第2話 ファースト・コンタクト

「あ、ここに座って。今、お茶入れるから。」


 薄暗かった部屋に明かりが灯ると、広々とした空間が目の前に広がった。

 玄関と直通のこの部屋はダイニング。側にはキッチンがあり、男はそこで急須にお湯を注いでいた。


 その奥に二つの部屋があるらしく、やはりここはファミリータイプの家。若い男が何故こんな家に住んでいるのかという疑問だけが私を捉えていた。


「改めて、いらっしゃいっ!」


 私の横へと座り、お盆に乗せていた急須から湯飲みに茶を注ぎ、私に勧めた。


「あ、ありがとう、ございます。」


 受け取りそれを口に運ぶと、味わい深い茶葉が口全体に広がり、思わず私は吐息を漏らすように言葉した。


「お、おいしい…。」

「関西ではなかなか味わえない代物だよ。君の口にあってよかった。」


 男は私を見つめながら満足そうな面持ちで言った。


 若い風貌。やはりそれが印象的というか、何より意標を突かれた事で、未だ困惑のふちに誘われている私。与えられた茶の温もりに何となく救われたような気がした。


「君の名は?」

「あ、申し遅れました。佳織と申します。当店をご利用頂き、誠にありがとうございます。差し支えなければ、お客様の御名前を拝借させて頂いても構わないでしょうか…。」


 私はテーブルの側から咄嗟に離れ、男の前に三つ指を突かせて頭を垂れた。


「えっ!?いや、まあ…。性はOで、名はK。後は好きに呼んでいいけど、佳織ちゃん。えっと、普通にして貰っていいかな?謙るのは商売柄仕方がないのかもしれないけど、実際僕はそういうのは好きじゃないんだ…。」

「えっ?は、はい。申し訳ございませんでした…。」


 大概の男はこれで鼻の下を伸ばし上機嫌になるのだが、他の客とは何かが違うこの男の雰囲気に、私はどう対応していこうかと思考を凝らしていた。


「K様、大変申し訳…。」「喋り方も普通でいいよ。」


 けん制の言葉に、心中と顔に若干の熱が走った。しかし気にかけても仕方がない。


「では遠慮なくそうさせてもらいます。Kさん、私とイニシャルが一緒ですね。あんまりいないから、私びっくりしちゃいました。」

「そうなの?ふーん…。で、佳織ちゃん。歳は幾つなの?」

「私は…、最近22になったばかりです。」


 イニシャルのくだりよりも、歳の方が男の関心を誘ったらしく、私の全体を舐めるような視線で見つめていると、


「ふーん、歳の割には随分色っぽいし、ここまで美人ときたもんだ。本当にびっくりだよ、ははははは。」


 どこか乾いた笑い声に、私はどうしようもない想いに苛まれた。


 この謎のコミュニケーションがそもそも私の調子を狂わせている根源であり、いつもならもう既にシャワーを浴びていてもおかしくないが、まだ利用時間さえも聞き出せていないという現状…。


『あ、利用時間、聞かなきゃ…。』


「Kさん、すいませんが御利用時間はいかが致しますか…?」


 男は少し考える風な面持ちで、「時間も時間だし、申し訳ないけど60分でいい?」と肯定も否定もできない返しに半ば驚愕しつつ、私は無言で頷いた。


 店へ利用時間を告げた今から敷かれている規定内ではあるが、私はこの男のほぼ言いなり状態となる。むしろ仕事モードに入らなければならないのだが、淡白なこの雰囲気に心のスイッチがうまく切り替えられず困り果てていた。


 未だ身体に指一本触れられていないのは何故なのか。こちらから強要するのも変な話であり、しかしながらこのまま何もしないのも…。ただ、旨そうにのんびりと茶をすする男は、常に時間と共に金が流されているというこの状況を理解しているのか。  というよりこの男、歳は幾つなのだろう…?  


「Kさんは、お幾つなんですか?」

「ん?28だよ。いつの間にか歳食うばかりで参っちゃうよな。ははははは。」


 正直、もっと若い見た目であるが、何より20代。歳を食っているという表現は全くもって適切ではない。


「そんな…。20代でそんな物言いなら、いつか誰かに怒られてしまいますよ?歳より更にお若く見えますし、まだ自分の事お兄さんと言っても平気ですよっ!!」

「そう?ははっ、ありがとう。」


 男は単調にそう呟き、再び茶を啜った。


 こんな夜更けで、しかも田舎の外は恐ろしく静寂で、茶のすする音が鮮明に聞こえてくるほど、無音なのである。


 何の行動も、要求もしてこない以上、何をする事もできないが、呼ばれたからには何かをしなければならない。何の情報もないこの男と会話をする為に脳をフル回転させている中、入り口で見たバイクの事を思い出した。


「表に止めてあるバイク、かっこいいですね…。」

「あれ、俺のだよ。学生時代に頑張ってバイトした金で買った俺の親友。だから地元に残して大阪来るのは何だか忍びなくてね。思い切って、連れて来たんだ。ははは。」

「確かに関西の言葉じゃないなって思いながら聞いていましたけど、Kさんの出身はどこなんですか?」

「静岡の山間の街。二年くらい前に出張でここへやって来たんだ。いつ地元へ帰れるのかまだ分からないけどね…。」


 窓の外に視線を向けた男の表情は物憂げで、どこか淋しそうな口調が郷愁を物語っていると思った。


 もしかすると二年経った今でもこの地に馴染みきれず、やりきれない想いで過ごしているのかもしれない。バイクの事を親友と言い切ったという事から、この地に親しく思う者がいないと察しがつく。


