明るさを教えて

らぶらら

夜は眩しい


 生まれて初めて、深夜に家を出た。


 家を出たというのはそのままの意味で、家出という訳では無い。


 ちょっと乾いた唇をひと舐めして、いつもよりもフードを深めに被り、使い古したシューズで一歩踏み出す。


 玄関から出て最初に思ったことは、空気が澄んでいるな、だった。

 月が鮮やかに夜を照らすのも、それは技術的文化が十分に発達するよりも前のことで、今では街灯や家々から漏れる薄明かりでその美しさも霞んでしまう。

 

 なんにせよ、今となっては古人がどのような月に思いを馳せていたかなんて分からないのだ。


 この国での学生の補導は二十三時から。

 そんな時間はとうにすぎている。


 だけれども、本当に警察に補導されるのか?というワクワクと、見つかってしまったらどうしようという恐怖が綯い交ぜになって歯が浮き出しそうな感覚を感じていた。

 

 等間隔に置かれた街灯と、鎮座された自動販売機の微かな照明で足元が照らされている。ただの住宅街なはずなのに、ガラスを通して見ると普段とは違う別世界に来たような感覚に陥る。

 

 いや、単にいつも出歩かない時間帯にいるからそう感じるだけなのだろう。自分自身はしゃいでいる。深夜テンションというやつだ、たぶん。

 

 夜の街というのは、驚く程に静かで、昼間、外で遊んでいる子供たちの喧騒も朝電線で鳴いているカラスの声も聞こえない。

 

 太陽光から体力を吸い取られることも無い。何だ?夜は最高か?

 いつも歩道や街路地の端を歩いている僕も、この月夜の日は堂々と真ん中を歩くことができる。ちょっと、テンション上がってきた………!


 そう思いながら中途半端なスキップをしながら駆けていった。


 「ぐえええ…………」


 結果から言おう。

 十分足らずでグロッキーだ。


 散歩ってのは、大人になってからするものだと思う。少し歳をとって、「健康に気を遣わないとなぁ」と愚痴を零したところで初めて効果が発揮されるのだ。


 そう自分の体力のなさから目を背けて、公園のベンチに腰を下ろす。

 ベンチといっても長らく使い古されているためか、座ったり重心を動かしたりするだけでもギシギシと木製の部分が軋む。ここ絶対使われてないだろ。


 郊外の公園ともなれば昼間ならまだしも深夜になると人影が見えることは無い。


 しかしながら、今更になって先刻までの自分の行いを恥じる。

 上がっていたテンションもいつとも通りのパラメーターを表示している。


 まぁ、でも深夜に徘徊する人の気持ちも少しだけなら分かった気がする。今までは小馬鹿にしていた。そんなことするなら早く家に帰って寝れば良いのに、と。


 だけれど皆、昼間の空気に飽き飽きしているのだろう。小さい頃から言われる『空気』に。家に帰れば、その空気が迫って来てしまうような気がしてならないのだ。


 することが限られてしまう家の中にはただ、朝日が登ることを待つことしか出来ない。だから時間が刻一刻と過ぎていくと知っていながらも帰れない。帰りたくないと思ってしまう。

 

 それに比べて、ここには何も無い。影すら無くしてしまうあの陽の光の下ではなく、自らに保護色のような黒々した格好をしたがるのだ。

 

 気になって、もう一度当たりを見渡すけれど、誰もいない。


「やぁ、少年。良い夜だね」


 いた。


「いぃっ………!」


 いつから、そこに?と言おうとしたら、驚きが先にきて変な声を上げてしまった。


 びっくりした。もう心臓飛び出すかと思ったよ、なんなら少しチビった。


 いやいやいや、落ち着け。

 いきなり深夜人気のない公園で知らない人に話しかけられたからってそんなに慌ててどうする。


 …………………ん?


 それは普通慌てるな。


 色々な寄り道思考をセーブして、一度冷静になって考える。

 目の前に立っている人をじっと見つめる。

 黒いパーカーに黒いハーフパンツ、黒い帽子を浅く被った………ここだけ聞くとすごい不審者みたいな格好だが、ちらりと見えた綺麗な青色の三白眼に、健康的な顔立ち、何しろ短いハーフパンツから覗く下肢に、普段女子と喋る機会のない(なんなら男子と話すこともないのだが)少年をドキリとさせる力は十分にあるようだった。


「こんばんわ、いや夜も大分耽ってきたし、おはよう、かな?」


 そう言いながら冗談気味に首を傾げる。

 

 しかしながら、こういった場合なんと返すかのが自然な流れなのだろうか。

 

 数少ない女子との会話を思い出して、検索をかけるも類似した結果は帰ってこない。そもそも、経験値が足らなすぎて、意味をなさない。

 

 しかし、目の前にいる女性に深夜、公園で突然話しかけられたということは………………これは、ナンパというやつか?

