第3話
外套を、フードを深く被り、街を歩く。街を、道を歩くだけであっても、それは重要な情報収集の場である。周囲に怪しげな影や動きがあれば、違法な亜人に繋がる手掛かりかも知れない。もっとも、顔や腰をあからさま隠すに怪しい者達ばかりであれば、アルバートたち亜人保護管理局の仕事も幾らか楽になるだろう。現実は、そう甘く優しいものではない。
亜人は、人間とは違う。外見も中身も、別物だ。違う耳を持つ、違う瞳を持つ、あるいは尾を持つ、角を持つ、翼を持つ。だからこそ、街に溶け込む第一歩、それがその異形を隠すということになる。だが、そこまで分かり易い不審者は、存外に少ないものだ。それもそうだろう。所謂普通の格好をした者達の中に、下手にそんな格好をすれば、逆に目立つのもまた事実だ。隠す時点で、隠さなければならない理由がある証左となる。隠す者は、堂々と表を闊歩などしないのだ。
その希少性を乗り越えいざ捕らえてみても、亜人ではないただの浮浪者、などというとも少なくない。街で身を潜め、姿を隠してでも生きていたい者は、亜人だけではないのだ。
違法な亜人を見つけて捕まえる、ただそれだけの話が簡単に行かない理由は、他にもある。亜人を法に背いて扱う者達、そんな犯罪者の存在がいた。組織的、或いは個人的、様々な状況があるが、概ね、違反者のやることは根源的には同じだ。亜人保護管理局を通さずに、亜人をモノとして使い倒す。見つかれば違法であるし、本人達もそれは分かっている。その為に、その存在を社会から隠し通そうとするのだ。そして、そうなってしまえば歩いているだけで簡単に見つかるようなものではなくなってしまう。結局は、地道に情報収集を積み重ね、その集めた情報を精査するしかないのだ。
自らの足で、待ちを歩き、話を聞く。その筋の者を探し出し、安くはない金を使って話を集める。その繰り返しで、亜人の痕跡を探し出す。派手に暴れるだけではない。これも、実戦部隊の仕事であった。
書類仕事から逃げるように飛び出した、今のアルバートがしなければならない仕事である。具体的な情報は、何もない。クレハに渡された情報は、大まかな地区だけだ。仮に亜人が潜んでいることが事実だとしたところで、何もないところから、そこに居るかもしれない亜人の手がかりを探す必要がある。面倒な話であり、運任せの話ですらあった。だがその面倒な話こそが、指揮官であるクレハから与えられた命令なのだ。
嫌がらせといえば、嫌がらせではある。誰かがしなければならない仕事ではあるが、今アルバートがしなければならないわけでもない。クレハは、面倒な仕事をアルバートに与えることが目に見えて多。気のせいと思いたいものだが、それは事実として存在はしていた。無論、アルバート自身としては、下手に書類仕事で籠もっているよりも、まだ外回りの方が気楽なことも事実である。これを適材適所と言われてしまえば、否定するのは難しい。結局どうとでも取れる、クレハらしいやり口だ。溜息を、吐きたくもなる。
それでも、である。この嫌になる状況においてすら、アルバートは行動を悩む必要はない。それについてだけは、幸運であった。軍ではないが、亜人保護管理局には、軍的側面がある。そうである以上、上官の命令を命令として遂行しなければならない。そんな組織なのだ。私意を捨てて、仕事として打ち込む。そんな、都合の良い大義名分を得ることが出来る。アルバートにとってそれは、居心地の良さに他ならない。
「ダメだな、今日は」
心や精神には、いくらでも嘘をつくことはできる。だが、現実に対して嘘をつくことはできない。世界に違法な亜人は多いとはいえ、居ない時は居ないのである。
世の中が平穏無事であること。それ自体は、きっと良いことなのだろう。世界が安寧であることに困るのは、アルバートの都合だ。本来ならば、市井の民に何もないならのならばそれで良いというのに。無収穫であることを、間違いなくクレハは責めるだろう。見回り、パトロールは仕事ではない、そんな嫌味の一つや二つは間違いなく口に出す女なのだ。
