第28話 ぐるり城壁の旅

 それから、何度か外庭での教習を終え、今日はいよいよ遠乗りだ。もう全身筋肉痛になることもないし、一人で乗馬できるようにもなっていた。


 今ゾフィは茶色のロバ・ホーテさんの背に揺られ、黒いロバ・ドンキさんに乗ったヤーデと連れ立って野草やそうの花咲く小道を進んでいた。


 遠乗りといっても城外に行くわけではない。ライデルヒ城はクレシカ城と違って実用的な城だ。入城した時に通った、立派な門塔のある頑丈な城壁の内側には、もう一つ城壁があった。


 中央の一番小高いところには、籠城ろうじょう用の主塔もある。最もそちらはさすがに使われたことはないそうだ。


 その城壁と城壁の間には荷馬車が通れるほどの道があった。二人が歩いているのはまさにそこであった。

 城での戦が絶えて数百年、ツヴィンガーと呼ばれるその空間は、今や家畜の放牧場や城壁内に住む使用人の子供たちの遊び場となっていた。


 えっちらおっちらと進んでいくと、城壁に小さなくぐり戸があり、その向こうには黒々とした森が広がっている。


 秋になれば農民たちが豚を放牧し、冬には騎士たちが鹿狩りをするのだとヤーデが教えてくれた。


 銀色狼もいるので、屈強な番犬や猟犬を連れて行かなければならない。彼らの後ろを、地面をクンクン嗅ぎながら付いてくるポティーの同胞はらからたちは、猟犬として活躍しているそうだ。


「彼の足を治してくれたんだね。ありがとう」

「いえ・・・ポティーはもう猟犬には戻れないのですか?」

「あれが、猟犬に向いてると思うかい?」


 羊に遭遇したポティーは、じりじりと距離を取りながら、ロバの陰に隠れるようにして走り抜ける。かえって器用な技だ

「あれはもう、うちの道化だと思って養ってるんだ」

そんなヤーデの言葉にゾフィは声を出して笑った。


 それから羊飼いのおじいさんに挨拶をしたり、城壁の兵士に手を振ったりして小一時間も進んだだろうか。そろそろ引き返そうということになった。

「目標は一周だね。次はもう少し遠くまで行こうか」

「はい!」


 次の約束がとてもうれしい。ロバの首を撫でてねぎらいい、仕事に戻るヤーデと別れると、護衛に守られて今日もディーネのサロンへ向かう。

 

 軽食の後は文学の授業だ。今は竜と乙女の古典叙事詩を読んでいる。とてもロマンチックな恋のお話だ。上機嫌なゾフィの後を、お気楽なポティーがついて行った。


 季節は初夏へと向かっていた。今日もゾフィはヤーデとロバの旅をしている。そろそろ城壁一周の旅も終わりに近づいていた。今二人は城の東側に差しかかっていた。


 ここは重要な場所のようで、大きなやぐらが城壁の上に突き出していた。特別に登らせてもらう。割と広くて、常時兵士が数人詰め、港や街道を見張っているのだそうだ。


 壁には敵を攻撃するための小さな穴がたくさん開いている。兵士たちに挨拶をして窓辺へと寄った。

「ご覧、海が見えるよ」

ヤーデが示した方角を見れば、眼下に広がる街並みの遥か向こうに、キラキラと光る青い水面があった。寄港する船の白い帆までも見える。


「わあ!なんて・・・大きいの!」

放射状に広がる街並み、花が盛りの小麦畑や緑色の草地、その向こうには港の街と、紺碧の海と空。ゾフィは景色の雄大さに圧倒される。


「気に入った?」

「はい、とっても!すばらしいです!」

本当にいつまでも見ていられそうな景色だ。

「じゃあ、次は海に行こうか。いや、その前にライデルヒの街を見るのがいいか」

壁際に整列している兵士たちが、微笑ましそうにこちらを見ていた。


 見張り台を降りて、南側の正門まで行けば城壁の旅はお終いだ。達成感もあったが、ロバのホーテさんと別れるのはちょっぴりさみしい。

 軽くお腹に足を当てて、早足で駆けてみる。すっかり言うことを聞いてくれるようになった。


 急に走り出したゾフィをヤーデも追ってくる。

「君は存外お転婆なんだな」

子供の頃は男の子に混じって野原も駆けていたのだ。呆れられたかな、とヤーデをうかがうと、機嫌よさそうに笑っていた。


 正門の所に戻ってくると、城へ続く細い道を再び上って行く。ロバを馬番の人に預けて館へ入った。


 「ヤーデ様!」

女性が公太子の名を呼んだ。

「・・・ナイデル嬢」

さっきまで楽しげに会話をしていたのとは打って変わって、落ち着いた声でヤーデが応える。


 そう呼ばれた女性は、裕福な家の者だと一目でわかる、きれいな綾織あやおりのドレスを着ていて、濃い栗色の髪を両耳の後ろで二つに束ねていた。結び目には高価な宝石が散りばめられた金の髪留めが光っていた。


「ナタリーと呼んでくださいませ。昼食をご一緒したくって、待ってましたの!」

口紅と同じ色で塗った爪先をヤーデの腕に添えて、男の顔を見上げた。シャラリ、と重ねた金のブレスレットが音を立てる。


「残念だけど、これから人と会う約束があるから」

ため息まじりにヤーデが言えば、ちょうどあるじを呼びに来たザックが助け舟を出した。


「殿下、皆が会堂で待っておりますが・・・」

「ああ、すぐ行く。今日は農場主たちと昼食会なんだ、もう行くよ」

「まあ、いやだ、農民となんて。殿下がわざわざなさることなんですの?」

「・・・なんだって?」

低い声音に、ナタリーが思わずビクリとする。


「トニー卿、何をしている。早くゾフィ嬢を継母上ははうえのところへ」

トニーは「はっ」と短く礼を取るとゾフィを導いた。ゾフィも小さくスカートをつまんで礼をする。振り向きざまに緑の瞳と視線がぶつかり、彼の口元がにこり、と緩んだような気がした。


「では失礼するよ、ナイデル嬢」

いつもの様にきれいな笑みを浮かべると、ザックとともに長い廊下を歩いて行った。


 ナタリーは一瞬きれいな笑顔に見惚みとれた後、苦々しい顔で男たちが歩き去った方を見ていた。

「あれはお前が悪いぞ、ナタリー。農神の愛し子たる殿下にあんな口をいて」

「パパ!」


 シモン・ナイデルは大商人で、大公領の良質な農作物や加工品を大々的に売りさばいている、大口の取引先の一つであった。収穫期を目前にノイマンとの商談にやって来たのだろう。


 娘とは対照的に、もちろん最高級の生地を使ってはいるが、黒っぽい質素な格好をしていた。細面ほそおもての顔には倹約家らしい黒く細い目とわし鼻、への字に曲がった小さな口がついている。


「もう、殿下のことは諦めなさい」

城からの帰り道、馬車の中でシモンは言った。明らかに不服そうな娘が異議を唱えようと口を開く前に、さらに続けた。

「大公家には『聖女』がいる」

「なっ、『聖女』ですって?・・・あの子ね。あんな地味な子!」

ヤーデと護衛騎士にかばわれていた、あの女。あんな貧相な子が?あの方の横に立つのですって?


「お前はうちを継ぐ者と一緒になればいい。お前ひとりぐらい、一生贅沢をさせてやれる」

いやよ、だって番頭ばんとうのペーターでしょ?あんなパッとしない男なんて。それにわたしはお妃様になりたいのよ。


 プイ、と横を向いてすっかりへそを曲げた娘を見て、シモンは深くため息をもらした。

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