Re+berth(リ・バース)

───人生とは平等であり、無価値な人間はいない。これはとある名もなき英雄が息を引き取る際に放った一言らしい。が、“己”はそうは思わない。


人生とは不平等であり、価値のある人間は少ない・・・と、己の考えは名も知らぬ英雄とは真逆の答えだった。


「おいフィル、ここ掃除しときな」


「は、はい。わかりました・・・」


しっかりと清浄されていない濁った水と布切れをもたされ、買い主に掃除を命じられた場所の汚れを拭き取るべく、力の入らない足を働かせる。


おのれ”───『フィル=ラグレイト』は汎用はんような身だ。生まれも才能も平凡と言って良く、人を惹き付けるような会話術も、人から愛されるような容姿をしている訳でもない。それに加え己はこの国では、最下級の奴隷階級にあたる。


少なくとも今挙げた内の1つでも他より大きく秀でていれば、決して己は奴隷という立場に留まっていないだろう。つまり己はただの平凡な───いや、それ以下の人間であるという事の証明になってしまうだろう。


「掃除が終わったら“アレ”買っておいで・・・あぁそう、くれぐれもへまはするんじゃないよ」


「はい、わかり・・・ました」


そんな己の買い主は十年という長い間雇ってくれているが、貴族のお得意商人だからなのかやけに金に目がない。その証拠に先日、かなり高額な宝石が売れたと小躍りしていたのを鮮明に記憶している。


商売が絡まない時の顔は何処と無く無愛想ぶあいそうだし、声も素っ気ないモノだが、こんな己を未だに雇ってくれている。己が恩義を感じるには充分な女性なのだ。

勿論己が奴隷という身分でなければ、という前置きが付くが。


いや、しかし。今日はやけに忙しいな。


普段なら己は身の回りの雑用や書類の管理、食事の用意など、他のメイドと協力して仕事を行うのだが、どうやら今日はお使いもあるようだ。出来ることなら昼食時なので勘弁してほしいとは思う。


だが奴隷であるため、己には拒否という行動を取る事が出来ない。これは己だけでなく、奴隷は普通主の命令に逆らえないようになっているからだ。


汎用な身である己には想像すら出来ないが、今己に巻かれているこの首輪には魔術とやらが刻まれているらしい。そしてソレは、『人間である』奴隷が買い主へと反抗した場合、自動的に締まる仕掛けとなっている。


何故奴隷である己が知っているのか───それは己は既にこの痛みを何度も味わっているからに他ならない。買い主は優しいところも見せるが、冷酷な一面の方が強い。


その度に己は思うのだ───何時になれば“ここ”から解放されるのか、と。


幼い頃の記憶はないためうろ覚えではあるが、己の生まれは娼婦である母からだ。だが代わりに父となる男の存在は知らない。母は己を愛していたかどうかも定かではないが、己がこうして奴隷として売られているのだから愛なぞなかったのだろう。


「あなたは私の子じゃない!」と狂ったように叫んでいたことは、己の脳裏の奥深くに酷く焼き付いていしまっている。


それ故か、町中で楽しそうにはしゃぐ子どもと、それを宥める親達の姿を見ると、己の母の目を背けたくなる光景が頭のなかで反芻してしまうのだ


だが勿論悪い思い出ばかりではない。

母が己の誕生日に一度だけプレゼントを贈ってくれた事があるのだ。

それは丁度、小さかった己の腕の中でもギリギリ収まる程度の大きさの絵本だった。表紙はどこか煤けていたが、そもそも紙が貴重なのだ。古ぼけたとは言え、何十万もの価値がある。


こんな高価な物をどこで?とその絵本の出所を聞くと、たまたま客から貰ったのだ、と不機嫌そうに母は言っていた。

その客の顔は深く見ていなかったらしいが、何処か己に似ていて不快だった、と苦痛を滲ませる顔をしながら語っていたのを覚えている。


その絵本のタイトルは───『ひい覇出はでたる者』。だが、こんな大仰おおぎょうなタイトルに比べて、絵本の内容は至極単純明快なストーリーだった。


農民である主人公がその腕一つで、紅眼の黒龍や、銀毛の狼、覇鉱の亀を打ち倒し、成り上がる。そしていずれ老若男女の人々から頼られ、魅了し、後世に語られるような英雄になる───そんな何処にでもあるような物語。


だが、この時からだ。


己がそんな英雄に成りたいと願ったのは。


今ならば嘲笑ちょうしょうとともにその夢を否定し、成れる訳がないと諦めさせるような、そんな無謀で馬鹿で蒙昧な、そんな夢。しかし今こうしてその夢を夢想むそうしているのだから、己はやはり 無謀で馬鹿で蒙昧なのだろう。


己が、英雄になれるワケがないというのに。


「・・・さて、行かないとな」


一通り掃除を済ませ、机上に置いてあった札を手に取ると、暗くじめじめと湿った路地裏から太陽が明るく照らす街道へと出る。


(今日はやけに人が多い・・・何かあるのかな?)