そもそも、の問題があった。亜人どころか、出歩く普通の住民すら、今日は多くをみかけないのである。子供をちらほらと見かけるくらいで、活気とは言い難い町並みであった。元々からして、のどかな農耕地区である。人が少なければ余計に寂しく、排他的にすら感じてしまう。
そんな中で少ない人影を見ても、アルバートの姿を見れば、慌てて姿を消してしまう。理由は、考えるまでもない。亜人保護管理局は嫌われている。制服を着ていれば、当然の反応だろう。そして、理由が分かっていても、楽しい気分になるものではない。
亜人保護管理局は、仕事のためならなんでもする組織だ。そんな悪評は、気がつけば当たり前のようについて回るようになっていた。事実、軍的側面持ち、その実力を行使することも少なくはない。常人である一般市民よりも、平均的に強力な力を持つことの多い亜人。そんな亜人を不法に酷使する反社会集団。それらに対応する組織である以上、力と手段が必要なのは真実であるからだ。つまり、悪評ではあるが、否定しきれない。
正直に言って、亜人保護管理局には、相手、敵が多すぎた。亜人のコミュニティや、亜人を使いたがる反社会集団はもとより、闘争や調査に巻き込まれた一般市民。更には、亜人たちをより人間らしく扱うように、そう表向きは言い張る異人解放戦線。挙句の果てには、亜人保護管理局が戦果や仕事を奪っている、そう言い張る一部の正規軍や騎士団まで。何処を見ても、亜人保護管理局の周囲は敵だらけだ。そのやり口も、自然と強硬的になっていく。
組織がそんな有様である以上、話しかけることに成功しても、結果は芳しくない。怯えたように、亜人など知らない、亜人など見ていない、そう返されるだけであった。これではただひたすらに、雲を掴むようなものだ。情報収集になりはしない。
この地区に何もないのではないか。そのことを、もしかしたらクレハは知っていたのかもしれない。アルバートへの嫌がらせとして、徒労に終わる仕事を押しつける。それくらいのことは、嫌な笑顔を浮かべたまま命じるだろう。行けと言われれば、アルバートが断らないことを分かった上で、当然のように言う女である。そしてこの手の任務を、アルバート自身も嫌ではない以上、余計に質が悪いと言えるだろう。
気が重たく、溜息も出る。そもそもこの周辺は、静かな居住地区である。外壁周辺で農業を営むような、穏やかな民が集まっている場所だ。昔からの住民、それこそ、この街が先の戦争で荒れるよりも前から住んでいる者も少なくない。
魔王軍に付いた亜人に対し、好意的な感情の住人は少ないだろう。亜人を憎んでいる、そんな者の方が多いはずだ。亜人を不法に隷属するどころか、匿うような者とて、そういるとは思えない。
「成る程、そういうことか」
だから、なのだろう。亜人に対して敵意すら有る場所でのたれ込みだからこそ、現地調査が必要だとクレハは判断しれたのかもしれない。亜人保護管理局の仕事は、文字通り、法に則った亜人の保護である。
第三者に、違法に搾取されている亜人。何らかの理由で無登録のまま人間社会に入り込む亜人。これらは、当然保護の対象になる亜人だ。そして、もう一つ、保護すべき形態の亜人があった。
迫害され、虐げられている亜人。
これも、また、重要な保護対象であった。亜人は、人ではない。亜人保護法で守られているとはいえ、その立場は人間よりも遙かに低い。極端なことを言ってしまえば、殺したとしても罪は軽い。人が人を殺した時のような重刑が科せられることはないのだ。このような社会状況である以上、亜人に対する恐怖、敵愾心、それら負の感情が多い場所では、むしろ保護の必要性のケースが多くなる。
深い溜息と共に、アルバートの足が居住区の中心部から神殿の方角へ向く。情報収集の聞き込みのためだ。
