岡崎モユル

第1話 ファースト・コンタクト

 この仕事の電話を受けた時、私は尼崎付近で仕事をした帰りの車の中だった。


 ドライバーのⅠ氏にこの仕事の発注先の場所を告げると、あからさまにめんどくさそうな表情を浮かべて低い舌打ちを鳴らした。


「八尾市っすか?しかも山手側っ!?ここどこだと思ってんすか?近くに誰かいなかったんすかねぇ…。」


 確かにそれは私も思った事だった。きっと一番先にフリーになって、後に予定が入っていないのは私だけだったのだろう。とにかく今日はやけに忙しい夜だった。


「仕方ないでしょ?仕事なんだから…。」

「それにしても遠すぎますよっ!下道で行くからかなり時間かかる事、店に了解して貰ってもいいっすか?」


 店側からするとドライバーが高速を使おうが下道で行こうが知った事ではない。高速代は愚か、ガソリン代すら支給されない事はⅠだけではなく、他のドライバーからも耳にタコができるくらい愚痴られていた。


「そんな事、私の口から言える訳ないでしょ?高速代くらい私が立て替えてあげるから早く運んでちょうだい。」


Ⅰは少し期待するような口調を浮かべた。


「ガ、ガソリン代は…。」

「下らない事言ってないで早く行きなさい!」


 すると肩をすぼめながら軽く舌打ちを鳴らし、その後は一言も発する事なく国道43号線へと上った。彼の舌打ちは癖のようなもので大して気にはならない。少し気が弱い上に若干の弱みを握っている私としてみれば、彼が何を言おうが恐るに足りなかった。


 尼崎と大阪は目と鼻の先ではあるが、これから運ばれる八尾市教興寺という場所は大阪の山手、若干南側の位置。スムーズに行けたとしても一時間以上かかる場所なのである。


 現在時刻は深夜一時過ぎ。大分時間がかかってしまうと客が寝てしまう可能性があり、インターフォンや電話での呼びかけでも何の反応を示さなかった場合、ゲーム・オーバー。


 届けるのが遅いという私達の過失となり、Ⅰはガソリン代を、私はお金を稼ぐ大切な時間が無駄に終わるという事でこの仕事のリスクは大変高い。しかし、受けてしまった以上、そんな事を気にしても仕方がない。


 とりあえず、ヘヤメイクチェックやネイルチェック、服装の乱れチェックなど。客に自分を売り込む為のリカバリーを入念に行いながら時間を過ごしていると、車は弁天町付近に差しかかっていて、中央大通りを東側へと曲がる。


 九条、阿波座、東船場ジャンクションと道が進むにつれ、眩いネオンや妖艶な雰囲気は一層色濃いものへと変わっていく。リカバリーを終えていた私は、手持ち無沙汰でそんな宵街の姿をぼんやりと眺めていた。


 平日のこんな時間帯にも関わらず渋滞気味で、車の流れは遅い。道の端に灯る黄色の光に規律よく遮断される流れる景色の中、大阪城公園が左側に見えてきた時、車の流れは遂に止まってしまった。


 公園内に覆い茂る木々の陰が激しく重なり合い、漆黒の闇を作り出している。


 大都会の夜に細々と生きる私には、『眩い光なんかよりも深く沈む闇の方がお似合いなのかも…。』なんて詩人めいた事を思いながら惚けていると、そんな私の姿が苛立っているように見えたのか「い、意外と込んでるっすねぇ…。」と、Ⅰは焦ったように言った。


「まあ、仕方がないじゃない…。」


 私はほうと息を吐きながらそう呟いて、誤魔化すようにペンライトと愛読書を鞄から取り出した。


 魑魅魍魎達が蔓延るこの夜の業界の中、弱みを握っているⅠは私にとって都合のいい存在であり、しかも嬢の要望がほぼ絶対的であるが故、私の専属ドライバーとして店へと申請している。だからこそ、大体はⅠが私を迎えに来るのだが、店の都合上、違うドライバーが宛がわれた場合、リカバリー他の全てを読書タイムに当てていた。


 ドライバー達がいつも言葉巧みに会話を施してくるのは、きっと嬢達の機嫌を窺うようにと店からの教育なのであろう。しかしそれに気を乗せられ、会話を弾ませてしまう事が自らの首を絞める出来事に繋がる。何故なら、プライベートの情報に付け込んでくる輩の存在がいるのである。


