ナイショのお遊び
側溝というものがある。道端に設けられた排水施設だ。
最近、側溝の金属蓋、グレーチングが消えるという事件が頻発しているようである。転売目的の盗難が主な理由らしい。
「あれ、ここもなくなっている」
わしが保育園児の頃も側溝の蓋はたびたび消えていた。今と同じく盗まれたものも多かったのだろうが、別の目的で消えることもあった。
工事現場、建設現場などでは冬になると空になった金属製灯油缶の上蓋を外し、薪を燃やして暖を取ることがあった。
その時、側溝の金属蓋を外して灯油缶にのせ、イモや餅を焼いたり鍋で湯を沸かしたりするのだ。金属蓋を金網の代用品として使うわけである。
「あんな柵みたいなものでおいしく焼けるのかなあ」
と思うのだがおっさんたちも手馴れたもので、火加減を調節しながら上手に焼き上げうまそうに食っている。
金属蓋ではなくマンホールを使うこともあるらしいが、そのような情景は見たことがない。その頃はまだ下水道もあまり整備されておらず、生活圏内にマンホールがほとんどなかったからだと思われる。
側溝の金属蓋で美味を堪能した後は元あった場所にきちんと返却してくれればさほど問題はないのだが、ほとんどの場合、使いっ放しでそのまま放置される。
返却するのは現場撤収時なので、それまで側溝は穴が開いた状態となり少々危険な場所となる。そして危険な場所は格好の遊び場となるのが保育園児の常識なのである。
「四つ足走り、大好き!」
唐突で申し訳ないがその頃のわしは両手両足を使って走るのが大好きだった。二つ下の妹の靴を分捕り、両手に履かせて四つ足でそこらを駆け巡るのだ。
そもそも保育園児はハイハイを卒業してから数年しか経っていない未熟者である。まだまだ二足歩行には不慣れな状態、走るにしてもドタドタ走りで危なっかしいことこの上ない。
それに比べて四つ足の安定感は
「うはー、気持ちいい」
四つ足走りは体全体を使って走るので体力の減り方が半端ない。それが逆に爽快感を生むのである。
心地良い疲労に酔いしれながらの全身運動。二本足より速く走れているのかどうかよくわからないが、視界の半分くらいを占めている地面が飛ぶように後方へ流れていくので、立って走っている時よりも断然大きな疾走感を味わえるのだ。
ちょっと気になったので四つ足走りについて調べてみたらギネスで認定されていた。世界王者は100mを15秒台で走るらしい。四つ足走りがオリンピックの正式種目になる日は近いような気がする。
さて、四つ足走りが大好きな保育園児が蓋の取れた側溝に出くわした場合、どのような行動を取るだろうか。
「中に潜り込んでハイハイで進んでみよう」
という発想に至るのは自然の摂理である。
実際、数年前に側溝に潜り込んでスマホで盗撮していた男が逮捕されたが、彼も小学生の頃から側溝で遊んでいたそうだ。悪人ではあるがちょっと親近感を抱いてしまった。ちなみにこの男は盗撮のために側溝に5時間潜んでいたらしい。上には上がいるものだ。
さて、わしが挑んだ側溝はほとんどがコンクリート製の蓋で金属蓋はごく稀にしか設置されていなかった。だがそんなことは些細なことだ。さっそく中へ入り込む。
暗い。しかし真っ暗ではない。コンクリート蓋には手穴が開いているのでそこから光が漏れているのだ。そして前方にはかなり明るい場所がある。たぶんあの部分の蓋も外されているに違いない。よし、あそこまで行ってみよう。
「行っけええー!」
わしは全力でハイハイした。とにかく汚い。底は泥でぬめぬめしているし、生ゴミは落ちているし、虫の死骸は転がっているし、下水の臭いがするし、どう考えても苦行以外のなにものでもない。
それでも臆することなく進んだ。何かに夢中になっている時の保育園児は無敵である。怖れるものは何もない。
