第11話

 会議室に、関係者が集められる。関係者、と言っても何時もの面々に加えて、亜人保護管理局の支援部隊隊長が来ている程度だ。実戦部隊の人手不足を補う支援部隊だが、戦闘力としては頼りにならない。それでも、施設や路地の封鎖には彼らの手が必要不可欠だった。

 集合は刻限よりも早く、当然ながら遅れは一人もない。肌がひりつく空気は軍議のそれだ。面々の顔は、クレハを中心にどこか暗い。

 クレハが捜査目標が星見亭であること、突入や封鎖のタイミング、人手として軍からはグロイザスの部隊を動員する方向で話が纏まっていることなど、作戦内容を手短に説明していく。

「クレハ司令、本当に月光魔の帳として星見亭、あの店を御用改めして大丈夫構わないのですね。確かに、情報は集まりましたが、確定的な物は」

 こういう時に、むしろ慎重になるのはゲイリーであった。軽いノリでいるのも、ある意味では軽くいられる確証があるからだ。漠然とした状況で、割り切ることはしても、勢いだけで物事を進めようとはしない。

「状況証拠が、揃った。それで十分よ。闇娼館からアザレアちゃんが逃げ出して、警戒を強めていたはずよ。彼処が本当に黒なら、雇っていたヤクザ者が敗北した。その連絡が入った時点でもう逃げの算段に入っているわ。日を待つなんて無駄な話よ。腹を括りなさい。どうせ、責任は私が持つのだから」

「了解しました」

「他、何かあるかしら」

 クレハの視線が、アルバートに飛ぶ。普段の、不愉快な笑みではない。戦場に立つ、戦士の瞳だ。耳もピンと張り詰め、凜々しく上を向いている。普段の胡散臭い笑顔よりも、余程美人だ。

「俺からは、一つ。突入に、アザレアを連れて行く件だが」

 クレハに頼まれる前に、アザレア自身から頼まれていたのだ。その意志を突入が確定した段階で問い詰めても、変わりはなかった。少しだけ周囲がざわつくが、凡その予想は付くのか大きな波紋にはならない。

「クレハの案通り、連れていく。問題はない」

「そう。アザレアちゃん、アルバート、よろしく頼むわよ」

「い、いえ」

 クレハが言い出したこと、そうしておく方が何かと都合が良い。アザレアとクレハでは、立場には雲泥の差がある。

「みんなにも分かり易く説明すると、そう、つまり、建物内の案内係、ね。お店の表面上は兎も角、亜人を隠しているであろう裏側の案内には、アザレアちゃんの知識が役に立つと思うから。突入部隊は、アザレアちゃんのサポート、よろしくね」

「ええと、よろしくお願い、します」

 任せて、と返事の威勢が良いのは、やはりゲイリーであった。場を、アザレアを和ませながら話を終わりに持っていく。

「それでは、各員配置に。各隊の準備が完了次第、突入開始です」

 号令を受け、各々が動き始める。やると決めれば、躊躇うような者は此処には誰も居ない。仕事を、仕事としてこなす。プロでなければ、此処ではやっていけないのだ。亜人を相手に迷えば、最悪の場合死に至る。そういう意味では、戦場に立つ戦士と何も違いはないのだ。

 喧噪であるが、静寂である。戦いの前の、実戦前の、緊張感だ。アルバートは、この独特の空気が好きであった。無論、実戦と言っても、今回のコレは軍と軍がぶつかるようなものではない。戦いとしては、ヤクザ者な用心棒と小競り合いが起きる、精々その程度の話だろう。それでも、である。戦場、そう、アルバートにとって、これは戦場なのだ。

「アルバート隊、総員配置に、と言っても、僕と先輩だけなんですけどね」

「ぼやくな。増員の申請はクレハにしている。その内に増える」

「それって、いつになるんでしょうね」

「俺が知るか。クレハに聞け。精々年単位にならないことを祈っていろ」

 部下は、少し前まではもう二人ほどいたのだ。一人は転属願いを出し、もう一人は任務中に大怪我を負い、首都へと送還されていた。亜人保護管理局も、決して楽な仕事ではない。精神的な消耗は、衛兵よりも激しい部分もある。そして精神を摩耗した兵士は、時折想像のつかない脆さを見せるものだ。