 そのような事で揚げ足を取られてしまい、消息を途絶えた嬢達の噂を過去耳にしてきた私は、読書という鉄壁でその場を凌ぐ事にしたのだった。


 話しかけられても本から目を離さず無視すれば大体は凌げる。もし本の内容に触れてきたとしても、私の愛読書はニーチェやマザー・テレサなどの哲学書。何の教養もないドライバー達が相槌を打てるはずもなく、二度と私に話しかけてこなくなるのである。


 ドライバー達の間で根も葉もない噂が囁かれている事を知って、私は心の中で密かにほくそ笑んだ。

 それはいいとして話を戻そう。


 外から漏れるビルの光とペンライトの拙い光でしばらく読書をしていると、先ほどの渋滞は何だったのか、いきなり車がスムーズに動き始め、本を閉じた。


 ここ森ノ宮付近はビジネス街であり、様々な職種の人々が多種多様に行き交う活気のあるエリアである。こんな深夜にも関わらず、ビルの部屋には煌々と明かりが灯っていて、天井には飛行機に存在を示すための赤い光が、まるでこのビルに残る者達の嘆きを訴えるように点滅している。


 どこか居た堪れない想いに苛まれながらも、その側を横目で通り過ぎ、徐々に街の明かりが後ろへと遠ざかっていく。東大阪ジャンクションへと差し掛かった時、先ほどまでビルの谷間から見え隠れしていた生駒山脈の稜線が完全に姿を現すのである。


 中央大通りを水島で降り、しばらく道なりに進んでいくと、国道170号線、所謂『大阪外環状線』にたどり着いた。その交差点の信号はタイミングよく青で、滑るように右折すると、信号待ちである対向車の眩いヘッドライトに襲われた。


 ほぼ奈良と大阪の境目であり、山の麓であるものの、環状線の理を十分果たしていると感じるほどの車の数。大阪市中心街とはほど遠いものではあるが、国道沿いの所々にネオンが灯っていた。この道をしばらく南下していくと、受注先である八尾市教興寺へとたどり着く。


 実は私の胸には一つの思惑があった。


 私の住まいは東大阪市、枚岡駅付近。今車を走らせているここは正しく近所と申し上げても過言ではなく、市は違えども八尾市も然り。


 住まいから直系5㎞辺りの仕事を回してこないというのは各嬢達と店との間で固く約束されていて、それが破られたという事を未だかつて耳にした事はない。嬢達の信頼なくして店が存続できるはずないのだから当たり前の話である。


 今宵はそれさえ忘却してしまうほど、注文が殺到し、店内がてんやわんやの大騒動になっているのだろう。


 規則違反である事は電話を受けた時から気づいていて、先にも語ったのだが極めてリスクの高いこの仕事。拒否する事など安易にできたのだったがあえて断らなかった理由。


 私にはとりわけ仲良くしている存在はおらず、数少ない知人の中でも、こんな時間まで起きている不摂生を働く者なんて思いつかなかったからという事と、今後何かしらの形で私の意見を通しやすくする口実を作る為。


 約束を破られたと喚くより、一つ上手に恩を売る。これが自分の身を護る鍵になるという事をこの業界に入った8年間で学んだ術であった。


 近鉄瓢箪山駅の側を通り過ぎると、眩いネオンはフェード・ダウンされ、『八尾市』の看板の先は本格的な田舎は景色だけじゃなく、空気さえも一層湿った感じに変わっていく。


 時刻は二時手前。途中若干の渋滞に巻き込まれたにも関わらず、思っていたよりも早く受注先までたどり着ける事に私は安堵の息を漏らしながらフロントガラスの先に視線を向けた。


 闇の中に優しくちらほらと灯る住宅の光。街頭に揺らめく廃墟の影。遠くの空に蒼白く光る半月と、懐かしいほどの草の薫り。流石にここら辺りの地理感はなく、過ぎていく景色を只々ぼんやりと眺め尽くす他なかった。


