第1話
獣臭い、むせるような残り香であった。この匂いは間違いなく、人間の放てる匂いではない。格別に嗅覚が優れている訳ではない体でも、はっきりと認識できるほどの獣臭だ。だがこの匂いは、それでいて、獣の、野生の本能が放つそれでもない。匂いに、暫し逃げる男の存在に想いを馳せる。
「先輩、アルバート先輩、聞いてますか」
「ああ、聞いている」
「やっと追い詰めたんですから、頼みますよ先輩。とんだ追跡劇になってしまいましたし」
「ゲイリー、少し静かにしていろ。言われなくても分かっている。お前も油断するなよ。まだ、何も終わっていない」
「了解、こっちの準備は大丈夫です」
エルフのそれと、一目で分かるような長い耳。ゲイリーの返事は、その耳を微かに震わしながらの返事だった。そんな部下の何処か悪戯っぽい声は無視し、アルバートは真っ直ぐに足を進める。この部下、ゲイリーは優秀ではあるのだが、楽天的であり、直情的であるのが欠点だった。それは悪い面だけではないのだが、時に慎重さを欠く。だがそれでも、ゲイリーは十分に優秀な人材であった。
今立っている場所は暗い地下、地下水路、下水道設備の跡地である。ただでさえ視界は悪く、足場も滑りやすい。奥を探せば、スライム辺りが飛び出てきても何もおかしくはないだろう。それに加えて、外は未だに夜明け前だ。悪条件下、余計な事に気を散らしたくはない。
「ゲイリー、集中しろ。初手で決めるぞ」
「了解です」
為すべきことが、それが仕事であれば、言えば素直に聞く。本人も、素早く意識を切り替える。そういう意味では、やはり優秀な人材なのだ。軍人気質といっても差し支えはない。
地下の通路を照らす魔力灯は、そのほとんど消えかかっていた。もっとも、それは仕方のない話でもある。魔王との戦争が終結して、まだ数年ほどしか過ぎてはいない。戦時中には、満足な管理が放棄されていた都市地下施設なのだ。魔王軍の侵攻を受けていた街と考えれば、ここも十分に綺麗な部類に入る。
暗がりを進む以上、光源を生み出す手段は自分たちで幾つか用意してきてはいる。手に持っているランプもその一つだ。だが、それらの光はあくまで有限だった。自らの魔力を使う手段は兎も角、蟲や道具を使う手段は経費もかかる。無駄な動きは、好ましくない。
静かな水音を耳にしながら、地下を真っ直ぐに進み、角を曲がり、また道を進む。地図は頭に入れているが、鵜呑みはできない。自らの五感で情報を集め、整合性をとる。匂いと、空気の動き。目標は、もうそこだ。
「動くな。抵抗を止めろ。素直に従えば攻撃もしない。こちらは、命まで奪うつもりはない」
アルバートは決して嘘を言っているわけではない。命を奪うことは、仕事ではないのだ。身柄を確保し、拘束する。それが、与えられた任務だった。
開けたホール、広場状の空間に、多数の支柱。追いつかれた者が身を隠すには、もう此処しかない場所。そんな場所で身を潜める者からは、当然ながら何の反応も返ってこない。
「光骸蟲、用意」
「出来ています」
「撃て」
細筒から、蟲を空中に解き放つ。中に入れていたのは、光骸蟲と呼ばれる蟲である。衝撃が加わって死ぬと、ゆっくりと眩い光の粒をまき散らす蟲だ。
火を使えない場所での光源として重宝されるが、野生の個体は魔力の満ちた森にしかおらず、個体数も多くはない。商用に養殖もされてはいるが、独特の生態であるためか単価が高い。今回持ってきているのも、わずか二発分だけだ。消耗品として、経費で手間なく落とせるギリギリの数である。
「外すなよ」
「任せて下さい、外しませんよ」
辛うじて機能が生きている魔力灯の光と、持ち込んだ頼りないランプ。僅かな明るさの中で、飛び立った蟲を投げナイフで射る。難しい技術ではあるが、投げる方も素人ではない。そのための訓練は、積んでいるのだ。そして何より、ゲイリーの投擲技術はエルフらしく格段に優れている。
一閃。文字通りに、一瞬大きな光の花が咲き、鱗粉のように光が空から舞い降りる。美しい光景ではあるが、見とれている暇はない。
「援護」
閃光と同時に物陰から身を出し、駆ける。迷いはない。既に目標の大まかな位置は、感覚で掴んでいる。