光の主神を奉じる国の主教、国教たる教団、その神殿である。彼らも、表向きは亜人保護にも協力的ではあった。綺麗事には、金も集まる。だがそんな打算以上に、少なくとも首都に居る教団幹部たちは、本気で亜人を保護して救うべき、そこまで脳天気に考えていることだろう。彼らは、恐ろしいまでに本気なのだ。
問題は、各地方で現場を見ている者達である。信徒である地方の平民たちが、恐れ、忌み嫌っている亜人たち。彼らが受けた亜人からの被害を、恐怖を、地方の神官たちもまた同様に受けているのだ。中央のように気楽に構えてはいられない。現場の現実が、其処にはある。
向かった神殿では、屋外の広間にそれなりに人が集まっていた。今日は祭日ではないはずだ。あまり熱心ではないとはいえ、国教である以上アルバートも信徒ではある。今日が何でもない日であること、そのくらいは分かる。
足音を立て、近づく。意図的に、自分の存在を知らせるための歩き方だ。嫌われている組織と制服であるが、こういうときは都合が良い。自らの存在を知らしめ、波紋を起こすのには、丁度良い記号になってくれる。自虐的な笑顔も自然と浮かぶというものだ。
「悪魔、そう、悪魔なのです。亜人は悪魔共の民であった。その事実は、変わらない。変わらないのです、何も」
少しずつ、人の山が割れていく。いくら集まっていると言っても、元々の数が知れている。何百人、何千人もの大群衆が集まっているわけではないのだ。数歩、更に前に出る。聞こえてくるのは、神官の扇動的な言葉遣いだ。話慣れているのが、少し聞いただけでも分かる。
「皆、皆は痛いほど分かっているはずです。悪魔によって我々の生活は哀しみに満ち満ちてしまったのだと。そう、だからこそ。今こそ、取り戻さなければなりません」
視界が開ければ、台の上に立ち、熱弁を振るう神官の姿がそこにはあった。青年というには世の中を知り過ぎてしまい、中年というにはまだ若い、そんな顔つきの男だ。アルバートと、恐らくは同世代だろう。
「亜人は、償わなければならないのです。これは、当然の摂理。亜人にとっては、むしろ、それこそが救いとなるのです。悩む必要など、何処にありましょう」
一歩、踏み出す。神官の男は、アルバートに気がついているはずだ。だが、あえてだろう。いまだ何の反応も返してはきていない。ゆっくりと、更にもう一歩、前に出る。これで、ほぼ最前列だ。
「これは、これは。その制服、亜人保護管理局の魔術武官殿ではありませんか。私奴の説教を、お聞きに来られましたかな」
最前列に立ち、正面から向き合う。そこまでして、アルバートのアクションに対して、ようやく反応が返ってくる。そんな神官の男からは、慌てる素振りは全く見られない。アルバートの、亜人保護管理局局員の姿を正面から視認してもなお、呼吸一つ乱しもしない。
「いや、悪いが仕事だ。仕事で話を、聞きに来た」
「左様ですか。それでは、もうしばしお待ちを。大切な説教の時間ですので」
「分かった。ここで待たせて貰う」
亜人の臭いがした。明確に、香りそのものがしたわけではない。気配とでも、言うべきだろうか。職業柄故の、そして戦場で生きてしまった故の、直感である。
黒だ。
間違いない。肌で感じた空気が、直感が、洞察と経験が、そう告げている。
すぐ傍らに立つアルバートを気にする風もなく、神官は説教を続けていく。最早説教と言うよりも演説のようなそれを、変えるつもりは微塵もないようだ。揺るぎない意思の強さは、褒めるべきものであろう。むしろ、聴衆している住民たちの方が、アルバートを気にして遠慮しはじめてさえいる程だ。
そもそもの話として、亜人保護管理局の仕事を考えれば、亜人に対する過激な説教など、大々的にできるものではない。住民たちが萎縮するのも、当然の話だ。むしろ当然の反応だろう。
場の空気を一切気にせず、声高で情熱的に、神官の説教が続く。亜人に対する過激な内容ではあるが、実のところそれ自体はどうということもない。厳密に言えば、アルバートに何もできないのである。些か過激な、眉をひそめたくなる発言を多大に含んでいるものの、首都なら兎も角、地方都市ではさほど珍しい思考ではない。そして何より、法に抵触するような言動を、直接的にしているわけでもないのだ。
