黒龍降臨
「───いずれは英で覇でたる者に」
己の死の間際、万感の想いを込めた言葉を呟くと、身に迫る龍の牙に身を任せ、そして───死ぬ筈だった。
グシャリ。
と、吐き気を催す音を耳が捉えた。だが、特に痛みは感じない。
もしかしてもう死んでいるのではないか?と疑い耳を凝らすが、聞こえるのは己の早くなった心臓の鼓動だけ。
一定のリズムを刻みながら鼓動する心臓によって、己がまだ生きているということをはっきりと理解させられる。
───どうして・・・なぜ己はまだ生きている?
確かに己は襲い来る
だがどうだ。こうして数秒経過しても、己は黒龍の養分として胃の中で泳いではいない。いや、寧ろ先程まで己を震え上がらせ蝕んでいた覇気が、何故か今は全く感じない。
こんなことがあり得るのだろうか?
そもそも己なぞ、龍の前では只の子鼠でしかない。それゆえに奇跡なぞ起きるはずがない、そう思っていた。
───だがそれは起きたのだ、己の目の前で。
「───ッ!?嘘だ・・・」
───顎はひしゃげ、分厚い鱗が簡単に剥がれ、『
その姿はまさに満身創痍といった状態で、肢体が血に染まっていて、抉れたような肉片が辺り一帯に飛び散っている。
砕かれた街道に血が溜まり、まるで絵の具を絵画の上から垂らして描き殴ったような、そんな歪で反吐のでる光景が己の目に前に広がる。
(どういうことだ・・・一体何が起きてるんだ?)
数秒前とはまるで違う龍の様子に、思わず我が目を疑う。こんな状態になるのは、むしろ己の方であったはずだ。
だがなぜ今この状況で、最強と名高い龍が傷を負った・・・?
そもそも、龍という現実離れした存在が現れ、今まさに己を襲おうとしていたこと自体が夢だと思いたいのに、その龍が傷を負うという更に現実離れしているこの状況。
実は、既に己は地獄の底で悪魔と添い寝していて、そこで泡沫の夢を見ている、という方がまだ信憑性がある。
(ま、まぁいい!兎も角、今すぐにここから・・・)
しかし今こそ、この黒龍から“逃げるチャンス”であることに違いはない。
未だ及び腰になっている体を無理やり動かし、龍から離れようと───「君!今すぐそこから離れて!」
(・・・え?)
突如聞こえた、女性らしき人の声がそれを妨げた。
そのため当然意識は龍から女性へ注がれ、たった一瞬ではあるが、龍に向けていた警戒が薄まってしまったのだ。
───そしてそれが、己の運の尽きだった。
「GOAAAAAAAaaaaaaaaa!!!!」
爆発と見粉う程の咆哮・・・まるで己を捻り潰すかのように質量をもった衝撃波が放たれ、大気がビリビリと木霊したかのように震える。それはひ弱な存在であれば、その存在自体を否定され消滅してしまいそうなほど強烈で苛烈だった。
「あぐ・・・ガッ!?・・・」
そんなあり得ないほどの衝撃を己は間近で受けてしまったのだ。当然、叩き落とされた蝿の如く、凄まじい衝撃にただ従って吹き飛ばされていく。
───くそ・・・ま、まずい・・・ッ!
(く、口の中に薬が・・・)
小包からこぼれ落ちた薬が咆哮の衝撃と爆風で、口の中に入っていくのがわかった。
それに思わずコホコホ咳き込むが、再び体の異変に気付く。
(また震えが・・・止まら、ない?)
何故か体の震えが止まらず、体をギュッと握り締められているかのような圧迫感と苦しさがどんどん己を蝕んでいく。
それに加え、破れたであろう鼓膜がキリキリと痛むのだ。全身に出来た切り傷や擦り傷がその痛みに拍車を掛けているのだ。
(あぁ、意識が・・・)
───薄れゆく視界の最中さなか己が最後に見たのは、まるで憑き物が落ちたように、血に濡れた牙を覗かせながらくつくつと嗤う龍の姿だった。
───起。個体名“黒龍”『ヴィルヘルム』により、個体名□□□□の意識の沈黙を確認。
傷の修復を開始───
───転。個体名“黒龍”『ヴィルヘルム』の因子を取得。適合開始────
自衛のため、『
此れより、個体名□□□□の修復を開始する。
□□□
誉れ高い魔女の証である
今から六十年前に起きた
更には新しい魔術式、魔法陣をオリジナルで作成し、誰もが簡単に扱うことが可能な『
街中では彼女を勇者の再来との呼ぶ声も上がったが、彼女はそれを拒否。しかし、かえってそれが謙虚であると持て囃される始末だ。
そんな誰もが認める“天才”の彼女が生まれたのは、現世の非大戦時代から約百三十年前。
彼女はその時の公爵家の長女として産まれ、見目麗しい容姿であり、幼い頃から高い魔力の才に恵まれた。当時の常識を覆す程の大魔術を構築したこともあるという。
彼女の変わらぬ容姿も、その大魔術で不死とはいかないまでも不老の状態になっている、と噂になるほどだ。
また彼女に関しての詳細は、彼女の御付きであった、メイドの“アルフォンス=セルクレート”の記した手記が貴重に保護されている。
───『現代魔術の衰退と栄光』
□□□
「はぁ、退屈だなぁ・・・」
鬱蒼と生い茂った深い深い山林の中。そこでは鈍色掛かった館が自然とまるで同化するように聳えていた。
その威容はまさに魔女の家と言うべきか、不気味で近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
そして、そんな館に住むのは大魔女と持て囃される『サリス=フォルクス』、ただ一人だ。
