第2話
魔力灯の証明があり、窓からは日差しも入る。決して作業環境として、空間そのものが暗いわけではない。備品も全てが新品ではないが、古くさい物は一つとなく、掃除も行き届いている。それにも関わらず、部屋の空気は不思議と重い。
この気が重くなる空間こそが、亜人保護管理局タンタネス支部局隊舎、実戦部隊の事務所である。
タンタネス、大陸東南に位置する随一の商業都市。交通の要所として栄えたこの都市は、魔王軍との戦争で戦禍に巻き込まれ、大いに乱れた。戦時中から亜人が流入に、その復興にも亜人の力が使われた経緯があり、亜人保護管理局の仕事は多忙な都市でもある。
「例の報告書、書類がまだ出てないみたいだけど」
「すいません、すぐ出します」
綺麗な声で、嫌味な言葉が部屋に響く。クレハの叱責に、ゲイリーの返す言葉は軽い。その響いているとも思えない態度には、クレハも慣れているから何も言わない。ただ、彼女の発する圧で、部屋の空気がまた重くなるだけだ。
「アルバート。貴方の分は」
「期日まで、まだあるはずだ」
「そうね。早めに頼むわよ」
八つ当たりか、当て付けか。大きく派手に揺れる耳を見れば、感情で言っていることはすぐに分かる。何にせよ、付き合わされる身としては堪ったものではない。
「相変わらず、無駄に辛気くさいですね、此処は。誰のせいなのやら。まあ、そういう空気、私は好きですけど」
抑揚のない、感情の冷えた言葉を添えて、コーヒーが机に置かれていく。シュルシュルとした爬虫類らしい呼吸音。給仕の、ニシキだ。
彼女は、亜人である。それも、ラミアだ。人との違いが、分かり易い亜人である。今の格好も、長袖にロングスカートのメイド服であり、肌はかなり隠れている地味なものだ。それでも、分かってしまう。下半身が蛇のそれであり、瞳と舌も人の物ではない。
「色々と文句言う割には、美味い茶を出すものだよな、お前は」
「仕事なので」
「そうかい」
ニシキのダウナーな態度は、何も特別なものではない。彼女の職場は、この亜人保護管理局タンタネス支部実戦部隊の事務所だ。付き合いもそれなりにあり、この対応にも慣れたものではある。
「ニシキちゃん、こっちにもお願いね」
「はいはい、分かっていますよ、ご主人様」
ニシキが粗暴と乱雑を叱責されない寸前を狙うかのような態度で、クレハの机にも配膳していく。嫌がらせか、意趣返しか。挑発的な行為だが、クレハは感情の読めない笑顔で流しているだけだ。反応がなければ、ニシキもそれ以上は手を出さない。お互いに、分かってやっている。
亜人ラミア、ニシキの所有者は、クレハである。数が少なく、扱いも難しい亜人であることから、期間ではなく個人で預かった、そうアルバートは聞いていた。そして、クレハは彼女を家で働かせず、事務所の雑用をさせている。何故そうなったのか。アルバートは詳しいことは知らないし、聞こうと思ったこともない。本人達が納得しているのなら、恐らくそれで良いのだろう。
「アルバート、それで、情報収集はどうかしら」
「進んでいない。軍部の連中に、余計な手間を増やされたからな」
「本当よね。糞忙しい時に、変な仕事を押しつけるんだもの」
クレハが耳を伏せ、小さく溜息を吐く。楽しい様子とはほど遠いが、少なくとも、イライラした気分は消えたようだ。
「闇娼館事件、中々どうして、根が深いとでも言うべきなのかしら。尻尾を、出さないわね」
「亜人だけに尻尾を、ですね」
「ゲイリー、貴方は極北に引っ越す夢でもあるのかしら」
「いやあ、雪は嫌いじゃないですけれど、氷は好きなわけではないので」
「そう。だったら貴方は、黙って書類を作りなさい」