巧妙といえば、巧妙なのだろう。直接的な指図がないのならば、亜人保護管理局には咎めるだけの権限はないのだ。概念的で抽象的な話を、それらしく聞かせる。成る程そういう意味では確かに説教なのだと言えるか。少なくとも、アルバートが聞いてきた説教の中でも、聞かせる巧さがあるのは間違いない。
際どいが違法ではなく、教団の威光もある集会である。村人が集まるのも無理はないか。これは最早、ある種の祭りだ。此処に問題があるとすれば、このような思想、思考が蔓延ってしまう社会構造の方だろう。民草は、世相を写している鏡に過ぎない。何にせよ、アルバートにはこの場で何か動けるだけの理由もなければ、権限も持ってはい以上、黙って見守る他にないのだ。
「さて、と。いや、申し訳ございません申し訳ございません。大変お待たせしました、魔術武官殿」
広間に集まっていた人だかりが消え、神官の男が前に出てくる。少なくない住民を前に熱の入った説教をしていたが、疲れは微塵も見せていない。
「俺はアルバート・カーライル。亜人保護管理局タンタネス支部所属、帝国十官の六位だ。今から任意で話を聞かせて貰うが、構わないな」
「これはご丁寧に。私は教団のタンタネス教区祭司長よりこの神殿を任されている、クライヴ・カーティスです。本堂と事務所は併設しておりますので。どうぞ、ご案内します」
クライヴと名乗った神官は、態度も姿勢も、その堂々とした神官然な物を崩さない。その自信が虚勢ではないどころか、神官にありがちな狂信者のそれですらない。そのことは、理性の宿った瞳を見れば分かる。これはむしろ、厄介な人間の類いが持つ、瞳の光だ。
クライヴの後に続き、事務所とされる部屋へと入る。神殿の本堂は煉瓦造りの建築であり思った以上に新しい。恐らく、先の戦争で一度焼け落ちたか、或いは破壊されたのだろう。
「どうぞ、おかけ下さい。大した物も出せませんが、お客様を持てなす茶くらいは」
「いや、いい。持てなしは不要だ」
「そう、なのでしょうがね。まあこれも、私たちの生き方です。どんな形であれ、どんな相手であれ、来客は持てなすように教えられていますから」
教義にそうあることは、アルバートも知っていた。アルバートも、信仰心はともかく、信徒ではあり、その程度の知識は有しているのだ。教義にある以上、神官として、この男は我を通すだろう。そういう類の人間であることは、なんとなく分かるものだ。ならば、今は黙って受け入れるべきか。不必要な張り合いをしても、時間を無駄にするだけだ。
勧められるままに椅子に座り、応接室を兼ねているのであろう事務所を見回す。あまり広くもなく、質素な作りだ。派手にしようと思えばどうにでもなる立場ではあるだろうに、清貧を通しているのは、褒めるべき所か。
簡素な部屋には、小さな食器棚と、小さな台所に、少しの棚。家具装飾も慎ましやかで、全体の調和が取れている。そして、奥の方には鎖に繋がれた亜人が一人。
そう、亜人が居た。その存在を、隠そうとする気配すらない。当然のように、そこに置いているのだ。
「お待たせしました。名のある高級葉ではありませんが」
「ああ、まあ、何でも良い。有難く頂こう」
この後に及んで、亜人の存在を見せてなお、この神官、クライヴ・カーティスは一切動揺を見せない。それも開き直りというわけでもなく、あくまで自然体のままだ。
「さて、何から話しましょうか」
茶に口を付け、先に話を切り出したのはクライヴの方であった。そこに諦めの感情などは全くない。極自然に、世間話でも始めるかのような口ぶりである。
この男の、話を聞きたい。なんとなく、アルバートもそんな気分になり始めていた。此処まで来た以上、本命の話は何時でも切り出せる。
「話したいことがあるなら、先に言え。さっきの説教の続きなら、生憎と興味はないが、な」
