第6話 アナザー
店からの電話は未だなく、このドライブはいつまで続くのだろうと流れる景色に視線を這わせた。
車は天保山の海底トンネルへと差し掛かっていて、この先にはATC、WTCというデートスポットがあり、中ふ頭、大阪港というベイエリアへとたどり着く。
確かにこのドライブを提案したのは私であるのだが、こんな所まで連れてこられてしまうとお客様からの受注を頂いた時、このドライバーはどのように対処するのだろうと私は思った。
車はしばらく道なりに進み、仄かに光が灯る建物前の駐車場で車は止まった。
「佳織さん。ここに来た事ありますか?」
「いえ、ないけど…。ここはどこなの?」
「南港って場所です。どこでもいいって佳織さんが言ったからここに来ちゃいました。実はここ、僕にとって大切な場所なんですよ。」
Ⅰはそう言って車を降り、後部座席のドアを開け、まるで誘われるように私は外へ出た。
高速道路と思わしき道に灯る光と、建物から発されている明かり。どこかへ出航する船舶が闇に映し出されている。
「あの船に元妻は乗り、僕から離れていったんですよ…、」
一人建物の方に歩を進ませながら、独りごつように、Ⅰは何かを語り始めた。
「僕はね、佳織さん。この仕事に就く前はほんと、平凡な暮らしだけの男だったですよね…。」
汽笛が鳴り、停泊していた船はどこかへと迂回し始めた。
Ⅰは私の方へ振り向かず、その景色を眺めながら勝手に言葉を続かせていた。
嘗てⅠには、優しい妻と二人の子供に恵まれ、某大型IT企業の末端中の末端である会社の雑用業務を生業に、収入は決して多くはないが、幸せな家庭を築いていたらしい。
堅実な妻のやり繰りが幸を持し、中古住宅であるが所謂マイホームを手に入れ、これから順風満帆に過ごしていこうとしているこの一家にまさかの悲劇が襲った。
大元である会社の代表取締役がやらかしたインサイダー取引による不祥事が発覚し、一躍世間を騒がせ、幹部達は難を最小限に抑えようと次々と雲隠れしていき、代表取締役は遂に被告人となり、塀の向こうへと放り込まれる事が確定したようなものだった。
そんな核も持たない会社など最早泡沫の調べ。この日本を代表する上場企業は日本内の企業初め、どこか知らない外国企業さえ買収の姿勢を強め、アメリカだか中国だか分からない企業に誇りも名誉も金も、全て飲み込まれてしまった。
そうなってしまうと全ては成るようにしか成らず、勿論のように企業体制全てにメスが入り、まずは人員整理。経費削減。社訓まで変えさせられて、そして全くもって違う会社が産声を上げたのだった。しかしながら会社名は変わらず存在しているのは何故だかどうして。
その荒風はグループ全体に吹き荒び、Ⅰはとりあえず自主退社という形で会社を退き、ほとぼりが冷めた時にまた入社させてくれるという名目で、雲の上の存在である上司に何度も何度も頭を下げられながら、今まで言われた事のないくらいの誉め言葉や詫びを賜って、はした金を握らされて会社を去った。
誰がどう考えても会社にⅠの籍は戻らない事くらい分かるだろう。
ただ、恐ろしいくらい単純なⅠは、上司の言葉を信じてその事を誇らしく家族に告げると、この夫にこの嫁有りというくらい世間知らずで温室育ちのお嬢様である妻は、「逆境に挫けないように頑張ろうね。」なんて歯が浮くような言葉を笑顔で言ったのだろう。
Ⅰはいつでも会社に戻れるようにと、新しい勤め先を特に探す事なく、只々電話を待ち続ける日々で、妻は夫が会社に戻れるまでと慣れないパートを始め、足りない生活費は今まで頑張って切り盛りして残した僅かな貯蓄を切り崩しながら生活していた。
二人分の養育費、家のローン、その他諸々、当たり前のようにパートの給料だけでやれる筈もなく、半年も立たないうちに貯蓄は底をついた。
その頃には優しくおしとやかだった妻も、電話を待つだけの頼りないⅠの姿に金切声を上げて罵倒するようになった。
そんな光景を毎日見せられていた子供達も、いつしかⅠに対して冷ややかな視線を浴びせるようになり、話しかけても無視される有様に陥っていた。
そんなある日、妻側の両親や親類一同が、いきなり家に押し寄せてきて、家財道具然り妻子まで、Ⅰが今まで所有していた全てを持ち去っていった。何が起こったか分からなかったⅠは呆然と妻だけを見つめていたが、別れ際さえⅠの方を見る事はなかったという。