ゲイリーの無謀なまでのコミュニケーション能力は、果たして褒めるべきか。アルバートには、とてもではないが、真似できない。少なくとも、それは事実だ。
「亜人を非合法に使い、娼婦として使う。まあ、ありふれた事例ではあるけれども」
亜人の売春事件自体は珍しい話ではない。だが、噂が出るほど大きな組織性と、尻尾を出さない秘匿性を併せ持つ。これほどの規模は、そうそうお目にかかれない。大抵は、裏路地で一人二人、そんなものなのだ。大々的にやればやるほど、足が付き露見する。当たり前の話なのだ。
「流れてくる噂だけでも、真っ当な建物に、複数の亜人。明らかに、小規模な小銭稼ぎじゃあないのは確かだからな」
闇の娼館として、相応の規模で営業している。亜人保護管理局に対する挑発、挑戦と受け取っても、過言ではないだろう。
「私たちに分かっているのは、娼館の俗称だけ。『月光魔の帳』そう呼ばれていること。それだけだもの」
「通り名だけでは、な」
当然のことだが、表の娼館にはそのような名前の娼館はない。そのように渾名されている店も、やはり存在はしない。この通り名でさえ、半死状態の亜人から無理矢理聞き出した貴重な証言であった。その亜人は、もう死んでいる。
「ここまで徹底的だと、奴らが、絡んでいる可能性は高そうね」
「異人解放戦線、か。連中がやりそうな手ではあるが」
この話をすると、どうしても、吐き捨てるような言い方になる。異人解放戦線、亜人保護管理局の目下の敵だ。
表向きは、亜人に人間と同じ権利を与えようと活動している団体である。それだけなら、大した問題にもならない。反対運動も、鬱陶しいだけで済んだだろう。
あの連中は、自分たちの掲げる旗を、建前にしかしていない。解放する、そう言いながら、亜人を好き放題に都合良く使っているのが実情だ。亜人保護管理局を通さない、亜人たちの裏取引による人身売買、施設での強制労働などその一端だ。尤も、それを姑息に隠しながらやっているため、勘違いをしている市民は少なくない。
そして何より、一番の問題点が、その暴力性だ。奴らは、明確な武力行使を行っている。流石に、一般のメンバーが表立って暴れることはない。むしろ、そうであったならば、ただ暴れる連中を捕まえれば良かった。面倒だが、厄介ではなかっただろう。
解放戦線には荒仕事専門の、集団がいた。そのメンバーや正確な構成数も不明だが、ゲリラ的に亜人保護管理局に対して襲撃を行っている。直接的に亜人保護管理局の施設を狙われることはほぼないが、市井での作戦行動中、亜人の確保や調査中に襲われるのだ。目下の所、亜人保護管理局最大の敵であった。
「異人らしく生きられる世界と言いながら、闇娼館として荒稼ぎ。それくらいやっても、不思議ではないのよねえ」
「金は国営娼館よりも亜人に払っている。それくらいの暴論は平気でする連中だからな」
とはいえ、確証はなにもない。だが、異人解放戦線であろうと、なかろうと。亜人を使った闇娼館の摘発は、亜人保護管理局の重要な仕事である。
「本当に、堪ったものじゃないわね」
クレハの口から出るのは、溜息と、愚痴だ。最も、アルバートとて、その気持ちは大差ない。ただでさえ面倒かつ重要な仕事を、やれ亜人を取り逃がしたと軍部から横やりを入れられていては、集中して取り組むこともできないのだ。
再びの溜息が、アザレアから漏れる。良くない兆候だ。流れ弾のような面倒事が、アルバートに飛んでくる。良くあることだけに、アルバートには何となく分かるのだ。こんな空気を感じてしまった以上、逃げるしかない。
「休憩のシフトだな。少し、外に行ってくる」
「ん、分かったわ」
先手を打って、宣言をする。余程の用でもない限り、そうそう邪魔はされない言い分だ。クレハも、少し眉を潜めるだけで、それ以上は何もない。
