第7話

 アザレアが亜人保護管理局タンタネス支部の事務所で働き出して、何事もなく数日が過ぎた。違和感は、既にあまりない。驚くほど、彼女がこの場に順応しているからだ。受け入れられる才能は、サキュバスとしてのそれか、アザレア自身の持つ人柄か。

「彼女の所作、堂に入ってますよね。私としては腹立たしいですけれど」

「そうだな。らしくは、ある。お前の指導のお陰なのだろうが」

 ニシキの声は苦々しさを隠してはいないが、それでも褒めてはいる。

「それ、嫌味ですか」

「お前も、嫌味がないわけでもないだろうに」

 露骨な舌打ちを、ニシキが返す。気持ちは、理解できる。彼女にしてみれば、複雑なところではあるはずだ。アザレアが、メイドとして働いている。その事実自体が、ニシキにしては面白くはない。しかもそれは、アザレアを想ってのことだ。だが肝心のアザレア自身が、今この時を楽しんでいる。この状況を歪なのだと、恐らく最も理解しているのがニシキなのだろう。

「面白くないですね、アルバート様と話すのは。クレハ様の次に」

「悪かったな」

「いえ、別に。アルバート様に落ち度があるわけでもありませんし」

 これ見よがしにカップを置き、ニシキはため息をつく。これがニシキだと分かっている以上、文句を言う気は今更起きない。文句を言ったところで、クレハ以外の言うことを聞くような蛇女ではないのだ。そのクレハの言葉ですら、主人の命令だから聞いているだけだ。

「良いんですか、これで」

「まあ、良くはないだろうな」

 アザレアのことである。現状が歪であることは、アルバートも分かっているのだ。

「とりあえずの現状としては、まあこれでも良いんでしょうけど。最終的にどうするか、その辺りはちゃんと飼い主の責任として、お願いしますよ」

「飼い主の責任、か」

「はい、飼い主の責任です。社会には、そう決められていますから」

 ニシキの視線は冷たい。氷のように冷え切っている瞳はラミアのそれだと分かっていても、それ以上の何かを感じ取りたくもなる。勿論それは、邪眼、魔眼の類の話ではない。

「考えるさ、この後のこともな」

 独り言のような返事を返し、置かれたカップの茶を飲む。慣れた味だ。当然、自分が淹れるよりも美味い。

「今日は、ニシキが淹れたのか」

「へぇ、意外にも味が分かるのですね」

「味覚の鋭い鈍いと、気にするかしないかは別の問題だからな」

 教えている人間が同じである以上、似たような味わいになるのだろう。だが、確かに違う何かがある。

「ネタ晴らしも何もないのは詰まらないですね。まあ、私の憂さ晴らしと、アルバート様の身勝手な罪悪感を減らす、そんな気の利いたお手伝いとでも思って下さい」

「そうか。有難く頂いておく」

 これは、当てつけではない本音だろう。ニシキも、それくらいの気は遣ってくれる。主人であるクレハが嫌がらせのような気の遣い方をしないことを考えれば、ニシキの方が余程優しいとさえ言えるかもしれない。

 茶を飲んで一息つき、視線を机の上に戻す。目の前に広がる書類の束、汚く書き込まれた地図。闇娼館の捜査は、正直ほとんど進んでいない。アザレアの登場により、間違いなく一筋の光は刺した。この街に、闇娼館が存在するという確証を得たのだ。実在の証明から始めなければならない状況と比べれば、遥かに状況は好転している。だが、そこから攻めあぐねていた。

「おいゲイリー、そっちはどうだ」

「駄目ですね。聞き込みはさっぱりです。まあ、一般市民を相手にしているような場所ではなさそうですから」

 身なりの良い客ばかりが、覆面を被ってやってくる。アザレアから得られた、貴重な情報であった。ある意味では予測通りではあるが、想定が間違っていない、そのことも重要な情報なのだ。