もぬけの殻になった家をぼんやり見つめていると、今まで文句一つ言わず汗水垂らして働いていた会社側から突きつけられた状況と、妻からも捨てられたという現実が同時に押し寄せてきた事を悟り、男一人さめざめと泣いた。
すでに貯蓄もなく、どうする事も出来ない状況なのだが、この家だけは手放したくなかった。何故なら、この家で過ごしてきた日々に生まれた家族の思い出と温もりを大切にしたい。もしかすると気の迷いで起こした事を恥て、妻が戻ってくるかもしれない。そう信じたかったからだ。
とりあえず生活はしなくてはならない訳だが、学もなく腕もないⅠが出来る仕事は高が知れていた。すると唯一の友人からこの仕事を紹介されて、一矢報いる気持ちでダイヤルを叩いたという。
時代という魔物に翻弄され、全てが理不尽だと感じながらも、嘗て妻がⅠに言った『逆境に挫けないように頑張ろうね』という言葉を胸に、嬢達の我が侭や傲慢や罵りに耐えつつ、この仕事を続けていき、今日に至ったのだと涙ながらにⅠは語っていた。
「ところで、アナタの出身はどこなの?」
Ⅰは風に髪を棚引かせながら、暗く沈む海を見つめていた。
「私の出身は鹿児島の砂丘が近い港町です。」
「えっ!?貴方、鹿児島なのっ!?」
「えっ?佳織さん。どうしたのですか?」
この街で同郷の人とこれまで出逢う事なんてなかった私は、Ⅰに対して一気に親しみを持った。が、同じムジナである事に変わりはなく、まだまだ気を許す訳にはいかない。
「い、いや…。何でもないわ。話を続けて。」
これまで聞いてきた話でも散々な憂き目に合った事は十分伝わっていたのだが、Ⅰが一際堪らなかった事。それは会社側から標準語を強要された事だったらしい。
私も大阪へ来た当初、どこへ行っても方言に対して指摘され続けた経験はあるが、馬鹿にされたという記憶はない。私はただ、地元を特定されるのが嫌で自ら標準語を習得しただけ。しかし、Ⅰの場合は全く違う経緯である。
会社側からしてみると、訛りのきつい鹿児島弁をうまく聞き取れないからそのような措置を取ったのだろうが、きっとそれは名目上の話。営業課に所属していたのなら、そのような指摘を受けても仕方がない事だと納得するのだが、Ⅰの業務は庶務。人と話さなくても大概の事はできてしまう仕事内容である。
それなのに何故、標準語を強要されなければならなかったのか…。
『社会の闇であり、極めて遺憾な人間の醜悪さ』
そう、いじめである。
右も左も分からない地方出身者がその標的となるという事はよく聞く話であり、周りの者からしてみると『ただ、なんとなく』。きっとこれといった理由などない。
下っ端のⅠは請けざるを得ず、標準語を必死に習得しようと努めた。そして拙い標準語を喋り始めたⅠを散々コケ扱いした者がいたに違いない。
それでもⅠは家族の為、自分の為、これからの幸せの為と、歯を食いしばり、笑顔を張りつかせながら耐え難きを耐え忍んだ。漸くして標準語を習得したその時、会社側からあの通告を受け、そして…。
今は生きる為だけにこのような底辺の仕事についている。他のドライバーも色々な出来事を経て、この仕事にたどり着いたのだろうが、ここまで酷い仕打ちを受けた者はそうそういないだろう、きっと。
これは私の憶測。
庶務を懸命に全うしていたⅠは、数多くの課から様々な仕事を受けていて、他社へ荷物を早急に運搬せよという命令により、大阪市のみならずどこまでも車を運ばせ続けた。そんな小間使いのような扱いの中、事細かい道路事情を自然に体得していったのだろう。
それが先ほど、天王寺から寝屋川までの最短距離を進ませる事ができたのだと仮定すれば、何となく合点がいく話であり、きっとこれは当たっているに違いないと、私の直観が叫んでいた。
Ⅰはこれまで、誰にも打ち明ける事もなく、これまで頑張って生きてきたのだろう。開いた心の扉から、悔しさや淋しさ、居た堪れなさが、まるで川の流れのように溢れ出していて留まる事を知らない。遂に膝を地に着かせ、平伏せ叫ぶⅠの背姿を眺めていると、ふと、私に思う事が浮かんだ。
それは、こんな辛酸舐めた過去があるにも関わらず、この男は疑いもせず、何故私に全てを曝け出しているのか。