「どうせ、何時もの場所でしょ。さっさと行って、さっさと帰ってきなさい」
「ああ、精々そうさせて貰う」
恨めしげな視線を飛ばすゲイリーにはアイコンタクトで謝り、部屋を出る。ニシキは、そもそもアルバートに視線をやろうともしない。二人にクレハを押しつけた形になるが、先に出た方の勝ちだ。
亜人保護管理局は軍隊らしさを持つとはいえ、厳密には軍ではない。このことは、休息を取るときに、特にそれを感じることができる。ある程度の自由が、保証されるのだ。時間と場所の融通が利く。精神と肉体の自由は、一度慣れてしまうと手放すのが難しいものだ。それは、アルバートとて例外ではない。
真っ直ぐに、外へ。亜人保護管理局の敷地を後に、アルバートは街の中心、巨大な時計塔へと向かう。亜人保護管理局の制服ではなく、私服の外套を身に纏えば、忌諱の目で見られることはまずなかった。そして、隊舎近くと違い、時計塔には亜人保護管理局を嫌う軍人達の姿もほとんど見られない。衛兵はいるがその数は少なく、気にする必要はなかった。時計塔は、アルバートにとってのプライベートな空間でもあるのだ。
時計塔の広く長い階段を登り、上層の展望エリアに出る。風が吹き抜け、街を一望できる広間が姿を現す。市民にとっての憩いの場であり、アルバートにとっても同じことだ。
柵に手を掛け、街を見る。決して、素晴らしい絶景、というわけではない。煩雑な街並ではあるのだ。所々、戦災の爪痕も未だ生々しく残っており、綺麗事だけではないことを如実に訴えかけてくる風景ですらあった。それでも、アルバートはこの景色を見るのが嫌いではないのだ。
出店で買ったパンを頬張り、街を見る。流れる風をその身に受け、子供達の笑い声や、女達の話し声を耳に入れて通していく。何でもない日常に、ただその身を委ねる。血生臭さ生き方ばかりの人生には、これ以上はない浄化の癒やしだ。無心で心を落ち着けるには、下手なその手の店よりも余程心地よい気分に浸れる。使う金も、軽食代程度で済む。
パンも、特別に美味いわけではない。普通の、庶民の味だ。だが、その普通こそが、アルバートの気分を落ち着かせる。兵舎でとれる食事よりも、人間の営みの味がするからだ。殺伐として、退廃的な戦場で生きてきた身である。まともな、人間らしい生活を送っていない身には、過ぎたるほどの贅沢なのだ。
穏やかな人の営みに身を任せ、漫然と時間を浪費し、鐘の音で我に返る。時間だった。思考が、強引に現実へと引き戻される。泡沫の夢。
大きく息を吸い、吐く。いくらある程度の自由があるとはいえ、シフトの時間は守らなければならない。この辺りの規律は、緩さが許される場所ではないのだ。思考をオフからオンへと切り替え、時計塔の広場を後にする。
根本的な問題が、何か解決したわけでもない。ただ単に時間が過ぎただけである。それでも、気分転換にはなった。それだけでも十分だろう。時間を置いて、クレハも少しは落ち着いたはずだ。それに、交代で他のメンバーにも休憩を取らせなければない。
重い足取りで、事務所に戻る。空気は重いままではあるが、出掛けた当初よりは多少は良くなってもいるか。時間を置いた甲斐はあったというものだ。
「ゲイリー、お前の休息は」
「ああ、それなら先にニシキちゃんが」
「そうか。まあ、お前も早く休めよ」
「はは、先輩が先に休んだじゃないですか」
「悪かったな」
ニシキは、厳密には亜人保護管理局の職員ではない。あくまで、クレハの所有する亜人に過ぎなかった。それでも、この場ではそれなりの待遇で彼女は働いている。流石に賃金は出ないし、ものを言える立場でもない。ただそれでも、一員、仲間として扱われている。クレハの判断であり、特にそれに何か文句を言う者も特にいるわけでもなかった。