「裕福層も、どの程度かは不明だかな」

「これだけ口が堅いとなると、相当な上の連中、でしょうけどね」

「だろうな。厄介な話だ」

 豪商か、上役の役人か、貴族か。自分たちの立場を守ることに、躍起になるような層であることには違いない。そういった類はコネクションも強く、踏み入った捜査がどうしても遣り難いのだ。亜人保護管理局の立場は、明確な証拠がなければ非常に弱い。強固手段には、確証が必要だった。そして、その確証は今はない。

「結句局手詰まり、か。クレハはどうした」

「さあ。外回りに行くとは言っていましたけど。大方、役所や軍部との顔合わせじゃないんですかね」

「全く、お忙しいことだな」

 言い方は雑だが、決して小馬鹿にしているわけでもないのだ。少なくとも、指揮官としての、管理職としての仕事を、アルバートには全うできる自信はない。どう考えても面倒極まりない仕事をこなしているのは、流石と言うべきだろう。ただ単純に、クレハを素直に褒めたくはないだけだ。

「それにしても、アザレアちゃん、どうして遊郭から逃げたんでしょうね」

「どうした、藪から棒に」

 書類仕事に飽きてきたのか。不意な話題をゲイリーが降ってくる。

「いえ、動機は気になるじゃないですか」

「動機、か。普通、逃げ出せるチャンスがあるなら、逃げるもんじゃないのか。闇娼館だぞ」

「でもそれは、外側の視点じゃないですか」

 ゲイリーが気だるげな顔つきはそのままに、視線だけが鋭く細くなっていく。気配を確認し、今、近くにはアザレアは居ないことを確かめる。

「何が言いたい」

「アザちゃんにとっては、これまの人生は娼館での生活が全てだったわけじゃないですか」

「ああ、そうだが」

「だったら、そもそも娼婦以外の生き方を知らないわけですよ。しかも、アザちゃんはサキュバスです。娼婦という生き方は、ある意味楽な生き方でもありますしね」

 黙って、ゲイリーの目を見る。真剣な眼光は、そのままだ。茶化す気が無いのなら、アルバートも真剣に見つめ返すしかない。そしてゲイリーの意見は、的を射ているのではないか。

「つまり、ナニカ、があったということか。アザレアに娼館の、悪くない生活を捨てさせるだけの、ナニカ、が」

「それこそ、アザちゃんからは何も聞いてないんですか。先輩が、責任者のはずですけど」

「ああ、特には何も、な」

 簡単に、言えることではないのだろう。アザレアの深層心理に関わる話だ。

「本当に、何も聞けていないんですか」

「嘘を言っても、仕方がないだろ」

「まあ確かに、娼館の正体を突き止めるのに必要な情報か、と聞かれたら困りますけどね」

「だが、聞かないわけにはいかない、か」

「先輩に気にさせてしまったらな申し訳ありません。どうしても、自分が気になってしまったので」

「いや、大丈夫だ」

 二人同時に、溜息をつく。今この場で、二人でうだうだと言っていた所で解決する話ではない。考えるだけ、ある意味無駄か。

「先輩、なんなら僕が、色々と聞いてみましょうか。それこそ、隅から隅まで」

「要らん。それに、お前に口説かれてもアザレアは迷惑するだけだろ」

「先輩も結構僕に失礼ですよね」

「事実だ。何よりアザレアはお前をそういう対象には観ていないだろ」

「痛い所を刺してきますね」

「というよりもだ、あいつの中では自分自身が下なんだ。明確に、ある種の奴隷的身分に自分自身を置いて、俺たちを上位存在に置いている」

 だからこそ、何故娼館から逃げたのか、その理由が分からない。常に自分を下に置く、これは結局娼館を出る前後で、アザレアの生き方が変わったわけではない証左である。

「アザちゃんの中では、僕も先輩も同じ、ってのは面白いですね」

「いや、同じではないだろう。一応、俺が主人、ということになっている」

「なんだ、先輩もご主人様の立場、気にしてるんじゃないですか」

「ふん。お前より、格下に見られたくないだけだ」

「先輩、やっぱり時々地味に酷いこと言いますね」

 完全に、どうでもいい話にずれていく。ゲイリーの口調からは次第に真面目さが消えていき、アルバートの対応も雑なものになる。ここから先の言葉の応酬は、最早情報交換の意味すら持たない、ただの雑談に過ぎない。