「ご主人様、アザレアも、準備は整いました」

 震える声が、部屋に響く。緊張感に張り詰めた場、戦場には、不釣り合いな声色だ。そして、怯えの中にある艶やかさが、男の感情を惑わせる。

「アザレア、お前の望み通りだ。連れて行く。覚悟は、出来ているな」

「はい、大丈夫です。同行を許して頂き、ありがとうございます、ご主人様」

「決めたのは俺じゃない、クレハだ。礼ならあっちに言え。後、ご主人様は止めろ」

「も、申し訳ありません、アルバート様」

 様付けは、諦めるしかないだろう。彼女が最早、生存本能的に望んでいる以上、無理矢理な止め方では過剰なストレスになるだけだ。気長にやるしかないだろう。その間、アルバートが我慢すればいい。彼女を飼っている、その責任だ。

「先輩、とりあえず今はそれくらいで。はい、じゃあアザちゃん、これ。また別の外套で悪いんだけど、潜入の間は、これを着ておいてね」

「ありがとうございます、ゲイリー様」

「うんうん、そうそう、頭までしっかり被って、正体を隠す感じで。顔は、覗かれないと分からない位に」

「はい、こう、ですよね」

 ゲイリーに差し出された外套を深く被り、アザレアは俯いたまま視線を上げる。着せたのは、亜人保護管理局の制服に採用されている外套だった。急ごしらえの対処ではあるが、上等だろう。

 人目を避ける、あまり見られたくはない。そういう意味では、組織として畏怖され、嫌われている事実はやはい役に立つ。時計台の時と違い、今回は彼女が亜人であること、アザレアであることは隠した方が良い。だからこその、亜人護送用ではなく、制服の外套だった。わざわざ好き好んで、亜人保護管理局、その実戦部隊に興味を持ちたがるような者は、この街にはほぼ居ない。ましてや覗きたがる者など、果たして存在するのか。

 アザレアが此方の手中にあることは既に露見している可能性も低くはないが、連れて乗り込むことは可能な限り限界まで隠していたい。いわば、切り札でもある。街を行く途中程度は問題なく誤魔化せればそれで良い。乗り込んでからは、わざわざ亜人保護管理局の外套を覗き込む物好きが居ないことを祈るしかないか。

「麗しい銀髪が見えないように。宝石みたいに綺麗な赤い瞳が覗かれないように。うん、そう、その俯き方で良いんじゃないかな」

「あ、ありがとうございます」

「うん、可愛い、可愛い」

 照れながら俯くアザレアの姿は、確かに素性を隠すのには丁度良い。可愛いは、真実でも余計だ。ただ、サキュバスを相手にして普段通りにおべっかを使えるのは、流石と言っても良いのかも知れない。エルフの男だから出来るのか、アルバートには歳を取ってもできない芸当だろう。

「行くぞ」

 突入の準備は、終わった。ならば、行くだけだ。無駄に出来る時間はあまりない。

「了解です。アザレアちゃんは、僕と先輩から絶対に離れないようにね。普通の人間よりは頑丈だろうけど、戦闘に巻き込むわけには、流石にいかないから」

 口は軽いままだが、既にゲイリーの思考は切り替わっていた。思考の切り替えは早く、始めれば中途半端はしない。ゲイリーとは、それくらいは分かり合える付き合いをしているとアルバートは感じていた。やるときは、やる男だと認識しているのだ。

 亜人保護管理局の敷地を出れば、後は胸を張り、道を行く。堂々としている方が、楽に過ごせる制服だ。嫌われ者であることを、誇示した方が仕事は早いのだ。

 一般的な商業街を超え、風俗街に足を踏み入れても、周囲の反応はさほど余所とは変わらない。更に言えば、物入りであることは騒々しさから予想されているのだろう。普段以上に、関わらないような距離感を取ってくる。決して良い気分ではないが、むしろ今回の仕事はやりやすい位だ。邪魔をされないのなら余計な手間がかからず、陰口のような噂話も、呪詛の類でないのなら、ただの雑音に過ぎない。

