第5話 アナザー

 そういえばドライバーのⅠとの経緯を話さなければならないだろう。


 それはMと出逢う随分前へとさかのぼる。


 あの時は確か天王寺の仕事を終え、次はいつも予約を頂いている常連客が住まう寝屋川へと向かう時だったと思う。


 玄関を出たすぐ側に迎え車は止まっていて、見た目30代後半の、Ⅰと書かれた名札をぶら下げたドライバーが後部座席のドアを開けて待っていた。その対応に悪い気はせず、『ありがとう。』と言って、滑り込むように乗車した。


 嬢が帰ってくるとドライバーは確認の為、店へと一本連絡をしなければならない。Ⅰは携帯電話を持ってその場を離れていった。


 その間、私は車の中でリカバリーに勤しみ、終わってもⅠは帰ってこない。いつもなら何かしらの本を常備しているのであったが、この時は何故か持ち合わしていなかった。


 ふと目を横にやると、根も葉もない芸能の噂が掲載されているだけの下らない雑誌が置かれていて、退屈しのぎに仕方なくその雑誌を手に取った。


 約束された時間まで一時間を切っていて、ここから果たしてその時間までにたどり着く事はできるのだろうか。不安定な都会の交通事情を嫌に把握しているから尚更である。


 半ば苛つきながら、全くもって信憑性に欠ける文章を流し読みしていると、「おまたせしましたー。」と、いきなり上がった声に私は驚いてしまった。


 恐る恐る視線を前に向けたそこには、屈託のない笑顔がこちらへと向けられていて、それを見るや否や、私の胸は何故か高鳴った。


 否、ただ驚いただけであろう、きっと…。


 妙な動揺を塞ぎこみながら、次の受注先である住所を告げ、「よろしくどうぞ…。」私は決まり文句のように呟くと、Ⅰはそれに笑顔で頷き、ゆっくりと車を走らせ始めた。


 次の受注先までどのようなルートを使うのかは、所謂ドライバー側の経験とセンス。常連客の家までの最短距離はこれまで通っている私が一番知っている訳で、初対面であるこのドライバーの腕と知識を測るよいきっかけ。


 雑誌の文面から目を逸らさずまま、過ぎる景色の様子を窺っていると、思い描いていたルートを順々に車は進み、思いの外早く客元へとたどり着けた事に私はこの上ないほどの感動に包まれていた。


 下車する時、「Ⅰさん、このお客様はいつも120分指名なの。だからその時間に合わせて貴方が私を迎えに来てちょうだい。頼めるわね?」と、殻にもない言葉を何故か口走っていた。すると、


「事務所へそう伝えておきますっ!!佳織さん、頑張ってくださいっ!」


 私は一つだけ頷き、心を仕事モードへと切り替えながら、客が待つ家のインターフォンを押した。


 こうしていつもの120分は過ぎていき、始まる前とは打って変わった淡白な言葉を背に玄関を後にすると、約束通り、後部座席の扉を開けたⅠの姿があった。


 私は車へと乗り込み、シートへと腰掛けて深い息をついた。


 運転席へと戻ったⅠは、「次はどこの御予定でしょうか?」そう問いかけてきたが、未だ店からの連絡は受けていない。


「まだ入ってないわ。」

「それなら、詰所へと戻られますか?」


 私はしばらくの間考えた。


 このような場合、一度店へと戻り次の予定が入るまで、待機している嬢と何気ない会話をしながら詰所で待つのが定説である。が、ドライバーだけでなく、他の嬢も然り。意味のない馴れ合いの中にいる自分の姿など想像できる筈もなく、会話を続けられる事なんてできないだろう。


 詰所に戻る事は定説なだけで、規則というほどではない…。


「いや、戻らなくてもいいわ。次第に電話かかってくるでしょ。それまでⅠさん、どこでもいいから車を走らせてもらってもいい?」

「えっ?僕はそれでもいいんですが、佳織さんは大丈夫なんですか…?」


 Ⅰはきっと私の妙な噂を確実に耳にしているだろう。


 普段から誤解されるような行動を自ら仕出かしているのだから、こう聞き返してくる理由も分からなくはない。しかし、今だけはこれ以上余計な言葉を挟みたくなかった私は、


「何?何か都合悪い事でもある?」

「い、いえ…。失礼しました。では…。」


 Ⅰは焦る態度でハンドルを握り、とりあえず国道一号線に沿って車を走らせ続けた。


 この道は別名、東海道。その昔、様々な想いを馳せ、この国を支えてきた猛者達が行き交っていた歴史的にも由緒正しい道である。筈が、今の私からしてみると、各所の常連客の元へと運び込まれる為だけに敷かれた道にしか過ぎず、歴史ロマンも何も知った事ではない。