この国───プロメシア王国は、他の王国より祭事や儀式の類いが多く、その城下町の通りは、いつも屋台が所狭しと並んでいる。お陰で観光客も多いらしい。


だが今日はいつもより人が多い。恐らく何か大きな祭りでもあるのだろう。


この様子だと、商店に帰るまでにだいぶ時間が掛かりそうだ。


(怒られないといいけど・・・)


その場所までは、歩いて約一時間かかる。そしてその間、市街地を走り続けることとなる。勿論そうなればお腹も空くし、体力も尽きる。だが、ここの町の人達は温かい人達が多い。奴隷の己が呆れてしまう程に。


「おーフィル!今日はご主人様のお使いかい?」


「えぇ、少し買い物を」


「おぉ、偉いじゃないか!それならほれ、これ持っていきな!」


そう言って投げ渡されたのは赤く熟したアプルの木の実。色合いがとても良く、瑞々しさが感じられる良い品だ。己はそれを渡された勢いそのまま齧り付き、シャクシャクと口内で踊る甘味と、僅かに舌を刺激する酸味に舌鼓を打つ。


束の間の休息には違いないが、それでもこの町の人達の施しは心に癒しをくれる。


「ありがとうございます!」


何度も思うが、奴隷の己にも優しく接し、まるで近所の子供のように話し掛けてくれる・・・こんな町はきっと他にないに違いない。日々仕事に追われる己にとっては、非常に有りがたいのだ。


───だが、人々から奴隷だからと優しくされる度に“こう”思ってしまうのは、己が低俗であるためだろうか?───己の何処に、“英雄へと成り上がれる要素”があるのだろう、と。


いやそもそも、英雄とは何だ?


他より秀でているから英雄なのか?

他人を導くから英雄なのか?

人智の及ばない悪を打倒しうるから英雄なのか?


疑問は尽きないが、きっとその答えは英雄にしかわからないのだろう。

ならば、己はどうして英雄へと至ることが出来るのかわからない。


つまり───終わっているのだ、己は。だから奴隷となり、今の買い主のもとで飼われている。何度も言うが、己は今の買い主は特段嫌いではない。寧ろ感謝すらしている。


何せ買われなかった奴隷の末路は揃いも揃って悲惨だ。良くて体の一部を売られるか、悪くて人間の尊厳なぞないとばかりに、魔物に食い散らかされるか。


いずれにせよ、ろくなものではない。


「おう、来たか小僧」


「こんにちは、それと何時ものをお願いします」


やはり予定よりも時間が掛かったが、無事に目的地に到着した。そこで顔見知りの店主へ軽く挨拶を済ませ、買い主から頼まれた“アレ”を店主に注文する。


「あぁ、わかっている。此れだろう?」


店主が後ろに陳列ちんれつされた棚から取り出したのは、買い主の書斎しょさいに何時も置かれている薬───確か名は。


「“鎮静薬───ダイモナス”。お前ん所の商人様が良く買う奴だな・・・全く、趣味がわりぃ」


趣味が悪いというのは同意する。


なぜなら買い主は商人であるから。商人とは皆えてして金というものにがめつく、そして高価なものを好む。


その証拠に買い主の書斎は、恐らく同じ商人の中でも並ぶものがいないほど豪華絢爛ごうかけんらんであり、知らないものが立ち入れば、きっと貴族の一室だと勘違いしてしまうだろう。


しかしそうか、ダイモナス・・・確かにそんな名前であった筈だ。何時も買いに来るのだが何故か憶えられない、そんな名前。


(けど、こんなものを飼い主は一体何に?・・・いや、よそう。好奇心で酷い目に逢うのは目に見えてる)


一瞬、買い主がこの飴玉のような薬を一体何に使うか興味も沸いたが、それよりももしもバレてしまった場合のリスクを考えると、その興味もたちまちに失せてしまった。


「では、それをこのお金で変える分だけ」


「おうおう、太っ腹だねぇ・・・ほれ、十粒だ」


「いち、に、さん・・・うん、本当に十粒だ。ありがとう店主」


「お、おいおい、そんな疑り深く数えなくてもいいだろう?少しは人を信じろよ・・・いくら俺でも数を誤魔化すなんてちゃちな事はしねぇぜぇ?」


「はぁ、はいはい。その言葉の内本当に本心で言っているのは一体どれなんでしょうね」


この店主は見た目はいかにも好好爺こうこうや然とした雰囲気があるが、外見で判断してはならない。そうでなければ、態々こんな日の目を避けるような場所に店は構えないだろうし、人避けの結界を貼る必要もない。