「それで、どうなった」
アルバートの言葉に、ゲイリーは黙って視線を向けるだけだ。その視線の先で、クレハは難しい顔をしながら、書類に目を通している。機嫌は、何とも言えない。微妙なところだろう。
アルバートに気がついているのかいないのか。ぶつぶつとした聞き取れない言葉を発しながら、クレハが積んである書類に目を通していく。処理をしても処理をしても、情報収集の報告書だけでも、急な実戦が入ればいくらでも溜まっていくのだ。
極めて普通の書類を脇に置き、クレハが魔術的に封をされた封筒の封を切る、小気味良い音が室内に響く。厳重に封をされていた便箋、それに目を通していくクレハの耳が、ピンと立っている。こういう時は、得てして碌なことにはならない。帰ってくるのが、早かったか。
「アルバート、お帰りなさい。貴方は書類仕事、大丈夫なのよね」
「ああ、まだ余裕はある」
「そうなのね。なら、丁度良いわ。帰ってきていきなりで悪いけど、外回りに行ってきて頂戴」
「丁度良い、か。戻ったばかり、なんだかな」
「ええ。だから謝ったわよ」
嫌がらせか、という言葉は黙って飲み込む。わざわざ聞かなくても、そんな意図が含まれているのは分かる。クレハの表情を見れば一目瞭然。楽しそうな声色など、論外だ。
「具体的な情報は何もないけど、東地区の方が、どうにも臭そうなのよね。第八地区の辺り。その辺り重点的に調べてきなさい。何か有るかも知れないから」
「随分とまた急に。しかも随分いい加減な指示ときた。山勘か」
「あら、失礼ね。れっきとした、たれ込みよ」
見ていて嫌になる笑顔を浮かべながら、クレハが一枚の紙切れを指で摘まみ、これ見よがしも振りながら見せつけてくる。紙の中身は見えないが、それがたれ込み、なのだろう。
「分かった。行ってくる」
クレハに逆らっても意味はない。どんな思惑で、どんな態度であれ、命令は命令だ。厳密には軍ではなくとも、逆らうには、相応の理由と覚悟が必要になる。今は、その時ではない。それに、事務所で嫌いな書類仕事をすることに比べれば、どんな思惑であれ、外回りの方がいくらか気が楽なのも事実ではある。
「おいゲイリー、お前はどうする」
「すいません先輩、今は無理です」
「ああ、書類か」
「今日終わらせる分と、他にも先輩から頼まれている」
「分かった。もういい。俺が悪かった」
ゲイリーは、アルバートよりも書類仕事が得意な男だ。手先が器用で頭が回るのは、こういう部分にも発揮されている。そんなゲイリーに、アルバートは自分の書類仕事を回している部分さえあった。そんなゲイリーに書類仕事があると言われては、それ以上、アルバートの口から何かをいうことはできない。これもある種の弱みだ。
どちらかと言えば、アルバートは一人で居る方が好きであった。そういう意味では一人で外回りをすることに不満はない。だが今回は、雲を掴むような捜査任務である。単純に人手が欲しかったのだ。とはいえ、ないものを強請っても仕方がない。嫌な想像だが、クレハもゲイリーが動けないことを見越して、この仕事を押しつけてきた可能性すらある。そういう女なのだ。
「行ってくる」
「はいはい、行ってらっしゃい。気をつけてね」
クレハの言葉は、やはりわざとらしい。嫌味のような軽口には答えず、書類を投げ出し、席を立つ。クレハの言動を一々気にしているのは、精神と思考の無駄遣いだ。今度は制服指定されている亜人保護管理局印の外套を掴み、外に出る。クレハと話した後だが、気分そのものは存外悪くない。一人での外回りは、やはり嫌いではないのだ。
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