 ゲイリーと二人、内容のない会話を続け、何方ともなく言葉が途切れる。そして、溜息が二つ同時に零れた。

 今日も、やれることは行き詰った。溜息と共に、再びカップを口に運び、椅子に深く座り込む。休息を、取るか。誰が言うでもなく、そんな空気が漂い出したその時であった。喧噪な話声と、足音。嫌な音が、事務所に飛び込んできた。

「相変わらず、辛気臭い部屋だな、此処は」

 不躾で、不愉快な声と共に、男が扉を乱雑に開けて入ってくる。軍服の男。亜人保護管理局ではなく、軍の制服に身を包むこの男は、アルバートも知っている男だ。そして、この声はあまり嬉しい声というわけでもない。

「申し訳ありませんグロイザス大隊長。予算はどうしても軍が優先されますから」

 男の後ろに続いているのは、クレハだ。いつもと大して表情は変わらないが、振られる尻尾の動きは苛立っている時のそれであった。相手からは見えないように振っている分、ある意味では質も悪いか。

「ふん、当然だ。貴様らのような軍隊崩れと正規軍を同じにされては困る」

「軍隊崩れ、ですか。まあ、否定はしませんが」

 横暴に、正論だが暴論を吐く傲慢な軍人然とした男。大隊長、グロイザス・カンザス。この街、タンタネスに駐屯する正規軍の総指揮を執る将軍の下、十名ほどいる大隊長、その内の一人である。軍人としての評判は、悪くない。良くも悪くも強硬的な、好戦的な人物ではある。だが前線に立ちたがる豪気な性格な分、兵卒からの人気はそれなりにある、そんな分かりやすい男でもあった。

「本日は何か御用でしょうか、大隊長」

「なにアルバート、貴様に礼だ。先日、部下が取り逃した亜人を捕まえたそうじゃないか。地下水道をネズミのように這いまわり、ご苦労だったな」

 儀礼的に立ち、アルバートは頭を下げる。形式上、グロイザスの方がアルバートより上の立場にある。正規軍と亜人保護管理局とでは別組織であるが、実戦部隊として数名を率いるだけのアルバートとは雲泥の差がある。それに、帝国十官の位も一つか二つかは上のはずだ。ついでに言えば、歳も、十以上は上だったか。

「そうでしたか。有難う御座います」

 グロイザスの言葉は、分かりやす過ぎるほどの、皮肉だ。これでは、嫌味としての体を為さないのではないか。クレハの嫌がらせに比べれば、受け流すのはどうということもない。嬉しくはないが、クレハのお陰で面倒な手合いの面倒な言動には、アルバートもそれなりには慣れているのだ。

「なんだ、面白味のない。貴様も、何時までこんな所に居るつもりだ」

「さて。存外、居れば慣れるものですので」

「ふん。腐ってからでは遅いのだぞ」

 自分で話を振って、勝手に苛立つ。そんなグロイザスの姿を見ていれば、逆に自分は冷静になっていく。軍人としてのグロイザスという男を、アルバートは決してそこまで嫌っているわけではない。有事の際には、こういう男も頼りになることも多々あるものだ。ただ、今の世は平時であった。戦時に役立つ人間が、平時に接していて楽しい人間であることは少ない。そしてそれは、アルバート自身ですら例外ではないのだ。

 アルバートを相手にして、つまらないからであろう。話を打ち切り、グロイザスがその視線を部屋中を舐めまわすように動かし始める。身勝手な話だ。やっているのは粗探し、だろうか。突けば困る部分は、この場所には少なくない。亜人保護管理局も、乱暴な手段はそれこそ幾らでも取っているのだ。

