第116話 溶けて蕩けて

「改めて。明澄、誕生日おめでとう」


 夕食を済ませいつものティータイムになると、今日は甘さが添えられた。

 純白のケーキをダイニングテーブルまで運んできた庵は、にこりと笑って明澄を祝った。


 ロウソクの火をつけたり消したりしている間にアイスケーキが溶けそうなので、特に飾り付けはしていないそのままのケーキだが、明澄の千種色の瞳は喜ぶように光っていた。


「ありがとうございます。……ふふ、今日はこれで三回目ですね」


 慈愛に満ちた表情をたたえて明澄は、天使のように微笑む。


 朝昼夜、と明澄は沢山祝われていたが、明澄の家族関係や交友関係を思えば初めての事なのだろう。その喜びは何度目でも薄く感じることはない、とばかりに一日中表情が明るかった。


 なんなら楽しさで言えば、ケーキが姿を見せている今が一番かもしれない。ダイニングテーブルでケーキを皿に切り分けて明澄の前に差し出すと、その眼が一層輝いたように見えた。


「ほい」

「わ……中をオレンジにしてくれたんですね」

「おう。柑橘類好きだろ?」

「すっかりバレちゃってますね」

「メシを作り始めてからずっと明澄の好みを探ってたわけだし。つーか、半年も一緒にいれば、な?」


 身バレ事件以降、夕食を作り合ってきたこともあって、好みは互いに大体把握しつつある。

 小さく笑って言う明澄に、同じように笑い返した。


「あの時からそんなこと考えてたんです?」

「まぁ、作る側だし感情なんて関係なく、美味いと思って欲しいもんなんだよ」

「庵くんには料理人の血が流れてるんですねぇ」

「料理人の孫だしな」


 共働きで忙しい親に代わって祖父母が近くにいた庵は、作法や技術だけでなく、料理人としての精神的なものもよく学んだ。


 どうすれば相手が喜んでくれるか、というのは料理関係なくいつも考えていて、それが明澄の誕生日を祝うことにもつながっているのだ。


「そう言うわけで、溶けないうちに美味しく食べようか。飲み物持ってくるわ。誕生日だし高級なやつにしよう」


 小サイズのホールケーキだが一回では食べきれないので残りを冷凍庫にしまうついでに庵は、キッチンで準備しておいたティーセットのポットから紅茶をカップに注いで、またダイニングテーブルに戻って来る。


「そんなにお高いんですか?」

「なんとお値段、一缶五千円するぞ。イギリスの老舗紅茶メーカーのやつで、種類はダージリンで等級がティッピー・ゴールデン・フラワリー・オレンジペコなんたらってやつ」

「本物中の本物じゃないですか。そんなの頂いていいんですか? ケーキもそうですけど、贅沢過ぎじゃありません?」


 明澄は紅茶をジャンピングさせて淹れるくらいだし、概要を聞いただけでなんの紅茶なのか、ある程度特定出来たのだろう。

 ケーキの隣にティーカップを並べる庵に向かって明澄は、遠慮がちに言いながらやや困惑した表情で見上げてくる。


「いいんだよ、今日くらい。この世に生まれたことが一番贅沢なんだから。それを祝うのが誕生日だし、豪華に行こうぜ」

「折角、庵くんが用意してくれたものですもんね」

「そうそう、遠慮なく貰っとけ。お前は何も言わないとすぐ遠慮するからな」


 素直に受け取るのも美徳の一つではあるし「明澄が喜んでくれるのが俺は一番だよ」と、席に着きながら流し目を送ると、明澄は柔らかな目つき向けたまま小さく頷いてから、ケーキと紅茶に手を合わせた。