サリスは陽光を反射する白銀の長髪を煌めかせながら、分厚い本がうず高く積み上がった机の隙間に顔を覗かせ、優雅に紅茶を飲んでいた。
しかしその目は決して、机上の魔道書からは離れない。
見るものを魅了する彼女の姿は、到底数百年もの年を生きる魔女には思えないだろう。
これは不老の魔法によりサリスは老いることがなく、それ故にその美しい容姿を維持し続けているからだ。
不老が故に、常人よりも時間が有り余ってしまう彼女の趣味は、新たな『
そのためか、日々彼女は退屈という名の苦痛に悩まされている。
「ん?おっと・・・ここの術式はこうして・・・」
だからこそ彼女は新しさを求める。そんな彼女からすれば停滞とは滅びであり、不変の存在は変わっていく者達に追い付けず滅びゆくだけである。
そしてそれは、彼女の掛けている不老の魔術というのも一種の停滞であり、新しきを求めるために永遠に生きる事を選んだ彼女だが、後悔は尽きない。
何故ならこの魔術は彼女ですら解除できないからだ。
それ故に、この終わらないウロボロスの輪のような人生から抜けるためには自殺するか、誰かから殺されるしかない。
そしてそれは彼女にとって限りなく不可能に近いもの。
魔術や魔法は親和性が高まれば、己に魔法への耐性が出来る───いや、出来てしまう。
そのため、元から魔力の才があり、扱う術も最高峰であるサリスからすれば、魔法とはとうに己を攻撃できない代物であり、他人から放たれる魔法や魔術も同じである。
では物理攻撃ならば、とはなるが、そもそも回復能力が高すぎて、剣で滅多刺しにしたところで、まだ肉体の再生の方が早い。
───ゆえに『死ねない』のだ。
「・・・気でも狂いそうだよ、全く」
片手にティーカップを嗜み、魔道書をすらすらと読み進めていくサリス。
ボソリと呟かれたサリスの独り言に答える者はいない。何故ならこの館に住んでいるのは彼女一人だけだからだ。
山林の中に建っているからこそ、何処か不気味なこの館だが、広い割には人の気配がないというのも、より館の不気味さを醸し出しているのかもしれない。
魔女だから孤独なのか、孤独ゆえに魔女になるのか、それは彼女のみが知ることだが、サリスの瞳には一抹の寂しさが浮かんでいた。
しかしその僅かな寂しさをひた隠すように、サリスは机上の魔道書と今日も向かい合い───「GAAAAAaaaa!!!」
「───ッ!?な、なんだ!?」
突然館の外から、空が割れそうな程の質量を持った咆哮が窓をガタガタと大きく揺らす。
気配からして、遥か上空にいるのにも関わらず、並みの飛行型魔物のソレではない、もっと強大な“ナニカ”。
その気配に気付いた山林の動物達は畏怖し、本能的に恐怖する。その証拠に、そのナニカから逃げようとする動物達の鳴き声が、彼方からも聞こえてくるのだ。
プライドが高く、厳しい生存競争を生き抜いているこの山林の魔物達がプライドをかなぐり捨て、ただ必死に逃げているという現状───しかしそんな芸当が出来る存在を、サリスは1体だけ知っている。
───『龍』だ。
それもサリスが見たことがない、かつてない程に強大な。
「・・・お、おいおい、かなり不味いじゃないか」
しかも龍の咆哮から進行方向を割り出せば、龍が目指している場所は恐らく、北東に位置するプロメサ王国だろう。
もしあんな強大な龍が人口の密集している王都にでも着陸したのであれば、一瞬で地獄絵図に様変わりするだろう。
そうなると大勢が死に、家を失い、哀しみに暮れることだろう・・・あぁ、それはだめだ。
そんな最悪な結末へ至らせるわけにはいかない。
なにより、
我ら英雄は、襲い来る災禍を防ぎ、降り掛かる天災を退け、顕現する悪を封じるために存在する。
だからこそ、英雄が目に見えている災害の種を見て見ぬふりをする訳にはいかない。
英雄とは、誰であろうと救い助ける義務がある───きっと自分の唯一の理解者だった“アイツ”もそう宣うに違いない。
なら自分は英雄に成れなかったと嘯く“アイツ”のために、やってやろうじゃないか───そんな万感の思いが籠った彼女の心の重みは計り知れない。
「あぁ・・・久しぶりの戦いになりそうだ。ふふ、楽しみだなぁ・・・」
どこか恍惚とした表情で顔を歪ませるサリスだが、そんな彼女が魔女と呼ばれる所以は三つある。
一つは、凡庸な人間が数万といようと、まだ有り余る程の『膨大な魔力』
二つは、膨大な魔力をいとも容易く操り、精密動作を可能とする『操作技巧』
そして最後は───。
「『
───空を飛ぶという不可能を可能にしてしまう『創造性』だ。
それも、平凡な人間では考えもつかないような、圧倒的な能力の差。
「おっと・・・んー、これじゃ遅すぎるから・・・翼の下に魔力の渦を作って───よし、これで問題なし!」
ただの鳥の様な翼では飽き足らず、よりコンパクトに、そしてより洗練されていく。
まるで蛹から羽化した蝶が、萎びた羽を伸ばしていくが如く進化していくのだ。
「それじゃ───
溢れ出る魔力の渦を羽へと昇華させ、大空という人類未踏の言葉と場所を軽々と塗り替える。
そう───彼女こそは幾星霜を紡いだ人々の中の英雄、大魔女『サリス=フォルクス』。
不老不死にして、不可能を可能へと転じ、希望と光を与える英雄───の一人だ。
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