第16話 アッシェン領
領都南西には、年中雪を頂く山脈がある。今日の様な天気のいい日には
険しさゆえ越えることは叶わないが、その向こうは竜王国だ。かの国にとって、このどっしりとした山脈は眠れる竜なのだそうだ。
山脈からアッシェン方面に大河が流れており、灌漑水路の水源となっている。とは言っても、河からは距離があり、地盤も固かったので工事は難航した。土魔法と水魔法を使う職人達が三年がかりで完成させたのだ。
七年ほど前、アッシェンから支援の要請を受け、ヤーデとエスメラルダはこの地にやって来た。あまりにも荒涼としていて途方に暮れかけたことも今では懐かしい。
有能な職人集団がまさか三年もかかるとは。農地の耕作と作物の選定にさらに四年、やっと農業らしきものが出来てきた。
浅い春の風が、水と野を焼く煙の匂いを運んでくる。収穫を予感させるこの匂いが昔から好きだ。
芽吹き始めたカワヤナギの生い茂る
ゾフィは懐かしい顔ぶれに再会していた。マルクという一つ年上の少年で、火と風の属性持ちだったので領都の衛士の職を得ていた。ゾフィの髪を麦わらと揶揄したのはこの少年だった。
そしてもう一人はメグというマルクと同い年の少女で、マルクが領都へ出て行く時にちゃっかり付いてきて、今は
当初、メグは無理やりマルクの部屋に
領都は人手不足で、多くの人が流入しているそうだ。作付けも収穫量も増え、それに伴う産業も増えている。
今芽吹いているのは
「夏になると、一面青い花が咲くのよ。そりゃあ、きれいなんだから。それから、あの赤い花はソバよ。年に何回も採れるの。もみ
昔のようにお姉さん風を吹かせて、メグが色々教えてくれる。
「全部、タイコウ家の若様とお姫様が教えてくれたんだって、
夢見がちな顔をして「会ってみたいなあ」と口元で両手の指を組む。大公家の若様、と聞いてゾフィの胸が一瞬高鳴る。
「うん、とっても素敵な方よ」俯き、微笑んでゾフィが言うと、ハン!とマルクが鼻を鳴らした。
「お貴族様に会ったからってどうなるってんだ。嫁になれるってわけでもねえだろ。よくてせいぜい遊ばれて捨てられるくらいさ」
何よ、夢ぐらい見させなさいよ、とマルクを足蹴にするメグと、いってえな、と言って大袈裟に足をさすって見せるマルク。そのマルクの言葉になぜか胸が痛む。気付かないふりをして、仲がいいねえ、と見守るゾフィにメグが訊ねた。
「あんたはこれからどうするの?もうお城には戻らないんでしょ?」
「うん・・・」ゾフィの立場は相変わらず宙ぶらりんだ。また城に来いと言われたらゲオルク様だって断るのは難しいだろう。アッシェンにとっても自分の存在は迷惑になるだけだ。
「ここに居りゃいいじゃねえか。ゲオルク様が守って下さるさ。オレ・・・オレたちだって、いるし?」
「・・・ありがと」
仕事に戻るという二人と別れて、ゾフィは一人歩き始めた。
ゾフィにとっては見るものすべてが新しかった。ゴトゴト回る水車、水路を泳ぐ小魚、水辺に咲く名も知らぬ草花。
二年ほどアッシェンの城に住んでいた事があるが、その頃よりは随分と変わっているにしても、こんな風に外を歩いたことがなかった。勉強や礼儀作法の練習ばかりに時間を取られていた。
お城に上がってからもそんな余裕はまったくなく、その日をやり過ごすのに精一杯だった。だけど急に世界が色づき始めた。
理由はわかっている、あの人に出会ったからだ。年頃の異性とあまりかかわったことのないゾフィには、まだこの感情が何というものなのかわからない。
ただ一つ、ゾフィの心には変化が生まれていた。これから自分は変われるのではないか、今まで下ばかり見ていたけど、もっと広がる世界を、前だけを向いて歩いて行けるのではないか、と。
堤防の所まで来た。簡素な土の階段を上り、盛り上がった白い堤に立てば、農地の景色が一望できた。水を張った畑もあって、赤や緑と混ざってパッチワーク模様だ。もみ殻の小山からは細い煙が何本も立ち
冷たい風に乱された髪を直そうとして、
「そこに立っていると危ないよ。よかったら堤を少し歩かないかい?」
手を差し伸べて、降りるのを手伝ってくれる。
堤防の内側にはもう一つ小さめの堤があって、石垣で補強してあり灌木が所々茂っていた。川の水量はまだ少ない。
よく見れば、向こう側の堤の方が若干低い。そう指摘すると、フフ、と笑って、よく気付いたね、とヤーデは言った。
「万が一、水が増えた時のためだよ。街の方に水がいかないようにね。水害は怖いから」
柳の木立の中では、チュンチュンと小鳥がさえずっている。この林も水利の一つだそうだ。
色々な話をしながらしばらく歩く。アッシェン開拓の苦労話や故郷のこと、魔物や外国の話など、どれも本当に面白かった。
まだ体力の戻らないゾフィを気遣って座らせてくれる。大公家に保護されて約半月、生活も規則正しくなり大分改善したのだがまだ疲れやすいのだ。
そういえば、とゾフィは居住まいを正した。
「大公家がずっと食糧援助をして下さっていたと、ゲオルク様に聞きました。お陰でわたし達は飢えずに大きくなれました」
ありがとうございました、そう言って頭を下げる。
「ああ、いや、それは俺たちの義務みたいなものだから」
右手で耳の辺りを触って、ふい、と反対側を向く。ひょっとして照れていらっしゃるのかしら?ゾフィはちょっと可笑しくなる。
めったに見せないけれど、これは確かにヤーデが照れている時の仕草だと、ゾフィはそう遠くない未来に知ることとなる。
「それにしても、すごいです。こんな短い期間で・・・これも農神様の加護なのですか?」
「どうかな、農業っていうのはちょっとしたコツがあるんだ。土地に適した作物とタイミングのいい世話、とかね。あとは天候次第・・・まあ、これは農神の加護に頼るしかないけど。それに・・・」
立ち上がりながら言うと、ゾフィに手を差し出す。
「俺に言わせてもらえば、君の能力の方がすごいよ」
「え?」
「君は、女神マールから直接力をもらっているだろう。女神マールは誰にも加護をくれないからね。君の力は本当に
またこの人は、恥ずかしい事を言ってくる・・・本当は、ゾフィが一番欲しい言葉をくれる。
手を引かれて再び堤防の外へと降りた。冷たい風がほてった頬に気持ちいい。
「さあ、少し寒くなってきたから、城へ戻ろう」
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