 視線と雑音だけを浴びながら、それ以上はアルバートたちの進む道を塞ぐ障害もなく、目的地へは真っ直ぐに到着した。男である以上、否が応でも多少は視線の動く店と街並みではあるが、今は仕事の最中である。一々立ち止まる余裕はない。

「此処、ですね」

「お前は、来たことがあるんだったな」

 半分は、ゲイリーに案内させたようなものだ。アルバートには、あまり土地勘はない。この風俗街で遊び慣れ、歩き慣れているのはゲイリーの方だ。女遊びも、存外役に立つこともある。

 星見亭。これが、本当に月光魔の帳なのか。この街では、古くから在る、娼館、旅館の一つだ。三階建てほどの、古いが威厳のある建築様式。立地面積も、壁も、門構えも、どれをとっても立派な物だ。物置や離と呼ぶには立派すぎる塔までも立っている。この敷地一帯からは、貴族の豪邸、ちょっとした砦、そんな力強い印象を醸し出していた。

 怪しいと言えば怪しいが、娼館として異常かと言えば、異常とまでは言い切れない。そんな中で強いて奇妙な点を挙げれば、見るからに増改築を繰り返している、というところだろう。

 飛び出た小部屋のような離、同じような見た目で並ぶが古さの異なる塔など、些か不協和音を感じるほどの建て増しである。だがそれも、歴史があれば珍しいことではない。法にも、明確に反してはいないだろう。外観だけでは違法性を疑うことは難しいだろうし、その領域は亜人保護管理局の出る幕ではない。

「亜人保護管理局タンタネス支部、実行部隊所属、第一小隊長アルバート・カーライルだ。店主はいるか」

 正面門から、堂々と店へと入る。声は大きくも、荒げることはしない。まずは、話が出来る者を呼びつける。あくまでこれはまだ、名目上は調査だ。武力行使、制圧ではない。

「これはこれは、亜人保護管理局の魔術武官様。何事でございましょうか」

 ほどなくして、むしろ待っていたかのように。中年の男が一人、恭しく前に出てくる。背格好それほど巨躯ではないが、目の放つ力は強かな人間の放つそれだ。

「私、番頭のジュリアスと申します。わざわざご足労頂いたところ申し訳ないのですが、主人はただ今留守にしておりまして」

「そうか。なら、お前で良い。亜人法に違反しているとの通報があった。悪いが、これより強制捜査を執り行う」

 店主が、留守にしている。恐らく、嘘だろう。だが、本当にいないのか、そんなことは知ったことではなく、ある意味ではどうでもいい。居ようが居なかろうが、アルバートのやることに結局は変わりはないのだ。

 対応者であるこの男も、この店でそれなりの地位にあることに間違いはない。口が回るようだから、この手の事態には手慣れているのだろう。意思も固そうな瞳をしていることを考慮すれば厄介ではあるか。

「はあ、捜査と言われましても」

「これは、要請ではない。強制だ。番頭、ジュリアスと言ったな。店主が今この場に居ないのならば、お前が案内をしろ。それが、仕事なのだろう」

「そう、言われましても。ああ、ですが、いえ、分かりました」

 強気の姿勢を崩さなければ、この手の場面では確実に相手が折れる。捜査を断れば、やましいことがあると自白しているようなものだからだ。捜査を受け入れざるを得ない、強引にでもその方向に持って行く。だからこそ嫌われる、亜人保護管理局の、アルバートたちがこの街で行う、いつものやり口だった。

 渋々とはいえ、素直に言うことを聞く番頭を先頭に、まずは一通り敷地内を案内されながら巡っていく。このような事態を、想定していなかったわけではないのだろう。むしろ、普段から想定していたと考えるべきか。番頭を初めとした従業員たちは、それなりに落ち着いて対応をしている。無論多少のざわつきはあるが、亜人保護管理局の襲来に慌てふためく娼婦などは特に見受けられない。