 カチカチに凍っていたケーキは、良いくらいに溶け出していてちょうど食べ頃。

 二人一緒にフォークを手に取った。


「じゃあ、遠慮なくいただきますね」

「おう。いただいちゃってくれ」


 そう庵が笑うと、明澄は仄かに溶けているケーキの先をフォークで丁寧に切り取り、ゆっくりと口に運んで味わうように咀嚼する。


 ともすれば明澄の表情に変化がすぐに訪れた。その冷たさにきゅっと目を閉じて反応したあと、甘いケーキの味に口角を緩める。

 それから、ティーカップとソーサーを手に取り、冷えた口の中を温めるように紅茶に口をつけていた。


 庵も反応を見ながらケーキを食べようかと思ったのだが、可愛らしくケーキと紅茶を楽しむ明澄を見ていると、手は止まったままだった。


 一種の小動物を見守る感覚に近いだろうか。甘さに綻ぶ明澄を見つめながら、また庵も別の意味で表情を綻ばせた。


「美味いか?」

「ええ、とっても。……? 庵くんは食べないのですか? 溶けてますけど?」


 有名店のものだから味は心配していないが一応尋ねると、明澄は瞳をまぶたで伏せて静かに、それでいて喜色を声に乗せて感想を伝えてくれた。

 ただ、庵の手元でひっそりと溶けているケーキに気付いたらしくこてんと首を傾げる。


 アイスは溶かすタイプなんですか、と純粋に聞いてくるのだが、手を止めていた理由が理由なので庵は僅かに眉を八の字にした。


「明澄が美味しそうにしてたから、つい見守ってた」

「はぁ……? まぁ庵くんが良いのならいいですけど、美味しく食べようって言ったの庵くんですからね? そこでのんびりしてるなら食べさせちゃいますよ」


 訳のわからないことを言い出した、と言いたげに細めている瞳を隠すことなく庵に向けてから、明澄はフォークを立てて軽く振りながら悪戯っぽく付け加える。


「……いや、いい。ちゃんと食べるから」

「遠慮しなくてもいいんですよ?」


 恋人に食べさせて貰えるならそれは望むシチュエーションではあるが、羞恥おまけが付いてくる。

 動揺はしなかったが、明澄のフォークに目が行ってしまうので少し顔を背けた。


 この調子ではだいぶ先になりそうな事が色々ありそうだ。

 遠慮してるのは俺の方かもしれん、と自分の情けなさを内心で自虐的に笑いながら、ようやく庵はケーキを口にする。


 襲いかかってきた甘さはきっと誰かさんの所為もあるだろう。ストレートで淹れた紅茶を飲まないとやってられないくらい甘かった。


「大体、明澄が可愛いのが悪い」


 一口ケーキを味わったのち、ぽつりと零す。


「あ。また、私のせいにするんですから。打ち合わせの時もそうでしたし」

「知らん」


 ぷくう、と明澄は淡く色づかせた頬を膨らませるが、庵は素知らぬ顔をしてまた一口ケーキを運ぶ。


 甘い。とにかくケーキが甘い。

 オレンジも沢山入っているはずなのだが、酸味が行方不明だった。


 ちら、と密かに明澄へ目をやると、彼女もまた甘そうにケーキを食していた。

 綺麗な所作ではあるが、特段の甘味を感じて緩んだり、冷たさに震えていたりと、やっぱり可愛らしさが勝つ。


「やっぱ可愛いな、お前」

「また、すぐそういうこと言う……可愛いって連呼するの、嬉しいですけど、控えないとこのケーキみたいになっちゃうじゃないですか」


 天然たらしが出てます、と明澄は文句のつけるかのように言うが、ふやぁと上に曲がる口の端は誤魔化せていない。


(なんだこの可愛い生き物)


 言葉の割に表情が一致しておらず明澄は、すました顔をしながら構って欲しそうに寄ってくる猫みたいになっていた。


「はいはい。そん時は食べてやるよ」

「え、……? あ、あの、そ、それは困ります……」


 特に考えずに呟いたものだったが、たちまち明澄はぽふっ、と音を立てそうな勢いで耳まで赤くして、消え入りそうな声を漏らした。


 昨日までなら兎も角、もう明澄とは交際関係にあるし、今のは現実味が帯びたセリフだっただろう。


 怖がらせたりしたくはないので「冗談だぞ? ごめん」と、恐る恐る明澄を伺うと、明澄はおろおろとしながらもゆっくりと首を振りつつ、微笑した。


「……冗談じゃなくてもいいですけどね。……付き合ってますし」

「じゃあ、めちゃくちゃ言う」

「それは駄目です」

「可愛いとか綺麗とか好きとかは?」

「……きょ、許可します……」


 ぷるぷると肩を揺らしながら答える明澄を見ていると、やっぱり構い倒したくなる。

 これくらいの冗談なら許してくれると分かったので、ここぞとばかりに揶揄いにかかることに決めて庵は、悪い笑みをした。


「うん。可愛いな。これは食べ頃だなあ」

「……庵くん!?」

「ん? ケーキのことだけど?」

「〜っ! ばか……!」

「悪い、悪い。でも、揶揄いたくなるくらい」


 弁解は最後までは言わせてくれなかった。

 明澄が急に立ち上がり、ぷすっと自分のケーキをフォークで突き刺したかと思えば、そのまま正面からアイスケーキが迫って来たからだ。


 うるさいです、と真っ赤になった明澄に無理やり、溶けかけのケーキを口に突っ込まれて、何も言えないように庵は口を塞がれた。

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