 きっと、この男も淋しい想いを抱えながら今を生きているのだろう…。


「ところで、佳織ちゃんはどこ出身なの?喋り方、確実にここじゃないからさ。」

「あ、はい。えっと…。」


 本来なら特に差支えない質問であるが、すぐ様応えられないのは…。戸惑うばかりの私の行動に、男はふと笑顔を浮かべた。


「答えたくなければいいよ。人それぞれ、語れない事一つや二つはあるもんさ。」

「はい、今はまだ…。申し訳ございません。」

「だからいいって。で、さっきの話に戻るけど、佳織ちゃんはバイクに興味あるの?」


 目を輝かせた男の視線が私に向けられた。


「あ、実は私、今バイクの免許取ってる真っ最中なんですよっ!!」

「ふーん、そうなんだっ!!何乗りたいとか目星つけてるの?」

「はいっ!!色々聞きたい事あるんですが、構いませんか?」

「いいよ、何でも聞いて。」

「ありがとうございますっ!!では…。」


 会話の活路を見い出した事も相まってか、これ以上会話を途切れさせないように、私はバイクに纏わる質問を投げかけ続けた。何一つ嫌な顔をせず、寧ろ笑顔で応えてれくれているこの男。


 私への質問は何もなく、身体さえも求めてこない。私がこの場所に呼ばれた意味は何なのだろうか。ともかく私は必死に言葉を続かせていた。


 そうしなければ、自分の存在意義が損なわれてしまう、そんな気がしたから…。


 私の携帯が空間を切り裂くように激しく鳴り響いた。それは店側から終了十分前の知らせである。


「お時間十分前ですが、延長は…。」

「うん、佳織ちゃん。今日はありがと、楽しかったよ。これからも頑張ってね…。」


 手元から万券を取り出し、笑顔で手渡してきた男の心情。


『楽しかった…?それはきっと嘘。だって、大金叩いて私の質問に応えただけで何一ついい想いしていないまま。この笑顔の意味って何なの?この男、一体何を考えてるの?意味不明、理解不能…。』


 残された時間は僅か十分。


 その真意を知る必要があると思った私は、というよりも、前例のないこの状況の意味をはっきりさせなければ、これからの仕事に差し支える事になると考えた私は居ても立ってもいられず、


「Kさん。私は貴方に何もして差し上げていないはずです。それなのに、何故…。」

「ん?充分満足させて貰ったよ?何言っての佳織ちゃん。」

「そんな訳、ある筈がないでしょうがっ!!」


 気がつくと私は男の前に立ちはだかり、毒ついていた。


 高々風俗嬢の排他的な仕事。そう思われても仕方がないが、そこら辺の身売り女と一緒にされたくない。だからこそ、一流ホテル並みの接客や言葉使い。または店のHPに記載されている22という歳を疑われないように、肌やスタイル、はたまたファッションや佇まいのチェックに怠る事はこれまでなかったという自負が私にはある。


 そんな私に指一本触れず60分を過ごされたという事実を認める訳にはいかなかったのだ。


「い、いや…。佳織ちゃん。実は会社の先輩から今日、可愛い女の子が必ず来るからってこのチラシ渡されたんだよ。半信半疑で電話したら、すっげー美人が来て、俺、ホントびっくりしたんだわ。」

 


 恥ずかしげな面持ちで男は言葉を続かせる。


「家に入った時、どうしたらいいのか分からなくなっちゃってさ、本当はちょっとえっちな事できたらいいなって思ってたよ。普段、そんな機会なんてないから尚更。俺の奥手が佳織ちゃんの逆鱗に触れたのならごめん。必ずまた呼ぶから、その時本気で相手してね。ホント、ごめんね…。」

 


 外から軽くクラクションが鳴らされた音が聞こえた。それは十分過ぎたという合図。


「Kさん、帰ります。本日お呼び頂き有り難う御座いました。」


 私は淡々と言い、鞄を手に持ち玄関に歩を進ませた。

 玄関口で私と男は少しの間、視線を向け合った。


「一つだけおまじないしていいかしら?」

「ん、それは何?」

「瞳を閉じて下さい。」

 

 男は言われるがまま瞳を閉じると、私は唇を男にそっと重ねた。


「えっ!?」


 目を見開らかせた間近で視線が合い、私は唇を離した。


「こうしたなら、また呼んでくれるって気がして…。じゃあ、私行きます。」


 一礼し、扉を開けると、秋の薫りを放漫に乗せた風が私を出迎え、男のバイクを横目に建物を後にした。


 金を貰えたからよしとできないこの性分は、きっとこれからも変わらないし変えたくもない。ただ、私を呼んでくれた客に満足して欲しいだけ。


 あの男はきっとこのキスを思い出し、再び私を呼ぶ…、はず。その時、私は身も心も預けるほどの仕事をしなければならないと思い返しながら、Ⅰの車に乗り込んだ。

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