「よーし到着。うわあ、まぶしい!」
悪夢のような空間を抜けた先にある青空は格別だった。普段と同じ空なのに普段とは違う空がそこにある。このような感動を味わえることこそが側溝ハイハイの魅力なのだ。
「今日も挑戦だあ」
それからわしは何度も側溝ハイハイを楽しんだ。雨の日や水が溜まっている日や見たいテレビ番組がある日などはやらなかったが、それ以外の日は精力的に側溝に潜り込んでいたような気がする。
だがそんな日々は呆気なく終焉を迎えた。
「ん、今日はちょっと暗いかな」
その日もいつもと同じように側溝に潜り込んだわしは若干の違和感を覚えた。前方がなんとなく暗いのだ。
「曇っているからだな、たぶん」
ということにして進み始める。今日もハイハイは絶好調だ。服を泥だけにしてわしは進む。
「そろそろかな」
わしは進む。
「まだかな」
わしは進む。
「変だな」
頭の足りない保育園児のわしでもさすがにおかしいと感じ始めた。いつもならとっくに出口に着いているはずなのに、どれだけ進んでも蓋が開いている場所にたどり着けないのだ。
「どうしてだろう」
わしはハイハイをやめて足りない頭で考えた。結論はすぐ出た。いつも出口として使っていた場所に蓋がされてしまったのだ。だから入った時に前方が暗く感じたのだ。きっとそこは金属蓋ではなくコンクリートの蓋だったのだろう。
「どうしよう」
わしは迷った。このまま進んで蓋が開いている場所を探そうか。しかし前方は暗い。開いている場所がすぐ近くにあるとは思えない。
ならば引き返して入り口まで戻るか。しかし向きを変えるだけのスペースはない。戻るにはこの態勢のまま後退するしかないがハイハイバックの経験は数えるほどしかない。不慣れな移動方法では相当時間がかかりそうだ。
迷い続けるわしの頭にある言葉が浮かんだ。
「逃げるが勝ち」
そう、逃げるとは退却、つまり後退を意味する。このままがむしゃらに突き進むよりも確実に出口にたどり着ける「逃げ」が最善の選択である。
わしは後退を始めた。手足がぎくしゃくしてなかなか進まない。さらにある不安がわしを襲った。
「もし入り口まで塞がれてしまっていたらどうしよう」
そこは恐らく金属蓋のはずだ。それならば蓋がされても大声で叫べば誰かが助けてくれそうな気がする。
しかしもしコンクリートの蓋がされてしまったらどうしよう。あの分厚さではどんな大声もほとんど外に漏れないだろう。助かる見込みはない。
「ヤバイよ、ヤバイよ、急がなくちゃ」
焦った。これほど焦ったのは生まれて初めてだった。同時に押し潰されそうな恐怖も感じた。これまで側溝の闇など怖くもなんともなかったが、閉じこめられるかもしれないという不安によって側溝の闇は恐怖の闇に変容してしまったかのようだった。
「お願いです。戻るまで蓋しないでください。お願いですお願いです」
わしの祈りは神様仏様に届いたようだった。無事入り口にたどり着いたわしは外に出た。見上げた空は相変わらず曇っている。
「もう二度と側溝には入らない」
曇天に向かってそうつぶやいた。そして二度と側溝ハイハイを行うことはなかった。
保育園児というものは大人には想像もできない遊びを考え、それを実行するものだなあとつくづく思う。
たまに幼児が行方不明になったというニュースを聞くと、
「ひょっとして側溝に入り込んだまま蓋をされちゃったんじゃないだろうか」
などと要らぬな心配をしてしまうことがある。そしてもしかしたらそれは自分だったのかもしれないと思い、恐怖に身震いするのだ。
本日の川柳
トンネルの向こうに春の陽射し無く
昭和の時代の保育園児 沢田和早 @123456789
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます