌交じりに髪を乾かし始めた。

 そう、扉を開けたまま…。


 私は徐に立ち上がると、開けられた扉の所までそっと近づいていった。そんな姿など露知らぬように、ドライヤーの音にご機嫌な鼻歌を入り交えながら、踊る様に腰をくねらせているKの背姿の側で足を止めた。


 既に錠で阻む距離感ではなく、Kが逃げ込む所があるとすれば、そのすぐ横の扉。きっとそこがトイレである事は、先ほどの家宅捜索で十分に想像できる。


 まあ、私の思惑はそこまでナーバスになるほどのものではなく、ただKが私に手を出しやすくする為だけの行動に過ぎない。


「Kさん?」


 いきなり上がった私の声に、Kは一瞬身体を宙に浮ばせ、こちらへと振り向き様に戦々恐々とさせた声音で呟いた。


「か、佳織ちゃんどうしたのっ!?もうちょっとで終わるからっ!!」

「いえ、時間が勿体ないのでこれ以上待てません。Kさんの御言葉に甘えて、今からお風呂…、頂きます。」


 私はゆっくりと浴場の前まで歩を進ませ、Kへ背中を向けたまま、下から順々に、ゆっくりと服を脱いでいく。後ろ向きの裸体を晒した後、顔だけ後ろへ振り向き見たKの表情は、何と表現したらいいのか。目を掌で隠しながらも、指の隙間からこちらを見ているという、見てはいけない物を見ている少年のような面持ち。


 もしかするとKは、女の身体を見るのは初めてなのか。いや、それは愚か、これまで彼女を作ったという経験すらないのかもしれない。この反応からして、この過程はきっと当たっている。Kが奥手であるのも無理はないと思った。が、今はそんな事などどうだっていい。


 何も知らないこの男に色々教える事が、私の職務全うだと心に誓い、


「Kさん、また後でね…。」


 その言葉とウインクを残し、私は浴場の扉を閉めた。

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