第122話 隣にいるのは
梅雨特有の質量以上にありそうな重たい湿気は、微妙過ぎるもどかしい気温と相まって早々に不快にさせてくれる。
ただ、これぞ仲夏と言うべき空気も川沿いになれば様相を変えてくれるものだ。
迎えのために庵が待ち合わせ場所にした緑地公園は、目の前の川から送られるひんやりとした風によって本来の心地良さが顔を出していた。
ジョギングコースに植えられた何本もの欅がさやさやと揺れる中、フェンスに手をかけもたれていれば、なんとも穏やかな気分に浸れる。
その風流さに身を任せてしみじみと対岸の夜の街を眺めながら待っていると、聞き慣れたというか待ち侘びた軽やかな凛とした声で名前を呼ばれた。
「庵くん」
車道方面の階段から降りてきた明澄はやや遠目からでも庵を見つけたらしく、手を振りながらこちらへ歩いてくる。
その後ろでは澪璃と葵の二人がタクシーの中と騒がしそうなやり取りをしているのが見えた。
「おー。お疲れ様」
「はい。庵くんもお迎えお疲れ様です」
「誕生日二日目だしな。ご機嫌でいて欲しいものでして」
「しれっとパワーワードで話さないで……いやある意味二日目ですね」
「おめでたいことくらい二日あっても良いだろう? というか、俺が早く会いたかっただけだしなあ」
「……え、あ、もう。またそんなこと……っ」
お互いにだが少々ふざけるのが好きというのもあって、庵はいつもおどけるので、伝えることは伝えておこうくらいの気持ちだった。
ふざけた最後に本音を零すと、明澄がぱちぱちとしばばたかせてから、ほんのり睨むようにしたが、ぱっと頬を朱色に染めながらすぐに目線を下げる。
「あー。うざかったか? ごめん、調子に乗った」
「そ、そう言う訳じゃ、ないん、ですけど、ね?」
「別に本音でいいぞ」
「最近はちょっとストレートなので、こう、処理が追いついてない……とだけ」
顔を上げた明澄はふるりと首を振って否定したが、困った様子でまた顔を下げる。
素直ではない性格と自覚しているから、心の内を開いたつもりなのだが、開き過ぎたのか言葉を選び損ねたか。
不快にさせてはいないようだから、大きく間違えてた訳では無いと思う。
加減が分からないのでこの辺りは慣れていくしかないのだろう。
そんな分析を思考に含んだ庵が悩む素振りを見せたからか、明澄はそっと寄って「でも嬉しくありますからね」とはにかんでみせた。
こういう気遣いに関しては明澄の方が上手いし、ずるいなぁと思う所だ。
「や、お二人さん。相変わらず仲良さそうで空気が甘いね」
「そりゃあ、愛が変わらずだからだよ。なぁ二人共?」
会話が聞こえたのか、タクシーから降りてきた澪璃と葵がによによとしながら寄ってくる。
ただ、「でぇ? いちゃいちゃなに話してたの?」と澪璃が興味を示したので、聞こえてはいなかったらしい。
「今日の話だよ。それと、二人共お疲れ様。いいライブだった。葵さんも明澄を送ってくれてありがとうございます」
「いやいや、構わないさ。このあとお店行くついでの近くまでだけど」
成人組は後日の打ち上げとは別にこの後に飲みの席を設けるようで、葵は高校生組をタクシーで送り届ける役を担っていた。
徒歩は兎も角、タクシーなら二人だけでも問題無いとは思うが、「大人だからね」とウインクしてくるあたり責任感が働いたのだろう。
「さて、一人送ったしそれじゃ私らも戻るか」
「待って、もうちょっといちゃいちゃ邪魔したい気分」
早々に身を翻そうとする葵に対して、澪璃が「えーっ」と駄々をこねる。
「何言ってるんだクソガキ。そんな事したら叩かれるわ」
「誰に?」
「そりゃあ……まぁ、誰かにだよ。兎も角、夜も深くなるしお前も駅まで送ってくから」
「しょうがない。三人でいちゃいちゃしたかったけど、帰るか。あと姫ちゃん待ってるしね」
「あ、伊東さんいるの? 挨拶くらいしておきたいけど」
「いやいや、こっちに来なかったの、二人が一緒に揃ってるの見たら倒れる自信しかないからだってさ」
本日一番疲れたであろう姫乃を労っておこうかと思ったのだが、逆効果になりそうだ。
先程葵たちがタクシーを賑やかしていた理由が垣間見える。
「さて、じゃあまたね。今日は楽しかったよ」
「また、みんなでライブやろうな」
「ええ。またやりましょう。葵さんも色々ありがとうございました」
ポンと、明澄の肩を叩いた澪璃とカラッとした笑顔でサムズアップした葵に、明澄は頭を下げる。
三人の友情とも言うべき光景だが、ファンやリスナーだと見られないだろうから、庵はちょっと得した気分で眺めながら二人を見送った。
「さて、ここからはいおりんに任せるよ?」
「おう。またな」
よろしくね、と去り際に澪璃が半身だけ振り返って、手を上げてほんのり寂しく笑う。
幼馴染みに近いくらいの親友を傍で見守ってきた分、明澄の成長と変化は庵以上に感じ取っているのだろう。
あれでいて澪璃も澪璃で不安定な明澄の世話を焼いてきたはずだ。