「どうだ」

「まあ、表面上は問題なし、ですかね。流石は老舗、ってところでしょうか。慣れていますね、この手のことにも」

「長く続くとは、そういうことだな。アザレアの様子も、変わらんな」

「ええ、まだ反応はないですね。周りも、気づいてはいないみたいです」

「アザレア絡みで反応が出た時。勝負は、そこだろうな」

 店内を進む番頭の説明を話半分に聞きながら、ゲイリーと小声で状況を確認しあう。番頭を筆頭に、店の者たちのそれは、言うならば訓練通り、教本通りの対応である。大きな破綻は、そこにはない。当然だろう。そのように、作られた回答なのだ。

 この状況に穴を穿つための切り札が、アザレアだった。イレギュラーであり、裏切り者であり、逃亡者。可能な限り、今ここにいるフードを深く被った女、その正体がアザレアであることは隠し続けた方が良い。最大限の効果を発揮する場で、切るべき札だ。

 毒にも薬にもならない番頭の説明を聞きながら、店の敷地を一周していく。一見するだけなら、不審な場所が出てこないのは流石と褒めるべきなのか。小さな穴は確かにいくつかあるが、厳しい法に反している訳でもなかった。更に言えば、それらの法は亜人保護管理局の管轄ではない。

 横に広く、階も分かれる建物は、どこか迷路のような作りですらある。だが、それ自体は性を売る場所である以上、そうおかしなわけでもない。客と客が、客と裏方が鉢合わせる。それを避けるのは店として当たり前のことだ。つまり、建物の構造自体も、今の所は不審ではない。

「えー、こちらは当店自慢の庭で御座います。開業当時から著名な庭師の一門に手入れを依頼しておりまして」

 狭くはない、むしろ大きな庭すら中央に抱える広い敷地を、手短な案内で巡り、最後に辿り着いたのが庭だ。豪勢であり、維持の手も行き届いていることは、興味のないアルバートにも何となく分かる。この店が儲かっている証左だ。

「さて、如何でしょうか。ご覧の通り、法に反した営業は行っていないつもりですが。無論やましいことが何もない、清廉潔白な職種なのだと嘯く気はありませんが」

「まだ何も、そこまでは言っていないが。そうだな。見た限り、確かに亜人の姿も見受けられないな」

「それは、ええ。需要こそありますが。ええ、亜人を性的に扱う場合は、はい、亜人保護管理局の施設に限られますので」

 白々しい言い方ではあるが、事実その通りだ。番頭ジュリアスの言葉に、隠し事は兎も角として、少なくとも今の所嘘はない。

 一通り歩き回った後、庭を一望できるテラスに座ると接待がはじまった。流石に、出てくるのは酒ではなく茶だ。こういった査察には慣れているし、想定もしている。このまま有耶無耶に流すケースも多いのだろう。実際問題として、アルバートたち亜人保護管理局も、普通にやればこれ以上の追求は出来ない。ジュリアスからすれば、後は賄賂を渡すかどうかだろう。

「すみません、それでは、僕からもう二、三点質問を」

「ええ、どうぞ」

 ジュリアスの言葉を潰すように、ゲイリーが話を始める。口を開けば、ゲイリーの圧は強い。会話が止まりそうになれば、即座に次の言葉を紡ぎ出す。

「一つは完全に興味本位なんですけど、この建物結構独特ですよね。所々妙に作りが頑丈というか、古いんですけど、軍の駐在にも使えそうな作りというか」

「ああ、それはですね、元々この土地と建物の一部は、街が作られた時にはある種の城塞といいますか、屯所といいますか、軍事設備だったものでして。それが払い下げられまして。更に古くは接収がどうのと」

 ゲイリーに目配せし、番頭の気を引かせる。話を無駄に盛り上げるのは、ゲイリーの得意分野だ。興味のない話を両断しがちなアルバートには、真似の出来ない芸当である。この場は、ゲイリーに任せておけばいい。