 24時間ファーストフード店と、コンビニエンス・ストアー。その他諸々の建物に挟まれた交差点。赤信号に進行は阻まれ、車は止まった。


 カーナビ画面を確認すると、ここが『教興寺交差点』であり、どうやらその先の細路地を曲がったすぐ側が目的地周辺であるらしい。 


「この時間からだと60分くらいですかねえ。時間かけて来た割にはあんまりいい仕事じゃないっすね…。」


 嬢が仕事をしている間、ドライバーは店の情報(通称、ピンクチラシ)を近隣にポスティングするという仕事が与えられている。そのチラシの端にドライバーの社員コードが記載されていて、客が店へと電話をかけた際、そのコードナンバーを聞き、ドライバーの働きを測る。どうやらドライバーには基本給というのは存在していないらしく、この歩合が給料の全てなのだとか。


 注文の時間が長いなら少し離れた住宅街へ行き、チラシをばら撒く事もできるのだろうが、60分となるとかなり微妙な線である。こんな田舎から下手に出向いていくと時間内に戻る事ができず、それはあってはならないという店とドライバーの話。

Ⅰがそう嘆くのも無理はなかった。


「まあ、そう腐らずにこのお金でラーメンでも食べて待っていなさい。」


 私は仕方なく高速代に上乗せした金で嗜めると、純粋なのか、はたまた馬鹿なだけなのか…。Ⅰは妙に納得した面持ちで手渡された金を、只々嬉しそうに握りしめていた。


 先にドライバーが嬢のプライベートに付け込む事があると語ったが、私はその逆の事を仕出かしていて、この男の経緯。私はそれに付け込み、こうしてⅠとの関係を作り出したのだ。


 その事は追々語る事にしよう。


 信号は青に変わり、対向車のヘッドライトに映し出された光で、フロントミラー越しに自分の顔を最終チェックしていると、車は帳へと降り曲がった次には街頭一つない暗やむ道。ミラーは闇と化していた。


 車のヘッドライトを頼りにゆっくりと道を進ませていると、目的地である建物付近へとたどり着いた事をカーナビ画面で知り、車のエンジン音が近隣住人の迷惑にならぬよう、建物の横にある小さな公園の側で止まるよう指示した。


「教興寺交差点にあったラーメン屋で待機してますんで、何かあったらすぐ連絡下さいっ!!」


 Ⅰの嬉しそうな言葉に、私は無言で頷いて車を降りた。


 周りには闇しか存在しない田舎の情景。客が待つ建物はここから目と鼻の先であるのだが、それはワンルームではなく明らかにファミリータイプの建物。私の心底に不安感が過った。


 受注先でよくあるパターンがラブホテル。それは客側が自宅を把握されない為であるらしいのだが、時折自宅に運ばれるパターンでも大体はワンルームマンション。このようなファミリータイプはほんの稀なのである。


 なくもないのだが、決まって40、50代の男性が扉の向こうから現れ、奥様が実家へと帰省したとか何とかという言い訳のような言葉を浮かべながらそのストレスを晴らすように、やけにマニアックな事を執拗に要求されるパターン…。その欲望を叶えるべく、稼ぐ為に『来させて頂いた』私達は、客の要望を鵜呑みにするしかできないのだ。


『グレイス 教興寺』


 受注先に間違いがない事を確認し、部屋番号は『203号』。向かう階段の側に、黒く凛々しく大きなバイクが一つ止まっていた。


 昔からバイクという乗り物に憧れ焦がしていて、いつの日か自分で転がしてみたいという夢を抱いていた私は、そのバイクにしばらく見とれ尽くしていた。


『否、仕事…。』


 想いを振り切るように私は階段を駆け上り、『203号』の扉の前へとたどり着いた。この後は客の要望だけに徹した時間だけを過ごせばいい。そう、それだけの…。


 私は意を決し、インターフォンを鳴らした。すると、奥の方から物々しい音が聞こえ、扉は勢いよく開かれた。


「余りにも遅かったから、来ないのかなって思っちゃったよっ!いらっしゃい。さあ、上がってっ!」


 意を挫く口調然り。想像を絶した若々しい男の姿に、私は呆然自失と立ち尽くしてしまった。


「あ、あれっ?どうしたの…?」


 不思議そうに眺めている視線とその声に我に返った私は、「大変お待たせいたしまして、申し訳ございませんでした。では、失礼致します…。」ステレオタイプな言葉を浮かべて一礼し、いつものように家へと入った。

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