第18話 いよいよディローゼン領へ

 とうとうアッシェンを出立する日となった。アリーが、「女神さまのご加護を」と言って何度も頬やひたいにキスを落とすのを、ゾフィも笑って大人しく受け入れる。


 ギルベルトがきつくゾフィを抱きしめて、護ってやれなくてすまない、と小さく囁いた。アマンダは、今日もヤーデにからんでいる。


「殿下、ゾフィを泣かせたら、不幸にしたら許さないんですからね」

「責任重大だなあ。心に刻んでおきますよ」


そんなやり取りを、ガハハ、と笑ってみていたゲオルクだったが、とうとう「さあ、そろそろ出発だ」と声をあげた。


 三年前もこうして皆に見送られて旅立った。けれど、今日は見送る方にも見送られる方にも悲壮感はない。

 アマンダやアリーの瞳は濡れてはいるが、どこかゾフィの門出かどでを祝うような晴れ晴れしさがあった。


 あの時は、不安ばかりが心を占めていた。でも今は期待と解放感、それから故郷を離れる寂しさ・・・俯いたゾフィの目からポロリと涙が零れる。


「どうぞ」アグネスがそっとハンカチを差し出した。


「ありがとうございます」受け取って涙を拭うゾフィを、アグネスは優しい顔で見ていた。


 往路とほぼ同じ旅程で、一行は再びポルテの街へ到着した。マルサレック伯爵邸には現当主、フィンセントが出迎えに来ていた。


「殿下、お帰りなさいませ」

「フィンセント、わざわざ来てくれたのか。世話になるよ」


 ヤーデとは気さくな関係らしい伯爵は、三十代半ばの、黒っぽい髪に黒味の強い青目をした、騎士然とした人で、現大公夫人の従兄だということだ。


 この街には、大公家が直接経営している商会や店などがあって、ヤーデがそこに顔を出して来る、と言って出掛けてしまったので、ゾフィは自室で夕食を取り、早めに休んだ。


 明日はいよいよ、大公国の都、ライデルヒだ。とうとうこの長い旅も終わるのだ。色々な思いが頭の中を駆け巡る。


 だが、かなり疲れていたのだろう。いつの間にか深い眠りへと落ちていた。

 

 翌朝、フィンセントと使用人たちに見送られてポルテを出発した。都市を離れると、風景は一変した。一面に緑の小麦畑が広がっていたのだ。


 ディローゼンは有数の穀倉地帯で、今の大公の代になってから、ますます収量を増やしたそうだ。


 所々に、新芽を吹き始めたブドウ畑や、リンゴやスモモの白い花が咲く果樹園がある。ゾフィはこんな豊かな大地を見たことがない。


 目を見張って窓に張り付くようにして外を眺める。なんてきれいなの!一人呟くゾフィにアグネスが微笑んだ。ゾフィははっとして、赤くなる。


「あ、ごめんなさい。はしたなかったです」

アグネスは首を振る。

「いえ、いいんですよ。わたしもこの景色は毎年美しいと思いますから」


半月ほど旅を共にして、ゾフィはこの侍女が、愛想はないけれど、実は心細やかで優しい人だということがわかって来た。


 途中、大きな農家で昼休憩を取った。この辺りの農場主で、ヤーデや騎士達とは顔なじみの様だった。


 ゴードンとディーが出迎えに来ており、マルサレックの兵は昼食の後、領へと帰って行った。


 昼食は農場が用意してくれた。塩漬け豚と野菜のスープ、ライ麦入りのパンとミートパイと簡素なものであったが、どれも素朴で美味しかった。


 ヤーデは農場主とその息子たちとワインを飲みながら談笑している。


 ゾフィはアグネスと連れ立って農場を散策してみる。冬には雪が多いそうで、頑丈そうな石造りの建物に、屋根は厚い萱葺かやぶきであった。


 鶏がこつこつと地面をついばみ、柵の向こうでは豚がブーブー鳴いている。


 飼われている犬が闖入者ちんにゅうしゃをみとめて後を付いてきた。ゾフィは犬が好きだ。寄って来た二匹をいとも容易く篭絡ろうらくすると、アグネスが感嘆の声をあげた。


 そうしている間に、出発となった。相変わらず豊かな農地が続いていたが、徐々に、黒々とした森が近付いてきた。

 

 首都ライデルヒの西側には広大な森があり、大公家の管理となっていて、狩猟や家畜の放牧、森林資源の採取に使われているそうだ。


 やがて森に寄り添うように建つ白い城が見えてきた。そびえる城にはなかなかたどり着かず、森を目指すように、緩い坂道をさらに登って行った。

 

 建物がちらほらと増えてくると、立派な門構えの城を中心点として、街が扇状に広がっている事がわかった。城門へと真っ直ぐに進む広い道を上って行く。


 街の人々はヤーデとその騎士達を見ると、気安く挨拶をしたり手を振ったりしていた。


 夕闇ゆうやみせまる頃、城門へと辿り着いた。


 石の城壁の周りには広くて深い水堀みずぼりめぐらされており、大きな門塔からは跳ね橋が架けられていた。


 塔の上の階にいる門兵に騎士が声を掛ける。何か二言三言話してから門をくぐり、城へと続く細い道を進んでいった。


 「さあ、到着だ。長旅だったから、疲れたろう?」

ヤーデが手を取って馬車から降ろしてくれた。アーチ型にくり抜かれた入り口からは暖かな明かりが漏れている。

 中に入れば、数十人の使用人が公太子の帰還を出迎えていた。


「客人を部屋に案内してあげて」

はい、と二人の女性が進み出る。


「今日はもう遅い。君も疲れているだろうから、細かいことは明日にしよう。ゆっくり休んでくれ」

礼を述べて女性たちの後に付いていく。アグネスも来てくれるようだ。


 小ぢんまりとした、しかし居心地のいい客間へと案内される。とは言っても十分に広く、小さめの長椅子とテーブル、引き出し付きの机と椅子、かわいらしい天蓋付きのベッドがある。


「ゾフィ様、これからあなた様のお世話をする者たちをご紹介致します」

ゾフィが布張りの長椅子に落ち着くと、アグネスが二人の女性をゾフィの前に連れてきた。


「こちらがノーラ、そしてサニです。御用は何でもこの二人にお申し付けください」

ノーラと呼ばれた人は四十代位で、ふっくらとしていて笑顔が優しそうだ。


 サニはまだ少女で、濃いめの肌と薄い色の髪をしており、その血が外国起源だということが一目でわかる。


 挨拶を済ますと、三人はテキパキと動き始めた。お茶と軽食を用意し、ゾフィに湯浴みを促し、清潔な夜着に着替えさせるとふかふかのベッドへと追いやった。

 

 枕元には水差しと銀色の小さな呼び鈴が置いてある。御用の際はお呼び下さい、お休みなさいませ、と口々に言い、下がってしまった。


 ゾフィもとにかく疲れ果てていたのでありがたかった。明日から新しい生活が始まる。自分にもできることを探さなくちゃ。でも今は休息だ。そう意気込んで、疲労と睡魔に身を任せることにした

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る