「グロイザス大隊長、まだ何か」

「わざわざ、訪ねてやったのだ。折角の稀な機会を逃すわけにはなあ。ほら、何だ。お前らは亜人を、ラミアだったか。アレをメイドにもしているだろう、悪趣味にもな。そういう物も、視察してやろうとな」

 尾の動きは、不機嫌なままだ。クレハの気持ちも、今はよく理解できる。良い悪いは抜きにしても、この手の手合いを相手にするのは面倒なのだ。それに、亜人をメイドにしているのが悪趣味なのは間違いないだろうが、部外者に面と向かって言われることは不愉快なのも事実である。

 肝心のニシキは面倒事を察してか、既にその姿を表からは消している。ニシキにしてみれば、この辺りの処世術は得意な部類になるだろう。それなりに、社会の場数を踏んでもいる。放っていても大丈夫だと、クレハも認識しているか。問題は、慣れていない者だ。

「あの、ご主人様、お客様、のようですが」

 アザレアが、裏手からひょっこりと顔を出した。恐らく控えていたのだろうが、此方側の喧騒に釣り出されてしまったか。給仕の必要があると、本人は善意で出てきたのであろうことは分かる。分かるが、今は悪手だ。

「待て、待て。いや、どういう、ことだ」

 目に見えて、グロイザスが狼狽えている。見栄も外聞もなくなるような様は、珍しいともいえるだろうか。新しいをメイドを、アザレアを雇っていることは、当たり前の話だが公表はしていない。グロイザスが驚くのも、無理はない話ではある。

「何故だ、何故この、こんな。貴様ら、サキュバスだぞ。なぜそんなものが、此処にいる」

「給仕ですよ。ええ、正規の手続きは踏んでいますが、何か」

 素早く、そして自然に、クレハがアザレアの隣に動き、影を作る。突然の事態に、アザレア自身は呆気に取られたのか、完全に固まってしまっていた。放っておけば、この混乱からグロイザスが回復し、この事態は悪くなるだけだ。この辺りの読みとフォローは、クレハは流石に上手い。

「給仕、だと。ふざけるなよ、そんな。ああ、給仕だ、ではない。そのような、サキュバスを給仕などと」

「あら、手続きには問題ありませんし、法にも触れていませんよ」

 あまりにも、狼狽が酷い。意外ではあるが、グロイザスも男ではある。突然、前触れもなくサキュバスを、それも給仕をしているような者を見せられれば、そうもなるもの、なのかもしれない。女とはあまり縁がない生き方をしている軍人も少なくはないのだ。

 男にしてみれば、サキュバスという存在は甘美な毒だ。対応を知らず覚悟もなければ、ただ其処に居る、同じ空気を吸うだけでも狂いかねないと考えれば、グロイザスの反応もそうおかしくはないか。

 顔を伏せるように背け、顔を、身を隠すような素振りをしながら、様子を伺う。その姿は、どこか滑稽とさえ言ってしまえるほどだ。威厳ある体裁を重視する男がこれとは、予想外にも面白い方向に事態が転がっている。

「ええい、もういい、分かった。後で資料だけ送れ。精々精査してやる」

 アザレアについて余計な詮索をされるのは堪らないが、向こうから逃げてくれるのならば話は早い。俯き、苛立ちながら部屋を出ていく姿は、さながら敗走する兵士そのものだ。少なくとも、将たる威厳はそこにはない。

「ええ、畏まりました。資料は後程、纏めておきますので」

 冷笑を浮かべるクレハですら、その尾は楽し気に揺れてしまっている。顔よりも尻尾に感情の出る女狐だが、此処まで分かりやすいのも珍しい。だが、その気持ちはアルバートにもよく分かる。この流れは間違いなく、気分の良い、面白い話だ。