踏み込みと同時に、腰の剣を抜き放つ。手応えは、確かに手に残る。
「お前らぁ、俺はな、俺はな」
「喚くな、黙れ」
手斧が宙を舞い、音を立て地に落ちる。突っ込んで来たこちらに対し、物陰から飛び出しての奇襲。分かり易い動きであった。勢いはある、あるが、それだけだ。対応するのは、何も難しくはない。亜人であり、膂力は常人のそれよりも上を行くのは事実だが、それも想定内の能力だ。
素手で殴りかかってくる拳に対して体を擦り込ませ、肘を打ち込む。飛び退く膝を、剣先で斬る。殺すつもりは毛頭ない。捕らえる為に、やっているのだ。
「サテュロス族、ガンギ・ギギスだな」
「俺は、何もしていない」
「知っている。だから殺さない」
「ふざけるな」
「ふざけてなどいない。これは仕事だ」
問答をする気も、はじめからない。政府に未登録の亜人種を、確保する。それが、与えられた仕事だった。仕事を遂行することに、個人の感情を介入させない。ただ事務的に、やるべきことやる。それが、ある種この仕事で一番大事なことだろう。
「ショックスタン、撃て」
右腕を小さく上げ、下ろす。後方で準備していたゲイリーが、魔方陣を展開し、光を放つ。雷光が走り、爆音が轟く。派手だが、それだけだ。目標に対して、ダメージを与えることは出来ない。あくまで、非殺傷の魔法である。閃光も、音も、衝撃も、全てが虚仮威しだ。全身の痺れも、後遺症を生むほどではない。とはいえ、対象にショックを与え拘束するには十分だ。むしろ、その一点に特化している分、その効果は極めて高い。魔力的な防御態勢を取れていない相手であれば、眼前のサテュロスのような姿を晒すことになる。
意味の読み取れない呻き声を上げ、その場に膝から崩れ落ちる肉塊。屈曲な肉体を持つ種族であれども、すぐに動き出すことはできないだろう。
剣撃で弱らせ、体勢を崩し、無防備になったところに叩き込んだのだ。こうなって貰わなければ、むしろ困る。想定以上のタフネスを持つ怪物を殺さずに無力化するなど、そんな労力は考えたくもない。
「亜人保護管理局タンタネス支部、実行部隊所属、第一小隊長アルバート・カーライルだ。現時刻をもって、貴様を確保する」
魔装具である手錠を、サテュロスの手首に掛ける。金属音と、魔力の流れる音が地下水道に小さく響く。
無抵抗の状態で装着させれば、対象の魔力を強制的に放出させ、その抵抗を封じる事が出来る。更には、捕獲者の命令に背けぬように、捕縛対象に魔力的な痛みを与える機能も搭載されていた。簡易的かつ一時的な措置ではあるが、本部に連行するまでの間であれば十分にその役目を果たす仕事道具だ。この手の拘束具は人間に対しては使用に制限があるのだが、亜人保護管理局が亜人に対して使う場合は、無制限での使用が許可されている。
「印は、やはり無いな」
首、或いは手首や甲に刻まれる魔術刻印。亜人が管理下にあることを示す、隷属服従の証。人間の居住地に住まう亜人に対し、義務づけられる永続的な措置であった。
「ゲイリー、終わりだ。引き上げるぞ」
「了解です。先輩、お見事でした」
褒められるようなことは、何もない。淡々と問題なく仕事を終わらせた。ただそれだけの話だ。アルバートには、正直なところ何の感慨もない。勝利の余韻も、生と死の狭間にある充実感も、此処にはありはしないのだ。
「行くぞ。引き渡すまで気を抜くな」
「了解です」
掛けた縄を引き、確保したサテュロスを地上に連れて行く。アルバートたち実戦部隊が確保する亜人だが、今後の措置を考えるのは仕事ではない。可能な限り、なるべく傷つけることなく亜人を確保し、管理部門に回す。そこまでが、仕事なのだ。
地下水道から、地上に出る。うっすらと、朝日が登りはじめていた。夜明けの空気は清々しく、アルバートも嫌いではない。
「思ったよりも、手早くケリが付いたな」
「そうですね。最悪、昼は過ぎるかとも思っていましたよ」
「まあ、早く済むに超したことはない。俺は引き渡したら一度家に戻る。お前は例の調査を続行しろ、と言いたいが、まあ適当に戻れ」
「了解です。流石に、二徹三徹は堪えますからね」