そもそも、金を誤魔化された経験も一度や二度じゃないのだ。


それに己からすれば、裏路地で生きるこの店主相手に油断をするというのは、それ即ち化け狸相手に化かし合いをするようなものだ。

到底己程度では勝ち目がない。


───故に警戒、だからこその猜疑さいぎ。これは己が奴隷という身である限り、一生付きまとうだろう。


「それではお目当ての物も買えた事ですし、これで帰らせて頂きます」


「おぉ、もう帰んのか。気を付けて帰るんだぞ坊主」


警戒心を和らげるような笑みを浮かべている店主に別れを告げ足を動かす。

このまま長居をすると、帰りが遅い、飼い主の機嫌を損ねてしまいそうだ。


たちの悪い冗談かもしれないが、もし買い主の機嫌を悪くしたのならば、己に待っているのは無惨な最期終わりのみだろう。だからこの己に出来るのは、白い小包に入った薬を落とさないように買い主の商店の元へ帰ること、ただそれだけだ。


なにせ既に己の生殺与奪せいさつよだつはあの買い主が握っている。もし逆らえば、この首輪が親指の先程まで細くなり───死ぬ。


(あぁ、本当に理不尽だ)


己の現状を見つめ返す度に思う。


何て不条理で不都合で悲劇的なことに溢れた世の中なのだろう、と。


例えば己が目指す英雄には努力できる環境があり、信頼できる師や友、家族がおり、そして何より才能がある。


だが己は反対に溝の中で生まれ、父は知らず、奴隷として売られたがために母はいない。師は当然なく、友の一人としていないし、才能なんてあるはずがない。


───どうしてこうも己には何もないのか。


何と不平等な世界なのだろうか。毎日顔に笑顔を張り付けたまま、買い主の機嫌を伺う日々。それを数年も続けている。


果たして本当にこのままでいいのだろうか。


己は英雄になりたいと願ったのではないか?ならば何故このような所で道草を食っているのか。


そんな終わらぬ自問自答。


「───ッ!?な、なんだ!?」


しかしそれに終止符を打ったのは、辺り一帯の大地がまるで地母神ちぼしんの怒りに触れたように震え脈動し、立つこともままならない程の揺れだ。


突然の出来事に、思わず何事だ!?と声をあげてしまうが、それは己だけではなかった。


己の周囲にいた人々も何事かを口に声を張り上げている。その顔はまさに蒼白と言っても良い程で、この揺れが祭りや催事の類いではないことが感じ取れた。


(な、何が・・・一体何が起きて・・・)


状況の把握と理解が出来ない。


もしや何かの災害の類いだろうか?それとも本当に地母神の怒りなのか?───否定は出来ない。これは己の持論だが、神とやらはこの世界よりも酷く理不尽で不平等だ。


神が平等ならば、今頃世界中の人々から不平不満がなくなっているころだろう。私欲に塗れた戦争なんて起きるはずもない。


だが、違う。

この世は平等ではない。


長生きするもの、早死にするもの、生まれつき体が弱いもの、至って健康なもの。容姿端麗なもの、醜悪なもの。

そして───『天才理想非才現実』。


挙げればキリがないが、これは確かに不平等なものだ。そしてそれらがやがて増幅され、いつしか妬みや嫉妬に変わる。最後は仲良く殺し合いへと変貌してしまう。


故に神とやらは平等ではなく、『全能』ではない。そしてかつ理不尽だ。


そして今回、己の考えはどうやら間違っていないらしいということをはっきりと理解したのだ。


「GRRRRAAAAAAAAAaaaaッ!!」


「───ぐっ!?」


突如始まったけたたましく重く響く怒轟に思わず目を閉じる。あまりの轟音に身動きが取れず、遅れて耳を塞ぐが効果はまるでない。それどころか、今にも鼓膜を破る勢いで決して途切れずに脳を揺さぶる。


そのあまりの圧と直接脳を揺らす衝撃で吐き気を催す程だ。


「はぁ、はぁ、はぁ・・・お、収まったのかな?けど今のは一体・・・」


約数秒だろうか。絶えることなく鼓膜を刺激する轟音はどうやら収まったようだ。


安堵とともに乱れた息を吐き出す。

もう帰ろう・・・と半ば無理矢理己を納得させるように言葉を紡ごうと口を開く。


が、それは叶わなかった。


(道が、血で濡れて・・・あ、あぁ・・・人の体が・・・)