「結局、何だったんだ、アレは。お前が、連れてきたんだろう」

 姿が見えなくなってから、溜息を吐くように、クレハに尋ねる。招かれざる客、不必要な来客が過ぎ去り、一息つくタイミングだ。お互い妙に疲れている分、ある意味では普段よりも話し易くすらある。

「特に深い理由はなかったのよ。本人が言っていた通り、軍の依頼だったガンギ・ギギスの件で色々と確認に来ていただけ」

「まさか、本当にそれだけ、とはな」

「軍も幸か不幸か、暇なのよ。いえ、厳密にいえば、暇なのは上の方だけ、かしら」

「まあ、大規模な軍事行動が起きる兆しはないからな」

 世界は、平和ということになっている。少なくとも、魔王軍は壊滅し、組織的な反抗を見せている場所はない。人間同士も、今は復興に躍起になっており、戦うだけの余力は何処もまだ持ち合わせてはいなかった。

 こうなると、忙しいのは現場の兵士たちだけだ。治安を乱す小規模な勢力は、むしろ大戦期よりも増えている。魔王軍の侵攻中は鳴りを潜めていた犯罪集団もあれば、戦後にはみ出し者にされた者たちが賊徒と化しているケースもあった。そして何より、魔王軍も組織立っていないだけで、残党はいるのだ。

 果たして、グロイザスの立場までいってしまえばどうなのか。恐らく、そこまでの忙しさはないのであろう。だが同時に、暇に見えても不味い立場でもある。だからこそ、こうして無駄に動き回っているのだろう。忙しそうに、仕事があるように見せかけるのは、中々に難しくはある。無論、迷惑を掛けられる側としては堪ったものではない。

「適わんな、本当に。嫌がらせの方は、どうなんだ」

「そっちも、変わらずよ。またその内に、不必要に面倒な仕事を押し付けられそうよ」

「迷惑な話だ。娼館探しに本腰を入れさせたくないのか、軍の連中は」

「笑えない冗談ね」

「全くだ」

 そうでなくても、元から亜人保護管理局は軍との折り合いが悪い。わざわざグロイザスが来なくとも、大なり小なりの軋轢はある。予算や縄張り意識、互いの活動でぶつかる範囲も少なくはない。

 軍が出張る事態があっても、亜人が絡めば、管轄は亜人保護管理局の管轄となる。軍の、特に治安維持に駆り出されている連中からしてみれば、功績を横から掻っ攫っていく相手でしかないだろう。お互いに仕事である以上、表立って不必要な諍いを起こすことは流石にないが、疎まれている空気は嫌でも感じられるのだ。

 だからこそ、グロイザスが回してくるような嫌がらせの仕事も、まかり通ってしまうのである。表に出さずとも、小気味よく思っている者がいるからこそ、だろう。

「まあ良いわ。グロイザスの件は、私の方で処理しておくから。貴方たちは、娼館の捜査を進めておくように」

「了解だ。まあ、なんだ。そっちはよろしく頼む」

 こめかみを抑えながら、クレハがまたため息を一つ。弱っていればこの女狐にも可愛げがあって、素直に同情も出来る。何せこの場に居る面子の中では、他組織との政争じみたごたごたなど、クレハでなければ対処はできない。

「あの、申し訳、ありませんでした。私、何か不味いことをしてしまったみたいで、その」

 恐る恐る、様子を伺いながら。不安そうに、アザレアが此方を見つめてくる。それも、当然か。恐らく、彼女は事態を何も飲み込めてはいないだろう。自分が顔を出したら、偉そうな人間が勝手に混乱し、勝手に騒いで出ていったのだ。自身に責任があると思っても、何もおかしくはない。

「大丈夫だ、お前は何も、悪くない。むしろ、よくやった位だ」

「そう、だと良いのですが……」

 視線が落ち、俯く彼女に対して、自然と手が伸び、頭を撫でる。二度、三度と手が往復し、ようやく気が付く。完全に、無意識の動きだ。普段のアルバートであれば、まず有り得ない行為である。戦闘行為以外で、無意識の行動が起きること自体が驚きなのだ。サキュバスのなせる業は、やはり恐ろしい。油断をすれば、無意識下の行動までもが影響を受ける。