「全くだ。こんな、忙しいときに余所から押しつけられた仕事で消耗するのは、あまりにも馬鹿馬鹿しい」
確保した亜人を横に、そこには興味を出さずに話を続ける。確保した対象に、余計な感傷を挟まない。そういった部分は、ゲイリーも心得ている。一緒に仕事をしていて、やりやすい男であった。
薄暗く物悲しい地下水路からの出口。街へと出るその場でゲイリーと別れ、アルバートの足は都市の中央区へと向く。大規模商業都市、タンタネス。中央区の一画に、亜人保護管理局タンタネス支部局は居を構えていた。重要機構の庁舎が固まる一画である。組織としては、それなりの立場ではあるのだ。もっとも、その立地すら、疎まれる原因になるのだから笑い話としか言い様もないか。
魔術で意識を失わせた亜人の肉体は、重い。魔術的な簡易拘束を施しての連行は、亜人から肉体的な強さも奪ってしまう。要するに、ただの肉塊だ。縄を引いて歩かせるにしても、無抵抗とはいえ足取りは極めて重い。その上、下手な見世物にならないように、気をつける必要さえもあった。人間同様の扱いではないとはいえ、ある程度の配慮が存在はする。今が早朝で、人通りが少ないことは救いであった。
一時保護施設の担当者に、確保した亜人を引き渡す。ただそれだけの為に、気がける苦労はそれなりには多い。だが、そこから先は担当が異なる。考えたくもないことを、考える必要がない。そういう意味では、有難い所掌分けだ。その辺りの政治的、事務的な手間に比べれば、亜人の連行はまだ気楽な作業と言える。
「亜人の引き渡しに来た。例の軍から依頼されていた違法亜人、サテュロス族のガンギ・ギギスだ。確認を頼む」
「ああ、これが例の。成る程、お疲れ様です。それでは、確認して処理を進めますので」
「頼んだ。処理はいつも通りで、後はそちらに任せる」
相手をする担当者も、この手の作業には慣れたものだ。物のように亜人を引き受け、書類と共に受領の状況を整えていく。淡々とした、感情は抑え、言葉を額面上だけの物とした抑揚のない口調で、如何にもなお役所仕事である。部外者からの不満も大きいが、この仕事に関わる以上、正しいやり方だろう。むしろ、不満や敵意を受け流すには、そうするより他にない。
確保された亜人はこの後、亜人保護管理局本部の戸籍に登録され、種族ごとにそれぞれ適合する矯正施設へと送られ、以降の生活を国家に管理される。矯正施設から先が具体的にどうなっているのか、それを、アルバートは考えないようにしていた。噂は色々と流れてくるし、関係者の話も直接耳にする。多少の資料も、配布されはするのだ。だが、確実なことは、ただそういう仕組みが整っていること。そして、そこに亜人を送り込むために自分たちが存在しているということだけだ。組織の一部分、それ以上を、アルバート自身は求めようとしたことはない。
「どうやら問題はなさそうだな。俺はもう行くぞ」
「はい、そうですね、まあ大丈夫でしょう。妙な曰く付きの割に、普通ですね、コレは。今回もお疲れ様でした」
立ち去る前、最後に亜人、ガンギ・ギギスを一瞥する。拘束魔法で縛られたその身に力は入らず、瞳は虚ろに、視線は空しく宙を舞う。もう、会うこともないだろう男に対し、感情は何も浮かんでは来ない。ただ、仕事として亜人を処理した。これは、それ以上でもそれ以下でもない。
担当者に軽く頭を下げ、部屋を後にする。足は、そのまま庁舎の外へと向いた。上司への報告は、一度家に帰ってからで良いだろう。今はまだ、深夜に近い早朝なのだ。
頭をオフに切り替え始め、ぼんやりと食事のことでも考えてはじめる。だが、その怠惰な思考は一瞬で終わりを迎えた。敷地の出口に近づくアルバートの目に飛び込んできたのは、門の傍らに立つ、一つの人影であった。
「流石、アルバートね。仕事が早くて助かるわ」
顔を見ても嬉しくない、女狐だ。
「ガンギ・ギギス、連続暴行事件を起こした凶悪犯。発見した軍の兵士を振り払って逃亡、ということになっているけど。貴方にかかれば、こうも手早く、ね」
「何のつもりだ」
「待っていたのよ、貴方を。ええ、一仕事終えた大切な部下ですもの。忙しい最中、軍部に押しつけられた面倒な仕事なのだし、その顛末は責任をもって見ないといけないわ」