 

 元来、海の家周辺で見かけるという、男性が女性に対して恋慕目的で話しかけるやつか?昨今では逆ナンというの流行っているらしいし(流行ってはいない)有り得るのか?

 

 いや、ないな。

 

 先ほどまでの自分の思考に否定を入れる。

 仮にそうだとしたら、あまりにも場所が悪いだろう。

 

 すぐ目と鼻の先に、住宅街がある。そんなところでナンパなぞ、ムードというか、人がいる可能性なんて皆無に等しいじゃないか。くそ、また騙されるところだったぜ。『人間期待せず、諦めが肝心』と、心に刻んでいたはずなのに、こうもあっさりと揺らいでしまうとは、俺自身このレアケースに飲まれているということなのか。

 なるほど、ではこういう場合に一番ふさわしい対応は………


 「な、何が目的だ」

 

 素直に聞く!もうね、何も思いつかなかったよ。どういう状況よ。

 散々、頭の中でクールぶっても、何も表に出せないとか、陰キャの鏡だよ。あんた。

 

 すると、僕の必死の受け答えが意外だったのか、彼女は一瞬目を丸くすると、くすくすと笑いだした。


 「ふふっ、あははっ、どんなこと言うのかと思ったら、何が目的って、どんだけ正直なんだよ君は」

 

 あれ?何が違った?

 じゃ、じゃあ


 「………お、お名前は?」


 「お見合いかよ!くふっ、あーもうお腹痛い」

 

 耐えかねた様子で目の前の女性が笑い出す。

 いや、今回のはさすがにミスったって思うよ?

 ひとしきり笑い転げると、涙を拭いながら意地悪そうに笑う。


 「ええっと、何が目的か、だっけ?」


 「もう忘れてください……」

 

 項垂れるように、懇願する。

 また僕の黒歴史ファイルに新しいNo.が追加されるのか………。


 「いやいや、そうは行かないよー、それに君学生でしょ?こんな時間に外出てて良いの?」


 「いやいやいや、これはですね、別に故意的に外出している訳では無くて、若気の至りというか、魔が差したというか、はたまた、エキセントリック的なやつでして」


 めっちゃテンパった。もう変な汗出てくるし、犯人とかよくポーカーフェイスできるな。


 「わかった、わかった。別に通報しようとかじゃないよ」

 

 僕の慌てぶりに押されたのか、今一番安心出来るセリフを言ってくれる。


 「………というか、お姉さんも随分と若いんじゃないですか?」


 「そう見える?」

 

 あ、わかっちゃったよ、僕。この人あれだ、面倒臭い人だ。


 「そうですね。大変お若く見えますよ」

 

 こちらの真意を察してもらおうと少しぶっきらぼうに答えると、


 「そうじゃなくて、お姉さんに見えるって」


 意外な答えが返ってきた。


 「?そうですね、見えますね」


 「そっかぁー、やっぱそう見えちゃうかー」


 「何か違うんですか?」


 「僕、男だよ」


 「は」


 「確かめるかい?」

 

 そうやって、ハーフパンツのゴムを引っ張って、男子高校生が暑苦しい夏の日に体操服をパタパタさせるように仰ぐ。


 「い、いやいいです」


 「別に恥ずかしがらなくても良いのにー」

 

 条件反射で顔を逸らしてしまう。……いや、見てないよ?


 「さぁ、僕が秘密を言ったから今度は君の番」

 

 え、何その制度。 


 「いや、言うのほどの秘密なんてないんですけど」

 

 自分自身あまりそういった魅力のある人間でないことは知っている。僕の名前が書かれたボードには項目が少ないんだ。


 「別に無理に出さなくて良いんだよ。自己紹介みたいにさ」


 「えっと、しゅ、趣味?は、読書ですかね。といっても家に帰ってやることがないんで読んでるだけなんですけど」


 「お、終わり?」

 

 いや、そう言われてもなぁ。


 「あ、あと特技と言ってはなんですが、ピアノが出来ますね。あんま上手くないですけど………」


 「へぇ、すごいじゃん」


 「母が無理やり習わせてるって感じですけど、よく下手くそって言われますし」


 「ふーん」

 