「あ、あの。いえ、ありがとう、ございます」

「ん、ああ。まあ、気にするな」

 手の下ろしどころに悩み、暫し彼女の頭を撫でる。アザレア自身は、どうやら嫌ではないらしい。曖昧に、少しはにかんだ微笑は見せているが、それだけだ。

「またそうやって、その子を甘やかすんですね。まあ、良いんですけど」

「ニシキ、これは。いや、お前の言いたいことも分かるが」

 冷たい視線と同じくらいに、声色の冷え切った言葉。グロイザスが立ち去り、隠れていたニシキも顔を出してきた。刺さる言葉ではあるが、アザレアの頭から手を下ろすには、丁度良いタイミングになったのも事実だ。彼女なりに、気を遣ったのかもしれない。

「はっきり言ってしまえば、結果的に、今回は上手くいっただけですからね。誰も言わないので、私が言いますけど」

「すまん」

「いえ。アルバート様ではなく、そっちのサキュバスに言っています」

「あの、ごめんなさい」

「そうです。謝る相手は私です」

 淡々とした言葉以上に、ニシキの視線は、やはり冷たい。ある意味ではいつも通りだが、感情を込めない瞳は、どこまでも冷酷な瞳になる。怒り感情よりも、ともすれば恐怖を感じるだろう。その根源的恐怖の視線が向かう先は、アルバートでもクレハでもない。アザレアだ。射貫くように視線を飛ばし、貫かれたアザレアは固まってしまっている。相手がサキュバスであるからか、魔眼の力も使っているのかもしれない。 

「クレハ」

「まあ、好きにさせてあげましょう」

 小声でクレハに声を掛けるが、クレハも止める気はないようだ。お手上げ、と言わんなかりに肩を竦め、こちらはこちらでわざとらしい視線をアルバートに飛ばしている。

「ごめんなさい、私、勝手に飛び出してしまって」

「そうです。私は、何かあればまず私に聞くように、と教えましたよね」

「はい」

「貴女は、まだ給仕の作業に慣れただけで。まだ私は、あの手の輩や来客の対応を教えてない、そうよね」

「はい」

「今回は偶々、ええ本当に運が良かっただけ。相手がサキュバスに困惑していたから良かったものの。追及されたら、どうするつもりだったの。困るのは貴女ではなく、そこのご主人様だって、分かってるのかしら」

 叱責されるアザレアの消え入りそうな声は、聞いている此方も心が乱される。それでも、今のニシキに対して何かを言う気にはなれない。言っていること自体は正論でもあるのだ。

「ごめんなさい、本当に申し訳ありません」

「まあ、なんです。貴女をきちんと見張っていなかった私も悪かったですが」

 流石に、皆の前で叱り過ぎるのは良くないと気づいたのか。ある意味今更でもあるが、ニシキも少し、語気を下げる。叱るのは必要だが、時と場合を考える必要はあるのだ。

 それにしても、ニシキを止めてしまえるアザレアの性、サキュバスとしてのそれは恐ろしい。アザレアには本当に悪気がない分を差し引いても、無意識化に作られる艶やかな表情も相まり、責めることに罪悪感を感じさせてしまう。更にはその表情も、場合によっては加虐心を擽る方向にも使うことができるのだ。サキュバスの恐ろしさは、やはり他の亜人が持つ恐ろしさとは何処か一線を画している。