今日のライブは彼女にとっても、岐路だったのかもしれない。
そう確信させるのは後日だが。
「私たちも帰りましょうか」
「ああ。それだけど悪い。なんだかんだ喋ると思ってたから、タクシーは一旦帰してるんだよな」
「あら、そうでしたか」
「だから、もうちょっと風に当たらないか? ほら、景色も良いし」
自分たちの事だからぐだぐだとすることも考えていたので、タクシーには待たせたら悪いと思ったのだ。
アプリからボタン一つで新しく呼び直しつつ、庵は対岸のビルやマンションから漏れる明かりの夜景を指差した。
「それはいいかもしれませんね。庵くんに言いたいこともありましたし丁度いいです」
「小言では無いことを願うぞ」
「そんなのは家に帰ってからです」
「あるの?」
「さぁ?」
まぁ、いいじゃないですか、とはぐらかす明澄に怖がらされる。
茶化したのは失敗だったと、後悔しつつ悪そうな笑みを浮かべた明澄と二人でフェンスにもたれた。
「で、なんだっけ?」
「まぁ……言うのは恥ずかしいんですけど、今日でようやく庵くんの隣に立てたような気がしたという話です」
「寧ろ俺の方こそ明澄の隣に立ててるか不安なことが多いけどなあ」
「いえ、人としての中身や出来の話ではなく、気分の問題です。そもそも庵くんは立派ですけど」
「そうなの?」
「だって、ずっと私は自分が何をしたいのか誰なのか分からないまま過ごして来たので、あのライブでちゃんとみんなに言葉に出来たなぁって。それで、氷菓はかんきつ先生に、私は庵くんに追いつけたと思ったんです」
もう最近は明澄と氷菓で必要以上に区別は付けたりしていないから、本当に気分の問題だったのだろう。
庵もライブの時にあれで区切りを付けるという意図には察していたし、百万人という節目も新しいスタートを後押ししたはずだ。
頑張ったな、とは口には出さず「そうか」と労るように明澄の頭をとんとんと撫でれば、明澄は気持ちよさそうにしながら身体を寄せてきた。
それから、手のやり場を元に帰そうとしたところ、下に目を向けていないのもあって明澄の指が少し彷徨ってから、庵の手を捕まえる。
おっ、とちょっとびくりとしたが、にっこりと笑う明澄の「良いですか」という事後報告に頷いた。
「だから、こうして気後れせずに手を繋げるんですよね」
「それは確かに。俺も付き合うまではなんか悪い気もしてたし」
「ふふ、一緒ですね。最初は慰め合いというか不器用な甘えみたいなところがありましたけど、途中からは恋愛感情を隠して庵くんに触れてましたから」
悪いやつでした、なんて明澄は決まり悪そうに笑ってに白状する。
あれだけ共依存みたいな関係性を保ちながら遠回りしたのだ。どこかそんな気はしていた。
庵に至っては、春休みから明澄への恋心を自覚していたからよっぽどだ。
「そうだ、いつから俺の事好きになったんだ?」
これはいずれ聞いておきたいと思っていたし、庵も告白の時にある程度明かしたとはいえ、全てでもない。それは明澄も知っているところだろう。
聞く機会がなかったので庵はここぞとばかりに尋ねてみる。
「えー、恥ずかしいですねぇ。どうしよっかなぁ」
照れながら悩みつつも、焦らすような言い方で明澄は、フェンスに置いた手に傾けた顔を寝かせて庵を見やる。
(これは言う気ないな)
「聞きたい。駄目か?」
「ひ、卑怯ですよその顔は。……ほんと、ふとした時だったんですよ。あれは、」
小賢しいとは思いつつ、眉を曲げてねだるように小首を傾げてやれば、それはもう効果抜群に発揮する。
呻くように明澄はずるいと言いたそうにしながらも、話し出した――のに「やっぱり恥ずかしいですっ」とすぐに辞めてしまった。
「言い出して辞めるのが一番悪いやつだぞ」
「あはは。まぁ、いつか話してあげます」
「今聞きたいんだけどなぁ」
「楽しみにしておいて下さいな。あ、ほら。タクシー来たんじゃないですか?」
庵のスマホがポケットで震えたのを見て、明澄が車道の方に目を向ければ、ちょうどバス停の近くでタクシーが一台停車していた。
名残惜しいが流石に夜景の鑑賞会もお開きだろう。
手を繋いだまま欅の公園を抜けて、タクシーの元へ向かう。
それから、乗り込む際に明澄がくいと袖を引っ張ってくるので、なんだと思って顔を向けると耳元に唇を寄せきた。
「ね。庵くんも、いつ私を好きになったとか理由とかも聞かせてくださいね」
不意な耳打ちはどきりとさせられるには充分だ。
どう返そうかと迷った後、嘆息して一言だけ発する。
「そういうところ」
「え? なんです? ちょっと詳しく……」
ぼそっとバラしたが、短くて含みがあるので気になりすぎるのは当たり前だ。
明澄が食いついてきたが、「いつか話してあげます」と先の意趣返しをしてやれば、明澄の頬が膨れた。
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