 何かを悟ったような目で僕を見る。


 「少年はピアノが嫌いなんだ」


 「え、いや違いますよ。そりゃ小さい頃からやってて、たまに億劫になりますけど、そんなことは………」


 「じゃあ、お母さんは?好き?」


 「好きと言われると………というか、母に限らず家族って、どんな感情だって抱いたことはありますよ。好きだって、嫌いだって」

 

 感情に一定の波なんてない。いつだって揺らいでばっかだ。家族によれば、もっと激しいだろう。昨日まで仲良くしていたのに、些細なきっかけで喧嘩になって嫌いになる。そしてまたいつの間にかに仲直りして好きになる。

 

 そんなことの繰り返しだろう。


 「大人だね、少年は」

 

 そう言って微かに笑う彼の表情は、どこか儚げだった。


 「そんな少年がなんでこんな時間、外にいるのかなー?」

 

 ちくしょう。振り出しに戻ってしまった。


 「色々あるんですよ。色々」


 「ふーん」

 

 人差し指を一本立てて彼が言う。

 

 「じゃあ。一つゲームをしようか?」


 「…………ゲーム?」


 「これなーんだ」


 「へ、あっ!僕の鍵!」


 「と、財布とスマホ」


 「何してんですか!返してっ、ください!」

 

 取り返そうとして、手を伸ばそうとするもひょいっとそれら全てを躱される。背が高いのも男なら納得だな。


 「これを僕から取り返したら君の勝ち、逃げ切ったら僕の勝ち、OK?」


  そう言うと、颯爽と夜の闇に駆けていく。僕まだ何も言ってないよね?


 「ちょ、待って!」

 

 負けじと僕も走り出す。

 夜の街は静かだ。だけど却って自分の呼吸が反響して煩わしい。


 「はぁ、はぁ……」

 

 遊びにすらならないくらい彼と僕との距離は一向に縮まらない。

 思えばどんどん郊外に抜けて、辺りに緑が増えてきているような気がする。

 

 この辺りは、山々を背にして展開する住宅地だ。見上げると、後ろにある樹木が大きく顔を出す。

 

 全身の筋肉が酸素を求めて痙攣し、足が言うことを聞かなくなっていく。


 「はぁ、はぁ……本気で、走るの小学生ぶりなんですよ、はぁ……」


 「そんなんで、音を上げるなんて情けないぞ、それで天下一武道会で優勝なんて思い上がるな少年!」

 

 んなこと言った覚えはねえよ。かめはめ波打てるようになって出直してこいってか?


 「というか…………早く返して下さいよ………」


 「なんだい、まるで私が君を連れ回しているみたいじゃないか!」


 「事実です!それに返して欲しいのは僕のスマホと財布です!」


 「これは?」


 「……鍵も返してください!」

 

 イラッとするな、この人………。

 

 それにしてもこの場所、ちょうど山の頂上の辺りになるか。


 「ふっふん!君も気がついたようだね。どうだい、この景色!これを見たらどんな悩みも小さく見えるだろ?」

 

 そうやって、彼を背にして見えた星空は、はっきりと各々の役目果たすかのように、輝きを放つ。


 「良いのだよ?褒めてくれたって、崇め奉ってくれたって」

 

 うわぁ、目に見て分かるように調子乗ってるよ。この人。


 「僕、この場所知ってますよ、結構来ますし」

 

 そう。実は知っている。知ってしまっている。

 

 なんならここを極めたと言っても良いだろう。小さい頃に父親に連れてこられて以降、ここは僕の絶好のロケーションとなっていたのだ。近場且つここまでの星空を眺められる場所は早々にない。


 「え」


 「というか、ここ知ってる人っているもんなんですね。穴場だと思ってたんですが」

 

 自分だけが知っていると思っていたことが実は周囲の事実だったってことあるよね。

 となりの芝生はなんとかって、それは違うか。


 「え」


 「ほら、こっから見えるあれが僕の通ってる高校なんですよ、ちょっと古いですけど」


 「え」


 「悪かったんで、良い加減機嫌治してくださいよ………」


 「まじかー、これで迷える少年の心をキャッチする作戦が………」

 

 なんだよ、それ。というか、あんた男だろ。気持ち悪い。


 「いや、ほんとどうしよう。んー、…………よしっ、飛ぶか」


  悩んだ様子で、数刻首を傾げていると、何か思い立ったように片足を柵にかけると、おもむろに僕を抱き寄せて大空に飛び出した。


 「え?ちょ、ちょ、ちょっと!!」


  やばいよこの人!まさかの自殺志願者だったとは、なんかやばい人だとは思ってたけど。


 「目を開けろよ、少年!!」


 「……へ?」


  ………死んで、ない?