「アルバート様、後は任せます。出過ぎた真似を、致しました」

「ああ、いや、大丈夫だ。お前には、教育係を頼んでいるのだしな」

「私から言いたいことは言わせて頂きましたので。後の指導は、お願いします」

「分かった。俺からも、言っておく」

 ニシキが頭を下げる。普段が厄介な分、こういう時にしおらしくされると、アルバートとしてもこれ以上は何かを言い難い。

「はいはい、それじゃあみんなお仕事に戻って」

 パンパンと手を叩き、クレハが不必要に明るい声を上げる。わざとらしいまでの態度と声色であるが、場の空気を壊すにはあまりにも的確で効果的だ。

「アルバートとアザレアちゃんは、とりあえず休憩で良いわよ。疲れたでしょ、色々と」

「悪いな」

「まあ、貴方より、アザレアちゃんが、ね」

「だろうな。お前が俺の心配など、するわけがないからな」

「あら、何時でも心配してるわよ」

「それは、どうも」

 溜息と、舌打ち。返事を何方にするか悩み、何方も選ばずに黙って飲み込む。場当たり的な文句は、言ったところで意味がない。

「アザレア、休憩に入るぞ」

「はい」

「飯も、まだだったな。ついでに食べにも行くか」

 休息を取り、食事を取り、一息を着く。切り替えるには、丁度良いか。余りにも、余計なことが起こり過ぎた。アルバートにも、アザレアにも、一度切り替えが必要だ。

「先輩、行くのは何時もの所ですか」

「ああ。あそこは見晴らしも良いからな。景色を眺めるだけでも気分が晴れる」

 小さく息を吐き、心が休まる場所を思い浮かべる。清らかな風、眼下に映る静かな街。

 街。街、そう、街だ。街が、見える。

「これだ」

 そうだ、見晴らしの良い高台から、風に吹かれて街を一望する。無心に、そう、何も考えずに街を眺めていると、不思議と嫌なことを考えなくても済む。その感覚を思い出すと同時に、次の一手が脳裏に浮かぶ。

「ああ、そうだ、高台だ」

 霞掛かった思考が、急激に晴れていく。盲点だった、ということか。思わず、自虐的な乾いた笑いが零れそうにもなってしまう。

「ゲイリー、直ぐに支度をしろ。お前も来い」

「また、突然ですね。何か良い考えでも浮かんだみたいですけど」

「ああ。アザレアを、時計台に連れて行く」

「それは、また。大胆ですが、なるほど」

 アザレアに街を見せる。そこに覚えがあるものがあればよし。ないのならば、それ自体が情報となる。直接風俗街を練り歩くよりも、余程楽に実行出来のも大きい。そして上手く行けば、アザレアを餌に、彼女を探す者たちを釣り上げることが出来るかもしれないのだ。

「そういうわけだ。構わんな、クレハ」

「ん、分かったわ。アルバートとアザレアちゃんは、半分休憩がてらで。ゲイリーはお仕事として、いってらしゃい」

 クレハの耳は、大きく、そして激しく動いている。興味深く、そして面白そうなことを見つけた。そんな時に見せる、正の感情を示す動きだ。

「それじゃあ僕は、一先ず護衛と間諜、という所ですかね」

「ああ。餌に引っ掛かって何か釣れるかもしれん。その時は、どうしても人手が必要だからな。頼める奴は、お前しかいない。任せる」

「了解です。任せて下さいよ」

 事態を、少しは面白い方向に転がせるかもしれない。少なくとも、停滞しきった状況を拡販する程度にはなるだろう。面倒事を持ち込んでくれた女ではあるが、そういう意味ではアザレアはやはりアルバートにとって幸運の女神か。サキュバスが幸運の女神とは、皮肉が効いていてむしろ良い。

「頑張るのは良いけど、アザレアちゃんを危険な目には合わせないようにね。貴方たちと違って、か弱い女の子で重要な参考人なんだから」

「分かっている」

「そう。なら、いいけど。妙に素直ね」

 嫌がらせのような小言くらいは黙って飲み込む。クレハにしても、事態解決を望んでいるのだ。本気で言う文句なわけもない。手掛かりの為なら、彼女も何だってするだろう。それなら、気分良く持ち上げていた方が良い。

 風向きが、変わってきているのだ。この機会を、逃したくはなかった。

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