「おい」

「はい」

 名前を出せない以上、、おいと呼ぶ。もっとも、常にアルバートを気にしているアザレアには、大した問題ではなかったようだ。

「どうだ、何か分かるか」

 申し訳なさそうに、小さくアザレアが首を否の方に振る。彼女は、この遊郭にはいたはずだ。だが話を聞く限り、住んでいたのは裏側にあたる場所と考えられた。そして、表側にはほとんど出たこともないだろう。そんなアザレアに隙を見せるほど、此処は緩い遊郭ではない。それくらいのことは、これまでの案内で察することができる。

「まあ、そうだろうな。質問を変える。見覚えのある、風景はあるか。些細なことでも何でも良い」

「風、景」

 考え込みながら、少しだけ。顔が周囲にばれない程度に、アザレアが視線を上げる。ゆっくりと、視線を周囲にみやり、考え込む。番頭の他に、此方を伺う者も近くには居ない。

 思案と、不安。震えながらも、必死に言葉を紡ごうとしている。それくらいは、アルバートにも痛いほど分かった。

 此処は、彼女にとってはあまり良い思い出のある場所ではない。辛い過去、禄でもない思い出が殆どだろう。思い出したくない過去を、無理矢理思い出させようとしている。そう言われて糾弾されても仕方のないことを、アルバートは強要しているのだ。だが、それがどうしたというのか。目的の為には、手段を選ばない。それはアルバートの、亜人保護管理局の強みのはずだ。

「庭です」

 アザレアが、絞り出した答えだ。

「上から、見た、記憶があります。その、多分、ですけど」

「方向は。どちら側からだ」

「ええっと、そう、ですね。あちら、側から、開かない窓越しに絡み下ろすような」

 今にも消え入りそうな声と共に、噴水と木々を見渡し、アザレアが死に言葉を紡いでいく。そして。視線の先には確かに窓がある。小さな塔状に建物が連なる内の端側を、アザレアの視線が指していた。

「あの、小塔の窓、からか」

 敷地内の見取り図は手元にないが、番頭の案内で脳内にマッピングは行っている。あそこが、何の部屋であったのか。答えはその記憶を思い返せばいい。

「妙だな」

「申し訳ありません、私の思い違いであるかもしれません」

「いや、違う」

 アザレアの指し示すあの場には、行っていない。似たような窓は見た記憶があるが、脳内に描く地図と照らし合わせれば、見えている場所とはずれる。偶然と言うよりも、巧妙に錯覚させていると言っても過言ではない。騙し絵のような、地図。

何かがおかしい。戦場で生きてきた感が、そう告げている。此処が勝負どころだと、本能が感じていた。

「おい、番頭」

「はい、何でございましょうか」

 ゲイリーがどうでもいい話で気を逸らしていた番頭の注意を、アルバートの側に持ってくる。時間稼ぎは、十分だ。この男はまだ、アザレアに気づいた様子はない。

「悪いが、案内して欲しい場所がある」

「それは、はい。此方としましても、お気の済むまして頂く方が余計な遺恨も残しませんので」

「悪いな。では彼処だ。あの塔になっている場所の窓から、この庭を見たいのだが」

「畏まりました」

 流石は、責任者、幹部ということなのだろう。表情が陰ったのは、僅かに一瞬、刹那の出来事だ。声色が変わらなかったことは、賞賛にすら値する。だが、その一瞬が命取りになるのが戦争だ。一瞬の奪い合いの中で生きてきた以上、アルバートがこの隙を見逃すわけにはいかない。

「それでは、先ほども軽くご案内しておりますが、此方に。どうぞ」

「悪いな」

 顔はそのまま、視線だけをゲイリーに送り、黙って番頭に着いて行く。ゲイリーの立ち位置はアザレアの斜め後方、いつでもカバーの効く位置に自然と滑り込んでいる。

「しかし、番頭さん、良いお店ですね。僕ももう少し稼ぎが良ければ通いたいくらいですよ」

「有難う御座います。しかし、便宜を図るのは、色々と」

「いやいや、流石にそこまで我儘なことは言えませんよ。ええ、お互い言ったら不味い、ですからね」

 ゲイリーが先ほどまでのように他愛のない軽口を挟みながら無難な隙を見せる。相手の警戒心を薄めさせ、注意を逸らす。やはり、この辺りの手際の良さは、思わず舌を巻くほどの才覚がある