「それは、残念ですね。それなりに、自信のある説教ですので。それでは、私の身の上話でも少々、如何でしょうか」
「身の上話、か」
出された茶は、悪くない。嗜好品としてのそれについて知識は持ち合わせていないが、美味い部類に入ることくらいは理解できる。つまり、どうでもいい話を聞く対価としては十分だということだ。
「まあ長々と話しても仕方ありませんので。手短に」
「ああ、手早く頼む」
「それでは。実は私は、先の戦いに従軍しておりまして」
「それは。成る程、そうだったか」
「ええ。軍団付きの神官ではなく、僧兵として、参戦しておりました」
先の戦争中は、兎に角人手が足りなかった。ただの戦争状態というだけでも国力は疲弊するものだが、相手が魔王軍であったことがそれに拍車をかけたのだ。魔力を常人よりも持った人間でなければ、魔王軍の、魔族の、亜人の軍勢にはまともに立ち向かうことができない。国の正規戦力だけでは当然のように限界に達し、教団の持つ私的戦力までもが、前線、後方支援を問わずに送り込まれていた。そんな戦争だったのだ。
「そうか、あの戦い帰り、か」
「ええ。それこそアルバート殿と同じように、ですね」
「ふむ。何処かの戦場で、会っただろうか」
「さあ、それは分かりません。ただ、同じ匂いがしましたから。アルバート殿も、薄々気がついておられたのではないですか」
答えず、黙って茶を飲む。なんとなくだが、そうなのだろう、とは思っていた。話が事実であれば、男の度胸にも合点がいく。あの生き地獄に比べてしまえば、街での荒事や、組織での争いなど、平和の中で行われる些細な児戯に過ぎない。
「聖職者でも、祈りでも、心の傷は治らない。そういうことか」
「あるいは、聖職者だから、とも言えます」
共感は、ある。理解も進む。連帯感も、なくはない。眼前の男が、亜人に対する敵愾心を持ったとしても、或いは何をしても心が痛まぬほどの無関心へと化したとしても。そこには何も、おかしい部分はないのだ。そういう地獄を、戦場を生きてしまった。その事実は、痛く重く皆にのし掛かる。同じ戦場に立ったからこそ、分かることだ。
ただ、それを理由に手心を加える、そんなつもりもアルバートにはない。仕事はあくまで仕事だ。亜人保護管理局の仕事に必要なのは、表面上の事実と、利害関係である。
茶を啜り、小さく息を吐く。
「それでは、本題に入って構わないな」
「ええ、どうぞ、構いませんよ。あそこに居る亜人の、話ですね」
クライヴが静かにが視線を送る先には、首輪に鎖で繋がれた亜人が一人。華奢ではあるが、出るところは出ている体つきだ。そしてやつれてはいるが、男の情欲を刺激する体であることは簡単に見て取れた。顔は俯き表情も分からず朧気な輪郭しか見えないが、美形であることがそれでも分かってしまう。人のそれとは思えぬ翡翠色の長髪も傷んではいるが、艶をすぐに取り戻しそうな気配を秘めているほどだ。
肉体的にも酷い状態だが、着ている物もぼろ布一枚を巻いたような、貧相極まる服でしかない。だがそれすらも、加虐心を煽るような色気に繋がってしまっている。
「こいつは。ああ、淫魔、サキュバス。だな」
「はい。つい先日、行き倒れていた所を保護いたしました。近々、亜人保護管理局に連れて行く予定だったのですが。アルバート殿がお見えになって、その手間も省けましたね」
いけしゃあしゃあと、よく言うものだ。この男の本意がどうであろうと、見えきった嘘をここまで堂々と雄弁に語られてしまえば、最早逆に感心してしまう。
「確認するぞ」
「ええ、よろしくお願いします」
繋がれ座り込むサキュバスに近づき、膝を着く。頭や顔に手をやるが、反応が薄い。本来はより美しいであろう翡翠色の髪は乱雑に長く、手入れがされていない。前髪も長く、顔に掛かってしまっている。白い肌もこれでは青白く、衰弱、という言葉がよく似合う。
そのまま彼女の顎に手をやり、無理にでも顔を上げさせる。
「う、あぅ」