アルバートを、待っていた。見ているだけで嫌になる笑顔を浮かべながら、眼前の女狐は無意味な言葉を語っていく。恐らくその本心は、語る言葉の何処にもない。
「クレハ・セネット司令官殿、わざわざご足労恐れ入ります」
この女、クレハ・セネットこそが、アルバートの上司である。少数民族である狐族出身の女武官でありながら、亜人保護管理局タンタネス支部局、その実戦部隊を総指揮する地位に立つ。間違いなく、才覚はある。心理戦にも頭脳戦にも長けた、アルバートの苦手な女だ。
慇懃無礼な言葉をわざとらしく吐いたところで、この女の表情は微塵も動きはしない。嫌になるような笑顔を、浮かべたままだ。人によっては、それを美しいと思うのかも知れない。だが、多少なりとも彼女を知るものからすれば、その美しさは恐怖と威圧の裏返しでしかなかった。少なくとも、心を惹かれて動かされることはない。アルバートにはそう断言できた。
「良いのよ、別にそのくらい。ふふ、何時も言っているでしょ、貴方は、大切な部下なのだから」
大切、という言葉のイントネーションも、アルバートには気にくわない。だが何を言い返したところで、この女に意味はないだろう。強く冷たい指揮官なのだ。そこらの村娘が持ち合わせるような柔和さなど、期待する方が間違っている。
「それで、要件は。まさか、暇潰しなどという時間でもないだろ」
「あら、本当に顔を観に来ただけよ。報告は、一度帰ってからで構わないわ。どうせ、治安もまともに守れないような軍の連中に押しつけられた案件。本来であれば、急ぎの仕事ではなかったのだから」
嫌がらせで顔を出したのだろう。よくやると思うが、その効果は、アルバートに対しては十分であった。既に、心がささくれだしている。
「了解しました。それでは、失礼します」
アルバートも淡々と、平坦な声色で、感情を動かさずに言い放ち、クレハに対して足早に背を向ける。背後から視線と気配は感じるが、それだけだ。これ以上、クレハから言葉を投げられることはなかった。
溜息は、自然と零れる。クレハに、嫌な上司と会った。そのことを、振り払うように、歩みは自然と早くなる。それでも、今はまだ早朝、人によっては深夜である。人気の少ない道を、音を立てないように歩いて行く必要はあった。住んでいる家は、中央区からそう遠くはない、閑静な住宅街の中に確保していた。決してその維持費は安くはないが、集団生活や下町特有の余計な人付き合い、そんな喧噪を避けるためには安い出費だ。
朝靄の中、静けさに同化するように進み続け、足を止める。中には誰も居ない、静寂の家がアルバートの住居であった。豪邸ではない。質実剛健であり安っぽい家ではないが、あくまで、ただの民家だ。ただ、一人で住むにはいささか広い。家を守る妻か、世話役の下女でもいれば丁度良いのだろう。そして、そのどちらも此処には居ない。
独りの家だが、不満はなかった。早い話、アルバートは他人が嫌いなのだ。人間も、亜人も、関係ない。共に等しく、好きではないのだ。だからこそ、今の仕事が適職なのだと、少なくともアルバート自身はそう信じて疑っていなかった。
何も、昔から、アルバートは人間嫌いだったわけではない。魔王軍との戦争で、嫌なことがあまりにも多すぎた。そして気がつけば、人も亜人も、関係なく。ただただ、それらが生み出す関係性を嫌いになっていたのだ。アルバートは、別段それを不幸なことだとは思ってはいない。ただ、社会の中で生きにくい、それだけである。
亜人保護管理局の制服でもある外套を掛け、その下に来ている物は脱ぎ捨てるように放り出す。着替えは雑に、細かい事は起きてからやる。ベッドに倒れ込めば、あとはそのまま眠るだけだ。ベッドも、高級品では決してない。だが、夜露を防げるだけの野宿に比べれば、これだけでも天国のような環境だろう。
疲れた。何に疲れたのか、それを考える頭はぼんやりとしている。それでも、疲れたという想いは、嘘偽りのないアルバートの本心であった。
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