「・・・ぉえ・・・」


轟音が収まって約数秒程度・・・暗い視界から光を求め目を開けたそこには───この世の『地獄』が広がっていた。


人々が悲鳴をあげ、煉瓦で出来た家は倒壊し、道は先の怒轟の影響か人の死体が路肩の石のように転がっていた。


その光景のあまりの惨たらしさに、抑えてきた感情が濁流となって我慢していた吐き気が決壊し、たいして物も食べていないのに嘔吐はやまず心を蝕んでいく。


「う、嘘だ・・・」


何処か現実ではないようなそんな光景。

ただ唯一、鼻を刺激する強烈な死臭だけが己を現実に引き戻していた。


「どうして・・・なぜこの一瞬で・・・」


無意識で紡いだその言葉が、未だに理解が追い付かない頭の中で何度も反芻する。


さっきまで屋台の主人と会話していた婦人は、崩壊した瓦礫に呑まれ消えた。

さっきまで頬を赤くして肩を組んでいた飲んだくれ達は、一瞬にして黒焦げになった。

さっきまで親と手を繋ぎ楽しそうに顔を歪めていた子どもは、今ではそれが親なのか子なのかの判別もつかないほどぐちゃぐちゃの肉塊になっていた。


「ひっ!?」


だがそれだけなら、まだ己は希望を持てたかもしれない。


神は理不尽だ。


どうやらまだ神は己ら人間に試練を与えたいらしい。それも、微かな希望すら潰えてしまうほどの圧倒的な絶望を。


───己は見た、見てしまったのだ。


微かに・・・微かにであるが、空から悪魔のような唸り声をあげ飛来する煉獄の焔が、人を焼き付くす姿を。


では───ではその焔を放った主は?


その答え合わせをするように忙しなく目を動かし、黒煙立ち上る空を瞳に映す───嗚呼、やはりいた。


空から焔が墜ちるという非現実的な事が起きているのにも関わらず、その姿を見て己は何故か安堵してしまった。

いや、もしかしたら心の奥底で絶望し、恐怖しているのかもしれない。


色々な感情が行き惑い、己の矮小な心を複雑に交錯していて、どうにも今は己の感情が自分でも分からなくなっているからだ。少なくとも己はそう思う。


「GOOOAAAAaaaa!!!!」


“ソレ”は、蒼穹の大空を我が物顔で悠々と飛び、天の光を反射し黒く暗く輝く漆黒の翼を有す。

口元はナニかを喰ったのか赤く染まり、喉元は赤血とは違う紅が淡く光り、そして消えるを繰り返している。

黒々と濁った爪は光を吸収し、まるで黒という色の原点そのものであるかのように艶やかで、見る目を吸い込む『緋色エスカルラータ』の瞳を爛々と輝かせている。


その姿形はまさに、御伽でしか見たことがないような───“龍”と酷似していた。

それも、母がくれた絵本の中にも登場したあの紅眼の黒龍に。


確かその名は───“黒龍『ヴィルヘルム』”。


「あっ、あぁっ!?か、体が・・・」


何故だろう。

黒龍の姿を視認してから、全身の震えが止まらない。


まるで見てはいけないもの見てしまったかのように、体が言うことを聞いてくれないのだ。


それは己の体があの黒龍天災に死の危険を感じているからなのか、はたまた暖かった町の人が容易く死に、冷たさだけが残ったこの町に寒さを感じたからなのかは、己にはわからない。


だがいずれにせよ、己にはあの黒龍を止める手段は───ない。


「GYAAAAAaaaaaa!!」


「「うあぁぁっ!!」」


神代かみしろの龍が唸りをあげ、咆哮を轟かせ混乱を巻いこませる。それに遅れて響く逃げ惑う人々の悲鳴。誰もが混乱し、誰もが必死に助かろうと地獄と化した路地を駆ける。もはやそこに、国という秩序で守られた決まりは欠落したのだ。


悪い者などいない、いる筈がない。彼らは龍という名の厄災から逃げ出したいだけなのだ。


(ぼ、僕も急いで逃げないと・・・逃げる?)