 

 飛び降りたはずの地面は一向に衝突せず、重力も襲ってこない。文字通り宙を飛んでいた。


 「そんな目を細めても何も変わらんよ」

 

  励ますように彼が言う。


 「するなら上を向けよ、上を」

 

 言葉につられて見た景色を僕は忘れないだろう。


 満点の星空が届きそうなところまで来ていた。

 雲ひとつなく、それは今まであの山の頂上で見たどんな景色よりも非日常じみていて。星というのは、一件近そうに見えていても、実は何万光年も先の彼方に存在するという。


 確かにそうかもしれない。距離で見ればたった数百メートル、いつもより近づいただけ。星への距離を考えれば、その千分の一にも満たない些細な出来事。ただ、それでもこの些細な距離は、僕には輝いて見えた。


 「君が何を思っているか僕には分からないけれど、悩んだのならば、下を向いても、上を向いても、どちらでも良い。ただ上を向きたいと思ったなら、僕の元へ来なよ。世界で一番、腐るほど上を向かせてやる、いかすだろ?」

 

 そうやって、こちらへウインクする。傍から見たそれは、一枚の絵画のように誰もが美しいと感想を述べるだろう。男だが。


 「はははっ、くくっ、ちゃんとお悩み聞いてくれるんだ」


  ちょっと、吹き出した。

 あまりにきざっぽいセリフと、案外真面目なとこがドツボにGOだ。


 「なっ!?僕だって励ましの一言くらい言うわ!何か?足りなかったの?」


 「いや、もう十分もらったよ」


 「そんくらいで、満足しちゃだめだぜ少年。このまま大気圏までひとっ飛びだ!!」


 「良いですね!」

 

 ここまで来たなら、どこまでも飛んでいきたい。気分がハイになっているのもあるだろうが、気にはしない。


 「いや、ちょ、待って君、意外と重いね」


 「夢持たせといて早速崩すなよ!というかデリカシーがない!」


 「乙女みたいなことを言うな君は。………やばい、ほんとに落ちる」


 「まじで?」


 「…………」


 「いや、黙んなよ」


 「ごめん」


 「ごめんじゃ、ねぇえええええ!!!!」

 

 すると、浮遊力を失った体は、重力に引き付けられ、高速で落下を始める。

 人生初のスカイダイビングがパラシュートなしなんて、最悪だろ。


 大きな水しぶきを上げて、水面に打ち付けられる。前にテレビで飛び込みの世界ギネスについてやっていたが一体何メートルだっただろうか。


 「………っぷはぁ!はぁ、はぁ………」

 

 落ちた先が学校のプールで良かった。

 水面にぶつかった衝撃も忘れて、僕はプールの中で必死にもがく。

 

 「ごめん、僕泳げないや。助けて少年………」

 

 置いていけないかな、この人。

 

 ――――――数分後。


 「危なかったねー、少年」


 「危ないどころじゃねぇよ、危うく死にかけたわ」


 「ふふっ、あはははは」

 

 突然吹き出したように笑い出す、何?


 「君気づいてないかもだけど、口調変わってるよさっきから」


 「え、あっ!」


 「そっちの方が良いんじゃない?素でしょ」


 「そっすかね」


 「さすがに、帰ろう。もう日が明ける」

 

 微かに山の頂上から光が出ている。あと一時間もすれば朝だろう。


 「またね!」

 

 そう言って、大きく手を振りながら、別方向に彼が歩く。

 スマホ?何それ。ずぶ濡れで帰ってきたよ。ぜってえ許さん。

 

 彼女はああ言ったけど、また会うかはわからない。

 

 また今日みたいに走らされては堪らないし、名も知らない彼女、いや彼に会う義理もない。だけれども少しの消失感を覚えながら、暗い一本道を体を引きずるようにして歩く。


 そっからの帰り道は体がひどく重かった。

 

 そりゃ、普段走らない帰宅部が全力ダッシュしたんだから、当たり前だけど、なんだか心は軽かった。

 

 段々と荒かった呼吸が整っていくにつれて、曇り空が晴天になっていくように日が差して自分の影が伸びていく。

 

 昨晩、いや今夜の出来事を思い返しては、頭の整理が思うように働かず、虚ろ虚ろとしている。……まぁ、ずぶ濡れになった自分の姿を、道行くジョギング中の人に見られるのも随分と非日常なんだが。

 

 ただきっと、僕が今日見た日の出は、昨日の僕が見た太陽よりも明るいんだろうな。

 

 

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