発せられる声は、言葉になっていない。右目は虚ろだ。眼光に力が全く宿っていない。左目は、焼かれていた。左目の周囲が、痛々しい色に傷つき焼けただれている。ただの火傷ではない。魔力的に、焼かれた傷痕だ。具体的に言ってしまえば、聖水の類いでも浴びせられた痕だろう。少量が零れた、そういう類の傷痕ではない。
「お前、名前は」
「ああ、たすけ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんな」
意思の疎通も、これでは怪しいものだ。小さく蚊の泣くような声で、謝罪と救済の言葉を、譫言のように口にする。こんな無残な姿勢と言葉ですら、男を誘うような色気が混じるってしまう。どうしようもない、サキュバスとしての性なのだろう。
「酷いな」
「全くです」
「住民か、或いはお前がやった。違うのか」
「まさか。地区外れで拾った時には既に。ある程度体力が回復したら連れて行こうと思い、療養させていた所です」
それが、この地区での真実なのだろう。住人の誰に聞いても、そう答えるはずだ。拷問にでも掛ければ、違う答えを吐くのかもしれない。だがそれに何の意味があるというのか。そして何より、この男、クライヴ・カーティスは何が起きてもその言葉を変えることはないだろう。静かに狂った神官は、手に負えるものではない。
「分かった。それでは、このサキュバスは俺が連れて行く。構わないな」
「当然です。ええ、よろしくお願いします。いや、これで肩の荷が下りました」
顔の火傷以外にも、傷は少なくないだろう。布の隙間から、ミミズが這ったような痕も見える。生かさず殺さず、最終的には何に使うつもりであったのか。
「クライヴ、一つ良いか」
「何なりと」
「俺は、亜人保護管理局の、魔術武官だ。大雑把に言えば、亜人を守ることが、俺の仕事だ」
「はい、存じています」
「今後、この村を見回ることもあるだろうが、その時は頼むぞ」
「分かりました。その時は、ええ」
これ以上の追求はしない。その代わり、今後は巡回対象、監視対象にする。
亜人に対する荒事の阻止と、住民たちの生活。その両方を守る妥協点としては、落としどころはこんなところだろう。やや、甘いのかもしれないが、クライヴのような男を相手にして、強引な手段だけではむしろ悪手になる。それに、教団との関係もいたずらに悪化させるわけにはいかない。この男は、どうしようもなく神官なのだ。
アルバート自身、亜人保護管理局の仕事として物事はシンプルに。処理には感情から切り離し、切り捨ててはいる。その結果がこれだ。仕事だからこそ、感情以外に考えなければならないこともあり、あまりにも多くの物に縛られてしまう。これが戦場であれば、ただ目の前の敵を切り続ける、それだけで良かった。恐らくクライヴも神官戦士として、そうやって生きてきたのだろう。だがもはや、そんな戦場など存在しないのだ。
「拘束具は、魔力拘束ではないな。ただの首輪、か」
「無許可での使用は、法で禁じられておりますので」
クライヴの言うことは、間違いではない。だが、道具を使っていないだけで、クライヴ自身の魔術で、拘束は行っていた形跡はある。神殿を任されるレベルの神官なのだ、それくらい出来て当然といえば当然か。
クライヴに首輪の鍵を外させ、サキュバスを抱きかかえる。軽い。簡易拘束すら必要と思えない程に、この個体は弱り切っていた。それでも規則だからと、首元に紙製の拘束具を巻く。金属製の簡易拘束では、恐らく身は持たないだろう。
「今後も何かあれば、すぐに亜人保護管理局に知らせるように」
「はい、心得ております。今後とも、よろしくお願い致します」
サキュバスを抱え、神殿を後にする。今後とも、その言葉に意味を含ませながらも、それだけだ。含みはどれだけ持たせたも、直接言葉にしない。最後まで、クライヴはその態度を変えることはなかった。
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