───何をしているのだろう己は。


(逃げるって・・・逃げるって何だよ)


本当ならば、今すぐにこの動かない足を叩いてでも逃げ出さなければいけないのだ。なぜなら平凡な己には、あの龍と戦うというおおそれた事なんて出来る筈がない。精々が脇役としてあの龍に死体すら残さないほど焼かれるか、はたまた人の波に押し潰されるか・・・その程度だろう。


そんな己が、剣一つで魔を切り捨て、魔術一つで天災を起こし、拳一つで大地を割る・・・そんな英雄や勇者になれる訳がない。


「そりゃあ・・・英雄になれないわけだ・・・」


噛み締めた歯がギリギリと悲鳴をあげ、拳からは固く握った所為しょいか、ぽたりぽたりと鮮血が地面を鮮やかに彩る。


だが今はそんな事よりも己の弱さに・・・不甲斐なさに悔しさが募ってゆく。


────そんな己の前に。


「Guurru・・・」


────『絶望死神』が空から来訪した。


大きな漆黒の翼をはためかせ、ゆらりゆらりと音も立てずに飛来する黒龍『ヴィルヘルム』。その威容はまさに、『死神の再臨』と言っても過言ではない。


その場にいるだけで、己を含めた見たもの全てが動くことを許容されていないかのような、そんな覇気が、犇々ひしひしと己を圧迫し、鼓動を早める。


あまりの覇気に、薬を包んだ小包が手からストンと滑り落ちたのがわかった。お陰で中の薬がポロポロと零れ出るが、今は気にすることが出来ない───目の前の『黒龍』のことで他のことに気を移す余裕がないのだ。


「は・・・ははっ・・・」


目の前に座する絶望に、思わず笑いが溢れてしまう。

人を塵芥同然に殲滅し、先程まで晴れだった空の“天候を変えた”、まさに超常の存在───これこそが天災カタストロフなのか。


だが英雄や勇者達は、こんな人智じんちの及ばぬ化け物を相手に戦い、そして必ず勝利を納めた。であるなら、英雄や勇者達は果たして本当に人間なのだろうか?いや、英雄や勇者であるから、そんな化け物達にも対抗出来るのだろうか?はたまた、そんな化け物達にも対抗出来るから、英雄や勇者と呼ばれるのだろうか?


───きっと、どれも正しいのだろう。


「GAAAAAAAAAAAAAAaaaaaaaa!!!!」


絶望が魂を揺るがす咆哮を放つと、禍々しい歯を覗かせながら己へと飛翔してくる。一体何故己が、と驚く暇すらなく、大顎を開かせ今にも己を喰らわんと首を伸ばす黒龍『ヴィルヘルム』。


───避けられない。


あの巨体で襲ってこられては、逃げることは

不可能だろう。


・・・だが。


「───動け」


何故か己は、神の与えた試練に抵抗しようしていた。


「───動け、動け」


手足に力は入らない。まるでここで死ぬのが運命と決められているかのように、己の体は少しも動かなかった。


・・・なのに。


「───動け、動けよ。諦めて、どうする」


己は・・・。


「───動けよ」


何故ここまで・・・。


「────動けよぉぉぉぉッ!!!!」


幾ら叫んでも結果は変わらない。己の体は言うことをまるで聞かず動かない。どうせ龍からすれば己は最期に煩く喚き散らす生き餌としか思われてないだろうに。何故己はここまで生に執着しているのだろうか。


・・・いや答えは分かっている。既に出ているのだ、昔から。


『英雄になりたい』


───正直、もう諦めていた夢だ。だがやはり最期には、英雄になりたい、と願わずにはいられないのは己の諦めが悪いからだろうか。後悔と悲哀はこの12年の生涯で嫌というほど味わったが、今日ほど悔いることはなかった───いや、この先死ぬまで生きても、こんなに後悔することは二度とないだろう。


ならせめて───。


「───こんな己のちっぽけな人生に、どうか『終わり終止符』を」


難儀なものだ、と己の姿を嘲笑する。勝手に憧れ、勝手に嫉妬し、勝手に諦める。あぁ、町の大通りでこんな芝居でもすれば、酷い道化だと野次が上がるに決まっている。


気づけば、段々と龍の大顎の動きが遅くなっていた。もしや此れが走馬灯という奴だろうか?だが、やはりろくな思い出もない己には、その走馬灯ですら早く感じてしまう。

───あぁ、それにしても・・・本当に酷い人生だ。


記憶は穴ぼこだらけであるし、特出した才能もない。地位は平民より下の奴隷であるし、名誉なんてある筈がない。それに今思えば、英雄になりたい、勇者になりたい、と言うだけで、行動に移すことはしなかった。


本当にその夢を叶えたいのなら、全力で奴隷という運命に抗うべきだったのだ、己は。だから、己にこの最悪な結末バッドエンドは必然なのだろう。


嗚呼、だがやはりこう願わずにはいられない───


「───いずれは英で覇でたる者に」


万感の思いを込め、身に迫る『死神の鎌龍の顎』に己の身を預けた。





そして────グシャリ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る