もし、買ってあげたお握りがこの男の心を開いた鍵だったとすると、それは余りにも軽率であり、世間知らずも甚だしい。
確かに人を信じるという事は悪い事ではない。しかし、このような穢れのない馬鹿を騙してのさばる輩が多すぎるこの世の中。Ⅰはきっとこの業界だけではなく、現代では浮かばれる事なく死んでいくのだろう。
信じる者と書いて儲けるという言葉の意味は、きっと両者の思惑により存在している。
愚かしいほど、人を疑う事を知らず、折り紙つきの清らかさ。そして大阪府の交通事情を網羅していると思われるこの男と出逢った今日が、この業界を生きていく私にとって正しく青天の霹靂。
この男を上手く利用する他ないと思った私は、
「Ⅰさん、これまで辛かったのね…。大丈夫よ、うん…。もう大丈夫。」
情けなくうずくまる背姿に用意した甘い言葉をかけ、偽善を上乗せするように優しく背中を抱きしめた。
するとⅠは、泣きじゃくる子供のような奇声を上げながら、まるで掻きつくように私の身体をきつく抱きしめた。
『掛かったわね…。』
この状況で男が仕出かしてくる行動は一つしかなく、淋しさだけを心に憑依させたこの男は確実に私の策に溺れる。
私は彼の頭の横で密かに微笑み、次の展開へと誘い込むトラップ。そっとⅠの背中に腕を回した次の瞬間、やはりⅠは私の唇を奪ってきた。
この時点で私の目論みは九割到達していて、後は幾事か言葉を施すのみ。
私のを不器用に吸い続けるⅠの情けない顔をぼんやりと眺めていると、唇を離したⅠの視線とぶつかった。
Ⅰは私を信用しきっているのだろう。夏に咲くあの華の如き笑顔で、まるで初めて恋を見つけた少年のような眼差しを向けていた。勿論私はそれと相反するような無表情。今からこの男を絶望の淵へと叩き落とさなければならないのだから。
「Ⅰさん…。私に何を仕出かしたのか、分かってらっしゃるのかしら…?」
「…。えっ?」
私のその言葉に、Ⅰの眼差しから瞬時に光が消え失せた。
「如何なる場合でも、店の商品である嬢にドライバーは手出ししてはいけないという規則があるのをお忘れだったのかしら…?」
「いや、その…。」
正しく天国から地獄。Ⅰがそのような心境に至らしめられている事など表情を見なくとも明白であった。ここまでくれば後は仕上げのみ。
「Ⅰさん、この事は店へと報告させて頂きます。ドライバー、Ⅰに襲われ、無理矢理犯されたと、ね…。」
「いや、私は佳織さんとキスしただけでして…。」「そのような事、店側が信じるとお思いで…?」
「うぐっ…。」
Ⅰは言葉を噤ませ、暗く沈んだ瞳で私の顔を見ていた。
高速道路と思わしき道から、過ぎる車の音がコンクリートに反射して聞こえ、汽笛がどこからともなく唸っている。未だ店から何の連絡もなく、どれだけ時が流れたのか分からない。
「私はこの事を報告する為、これから店へと電話致します。して、Ⅰさん。アナタはこれからどうするのでしょうか?」
「僕はどうしたら、どうすれば…。どうしたら、どうすれば……。」
そんな言葉を念仏のように呟き、足元に視線を落としながら身体を戦慄かせるⅠの姿を確認し、私はきつく歪ませていた口元を再び緩ませた。
「そうねぇ…。店への報告、やめて差し上げても構いませんが…。」
「えっ!!?そうして頂けたら本当に助か…」「但し、それには一つだけ条件があります…。」
寸断した言葉に、Ⅰは表情を痛く強張らせた。
それもその筈。一瞬だけでも心を許し、しかし叩き落した者から上げられる条件。Ⅰからしてみると、これ以上何を突き付けられるのかと、絶対零度ばりに肝を冷やしている事だろう。
それはⅠがこれまで受けてきた仕打ちよりも確実に厳しいものではないにしても、男としての尊厳を著しく奪われるという過酷な条件。
「Ⅰさん、店に上告しない代わりに、私の手となり、足となる下僕へと成り下がりなさい。いいわね…。」
最早これ以外で生きる道を見い出す事のできないⅠは、これを受けざるを得ない事など明らかである。
目の前で肩を落とし、言葉なく頷く男の姿を見下していると、車の中にある私の携帯が激しく鳴り響き始めた。
それは店からの着信音であった。
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