3-12

 翌日。

 登校して教室に辿り着き、さて机に伏し寝ようかと考えた頃合いだった。


「おねんねするくらいなら私とおしゃべりでもしない?」


 よく知る女の声が頭に降りかかるので、眠さの残る脳に鞭を打って顔を上げてみると、


「朝っぱらから俺と会話なんて気が滅入るだけだぞ」


 手入れされたきめの細かい黒髪ロングを靡かせて、隣の席の椅子を引き腰掛けた桜庭。偏差値八十越えのルックスがぼやけた瞳に映る。朝っぱらからこんな美少女との会話、罰が当たりそうだ。


「……俺には怒らんのか? 昨日の練習、俺にイラッときたろ?」

「ムカツかなかったと言えば嘘になるけど? まーでも、善慈くんの気持ち、わからないでもないし」


 それよりも、と弾んだ声で前置きを置いた桜庭、


「昨日の練習、私ってあの人よりも先に戻ってきたよね。それ褒めてよ」


 そもそも出ていったこと自体が咎められるべきだろ。


「……ああ、偉いな。桜庭は依頼を遂行させようっていう意志が強いもんな。それはよく思う」


 別に嘘は言ってない。飾った言葉でもない。思ったことを素直すぎるくらいに言ったまでだ。


「おっ、褒めてくれた。……ふふん、ありがと」


 いつもの取り繕ったお姉さん的笑顔の影にチラッと、純粋な顔の綻びが見えたような気がした。……気のせいか? なんせ、寝ぼけているモンで。


「ギターだって家で練習してるよな。歌いながらギター弾くの、最初に比べて格段に上手くなってるし」

「……んー、ヒマだからってのも……あるけど?」


「そのストイックさは俺も見習わねぇと。まずは依頼遂行って姿勢、篠宮も評価してるんじゃねぇの?」

「なんか褒めすぎて気持ち悪いんですけど。善慈くんじゃないみたい。昨日のことで文句言ってもいいのに。私、怒らないからさ」


 冗談めかしく小顔を柔に崩した桜庭。


「フッ、上げて落とすのが俺のやり口だからな」

「うわー、サイテーな男。その陰湿さ、やっぱ善慈くんかも。それで、落とすってのは? 私に文句付けられるほど度胸のある男の子だっけ、キミって?」


 イタズラっぽい笑みで、黒髪を垂らしてその端正な顔立ちを俺に近づけた彼女。


「桜庭はとびっきりの美人だからな。そんな女に声掛けられると、俺に気があるんじゃないかって一日中考えるんだよな。日常に手が付けられなくなるは最悪な面だね」


 ……うわ、言った後で猛烈な後悔が襲ってきた。…………何を言ってるんだ、俺は。

 桜庭は小さく口を呆け絶句。目を丸く見開き、そして――――、


「バッ、バカ! そのセリフ録音して百回聞いてろ!」


 侮蔑と羞恥という共存の難しそうな表情を俺に仕向けて、早口でそう言い放った。


 ……やっぱり、慣れないことするもんじゃないな。こんな言葉では俺の意図は伝わらまい。

 でも、桜庭はそっぽを向きつつも若干頬を赤らめ、


「話し相手になってくれてありがと。それと、こんな私に優しくしてくれてありがと。善慈くんの言いたいこと、何となくわかった気がする。じゃあね」

「……ふんっ、そうかい」


 その言葉で救われたような気がしたのは事実だ。


       ◆


 六限目、本日の最終科目は体育。男子を担当する教師が出張ということで、本日は男女合同の活動となった。

 日直の仕事でもたついたせいで、一人で気楽にグラウンドに向かっていると、


「ぜーんじくんっ」


 後ろから元気よく聞こえたのは聞き慣れた女子の声。


「織川か。俺より後に来るなんて何に手間取ってたんだ?」


 体育服に着替えてもトレードマークの金髪お団子ツインテールは変わらない。そんな織川は小走りで俺を追いかけてくる。その動作により生じる胸の揺れ、思わず目を逸らした。

 追いついた織川、俺の隣に沿い所どころ息を切らして、


「えへへ、やり残した宿題を出しに職員室にね。ぜんじーは日直のお仕事だっけ?」

「そうだ、榊原教諭はやたらと黒板を埋めたがるからな。消すのに手間取った」


 数学教師であり青春部の顧問である榊原海音。字は丁寧なのだが、俺の指摘どおりとにかく黒板を埋めたがるし筆圧も強いしで消すのにいろいろと大変なのだ。


「今からドッジボールやるみたい。ぜんじーは得意? いっつも最後まで残ってそうな雰囲気オーラ放ってるけど?」

「ザッツライト、反射神経の優れた俺なら大抵は終盤まで生き残る。できれば序盤で当たっておきたいところだが、俺の才能はそうさせてくれないらしい」

「えー、ソッチ系? てっきり影が薄いから……」

「ハッ、それもあるかもな。まぁ、それでも素人の投げるボールくらいは容易く避けられる。踏み込む瞬間に方向は掴めるし、変化球はないだろうし、スピードだって遅いしで」


 と、至極どうでもいい自慢をしてしまった俺。こんなの野球の経験があれば可能だろう。

 それでも織川は感心してくれて、


「へー、すごいなぁ。……あたし、ドッジ苦手なんだよね。大体序盤でターゲットにされちゃって……」

「そりゃあ織川が優しいからだろ。優しいヤツってのはそれだけで食い物にされる」

「弱そう、じゃないの?」

「そうとも言える。まあでも、少しはポジティブに考えたほうがいいだろ?」


 ポジティブだなんて、この俺が言うのも失笑モンだけどな。


「織川は敵に容赦するタイプだろうな。ボール持ったらとりあえず外野に投げるか、それか敵の足元狙って投げる。……そうだろ?」

「なんでわかるの! ひょっとしてあたしの心読んだ!?」


 そう驚くことでもないだろ。だって見てりゃあわかるし。


「キレられるってのも印象に残るけど、優しくされるってのも印象に残るんだよ。……俺が演奏ミスりまくってる時も庇ってくれたしな。……あん時はありがとう、まだ礼は言ってなかった」

「あんなことでイチイチ突っかかるほうがおかしいよ、心狭すぎ。それと、どういたしまして」

「アイツの心が狭いとかじゃなくて、織川の心が広いんだろ」


 少なくとも俺はそう思えた。桜庭に突っかかったのだって、その優しさが引き金になったのもあるし(その後の行動は擁護不可能な部分もあるが)。


「えへへ、ありがとそう言ってくれて」


 織川は笑ってくれた。織川らしい、飾らない自然な笑顔で。


「あーでも、ドッジ嫌だな~。当てられる瞬間って何であんなにムカツクんだろ?」

「気持ちは痛いくらいにわかる。まあでも、今からドッジやるのが俺たちの仕事みたいなもんだ。だから織川、たまには見返してやってもいいんじゃねえの?」


 おっ、今度は百年後悔するような恥ずかしいセリフではなかった。だけど自然な流れで言えたセリフなんで、織川は意図に気づいてくれたか? 思わず心配になったが、


「うん、そだね。あたし、しっかりとドッジやるよ!」


 俺の顔をしっかりと見てそう言ってくれた。……ふん、心配は無駄だったな。どうやら織川にも俺の伝えたいことが届いたようだ。

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