 居酒屋やビジネスホテルの光が仄かに灯り、遠くの方には意味なく聳え立つビルの大きな影と町工場から唸るような音と目障りな煙。


 全て闇の中に映し出されているこの景色を眺めている私の胸に何が残り、どう影響を及ぼすのだろうか。きっと何も残らず、そう思う事さえ意味なき事であるのは分かっている。


 しかし、そう感じてみたとしても、自分の存在価値が確実にある事を微塵ながらでも信じたい。


 幼少期に見た両親の不仲。全てから逃れるようにこの街へと来た私の意味と意義。

愛がなくても、一片の温もりを感じ取る事のできる、決して人には誇らしく語る事のできないこの仕事。


『私はどうして生きているのだろう…。』


 そう思いながら、流れる景色はいつしか蒲生四丁目付近を映し出していた。


 アスファルトの砂漠が続き、造幣局沿いの人工的な河に、嘘くさく散りばめられた宝石のような街の光が煌めいている。梅田の摩天楼の元を通り過ぎていき、ネオンが夜空を混濁した色に染めていた。


 こんな情景がどこまで続くのだろう。いつまでこんな状態を続けるのだろう。そう思った時、私は街頭の光に取り残された子供のような孤独感が胸の奥深くに突き刺さった。


 欲望だけが吹きだまるこんな街の中で、何かを求め彷徨っている私。どこに向かっているのか、何を考えているのか、分からない…。


「佳織さん、さっきから顔が真っ青ですが大丈夫ですか?どっかのコンビニで休憩しますか?」


 意識朦朧の中、全身が汗に塗れている。Ⅰのその言葉で私はようやく我に返り、


「ごめんなさい。そうして貰えたら助かるわ…。」


 車はすぐ側にあったコンビニエンスの前に止まり、私は車から飛び降りて、未だ残る客の生々しい臭いと感触。これまで通り過ぎた情景を見て蓄積された感情、そして震える孤独を便器へと吐き出し続けた。


 鏡に映った顔は自ら驚愕するほど青ざめていた。剥がれてしまっている化粧をとりあえず直し、待たせているⅠに詫びる気持ちで缶コーヒー二つとペットボトルの緑茶。お握りを幾種か購入して車へと戻った。


「お帰りなさい。大丈夫ですか?」

「ごめんなさい。もう大丈夫よ。Ⅰさん、お腹空いてない?これ、少しだけれど食べてちょうだい。」

 

 Ⅰの表情は爆発するほどの笑顔へと変わり、差し出した物をひったくる様にお握りを徐に口へと運ばせた。


「いやー、いやー。恥ずかしい事に、ここ二日くらい何も飯食ってなかったから。うん、旨い。マジ美味いっすっ!!」

「え…?」


 お握りを食べ尽くしても、指もぺろぺろと舐め、ペットボトルを牛飲していた。


 それは今置かれている私自身よりも惨めで、残酷な姿。私は過去に読んだ書にある一説を思い出した。


『孤食とは人の本来の姿。それ即ち、餓鬼。欲望の化身である。』


 先ほど、Ⅰはまる二日何も食べていないと言った。こんな仕事でもそれなりに金は稼げている筈が、何故そこまで餓えを煩わせているのだろうか。


 そういう状態であったにも関わらず、私を迎えに来た時のあの笑顔の力は何なのだろうか…。


 本来、他人の事に何の興味も抱かない私が、何故ここまでこのドライバーの事が気になるのか、気にしてしまうのか…。


「Ⅰさん、大丈夫?」


 コーヒーを貪り尽くすと、Ⅰは満足そうな面持ちで頷き、「さて、このまま海まで行っちゃいますかっ!!」


 蓄えた英気を発散させるように、車は力強く発進した。

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