 再開された番頭とゲイリーの無駄話を聞き流しながら、館内の分かりにくい道を進んでいく。直線ではない廊下に、上り下りには螺旋階段をも使う。娼館である以上、更には増改築を繰り返している痕がある以上、多少は迷路のような作りになっているのはおかしい話ではない。だが、この付近のそれは、惑わせることが主になっているほどの作り込みだ。

窓の配置、景色、壁紙の色、模様、これらも明らかに拘って配置されていた。あまりにも異様な拘りは、建築学に詳しいわけではないアルバートですら察することができる。

「此方です。如何でしょうか、あの庭は我々にも自慢の庭でして。元々は先の大戦前から」

 先ほども聞いた気のする、番頭のどうでもいい御託だ。その対応は、ゲイリーに丸投げして、アルバートは視線を周囲に飛ばし続ける。問題はどうでもいい話ではなく、窓から見える庭の景色だ。もっと厳密に言ってしまえば、重要なのはアルバートの目ではない。此処からの風景がかつてアザレアの見た景色なのかどうか。それが、勝負だ。

「どうだ」

「違います。いえ、その、そもそもの場所と言いますか」

「やはりな」

 アルバートの認識が正しいのか。それをアザレアに確認したようなものだ。脳内に描いていた位置関係。アザレアが庭で指示した場所と、今立っている場所。その二つが、ずれている。戦場を俯瞰し位置を読む、それと論理は同じだ。そうであれば、アルバートも読み間違えはしない。結論は、一つ。此処は、番頭に案内させたい場所ではない。

「番頭、此処ではないな」

「はて。何をおっしゃいますか」

 作り笑いを浮かべたまま、番頭の視線が一瞬だけ泳ぐ。此処が、攻めどころだ。

「確かによく似ている。だが、もう一つ奥の空間だな」

「失礼ですが、何を根拠に」

「此処は、こいつの居た場所ではないらしい。本人がそう言っているし、俺も歩いていて違和感を覚えた」

 指を鳴らし、合図をアザレアに送る。意を決したアザレアが、フードをゆっくりと、自分自身の手で上げていく。

「アザ、レア」

 人間のそれとは違う、相手を魅了するため器官である美しい髪と瞳が、フードが取れ外部へとさらけ出される。その存在感に、番頭が飲まれた。今この場で、絶対に言ってはならない一言。それが、番頭の口から零れ落ちたのだ。

「番頭。お前は何故、この亜人の名前を、知っている」

「いえ、それは、そのようなサキュバスを。いや、いえ」

「ほう。こいつは、サキュバス、か」

 番頭は言葉を無理矢理紡ぐが、それも途切れ、唇を噛み、押し黙る。この男も、馬鹿ではない。むしろ、有能な側の男だろう。だからこそ、この状況を理解しているのだ。口先で誤魔化すには、分が悪いという現実も理解しているだろう。この亜人がみればサキュバスなのだと、男なら誰も気が付く。だが、そんな言い訳もする気は起きないようだ。

「さて、番頭……ジュリアスだったな。案内を、頼みたいのだが」

 ほとんど命令のような頼み方だが、あくまで高圧的にならないよう、言葉から感情を消し、口に出す。状況は有利だ。追い込んではいる。とはいえ、まだ完全に追い詰めたわけではない。ここで詰め方を誤れば、間違いなく荒事になる。もっとも既に手遅れなのかもしれないのだが、流れる血は少ない方が良い。戦争は、終わったのだ。

「畏まりました。此方、です」

 番頭の視線が宙に飛び、数秒。その数秒の空白で、番頭は意を決したか。瞳から光を消しつつも、定まった視線でアルバートを見つめてくる。口から出る言葉にも力がないが、発声自体はしっかりとしたものだ。それでも、答えを引き出した。これでようやく、踏み込むことができるのだ。

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