第71話 踏み出す聖女様

「今日の庵くんはモテていましたね」


 夕方、自宅へ戻ってきてから二人でマグカップを片手に寛いでいると、隣に座っていた明澄がそう言い出した。


 柔らかな笑みで口にする明澄に対して「そうかなぁ」と庵は紅茶を啜る。


 ある意味ではモテてはいるのだろうけれど、明澄が言うモテるの意味は恐らくそうではないはずだ。

 彼女たちに話してみたいと言われても、それがモテているということに直結するとは庵には思えなかった。


「そもそもなんで俺だったんだろうなぁ」

「多分ですけど、庵くんに話し掛けやすそうな雰囲気が出てたからだと思います」

「そうか?」

「だって、庵くんて春休みが明けた頃から、前よりも優しい表情を浮かべていますし。素っ気ない感じもなくなりましたので」


 これまで過去のことから人との交流を避けてきたが、明澄に打ち明けたり澪璃と会ってからは、庵も頑張ろうと努力している。


 出来るだけ優しく接しようと思っているので、それが実ったのなら嬉しいとは思う。

 そうだといいな、と庵が呟くと、明澄は「そうですよ」と祝福するようににこやかに笑ってくれた。


「でも、なんだか寂しくはありますね」

「なんでだよ」

「だって……庵くんが遠くへ行ってしまいそうな気がしますし」


 眉を困らせて苦笑した明澄はそっと庵の袖を掴む。


 あの時、庵が他人を信用出来るようになるまでそばにいると明澄は言ったけれど、庵が成長していくということは、そこから離れていくことを意味している。


 庵は庵で一人にしないと約束したのでそんなつもりはないし、好意を抱く相手から離れたいなんて考えることすらない。

 ただ、明澄は庵の考えを知る由がないので、不安に思うところがあるのかもしれない。


 袖を掴んでいる明澄に「約束が果たせるまではどこも行かないから」と庵が微笑みかけると、明澄は座り直してちょっとだけこちらへ寄ってきた。

 寂しさからくるものなのだろうけど、寧ろ庵には明澄が寄り添ってくれているような気がして、とてもドキドキされられる。


 お互いに一人ではない、信用出来るまでそばにいる、と誓ったあの約束を確かめ合うように、しばらく二人は無言のまま肩を寄せ合って過ごした。


「あの。少しだけお話があります」

「うん」


 少しすると、明澄は徐ろに何かを決意したような瞳で見上げてくる。

 直感で大事な話だと気付いて、優しく背中を押すような口調で明澄の次の言葉を促した。


「……私も頑張ってみます」

「何を頑張りたいんだ?」

「色々です。いっぱい、いっぱい頑張りたいことがあります」


 ぽしょりと言ったかと思うと、明澄は庵の頬を両手で包んで視線を合わせながら噛み締めるように口にする。


 必然的に近づいた明澄の顔やその手の感触にどぎまぎとして、直視出来なくなりそうだった。

 明澄は直ぐに手を離してしまったが、何故か視線を逸らせなかった。


「いっぱいか」

「はい。いっぱいです。庵くんにもっと信頼してもらいたいです。だから、配信やお家、外でも庵くんに遠慮なんてしません。これからは遠慮しないことを頑張ります」


 明澄を支えられるようにと、出来るだけそばにいるようにしていたつもりだが、まだ遠慮させていたらしい。

 自分の理性が暴走しないようにある程度の線引きはしていたから、庵との距離を感じ取った明澄に遠慮をさせていたのかもしれない。


 もしそうであれば、すぐにでも甘えたり寂しいのなら求めたりして欲しいと思って、庵は「今、頑張ってもいいんだぞ?」と促してみる。


 すると、それは想定外だったのか明澄は「い、今ですか…?」と焦りながら顔を赤らめ視線を泳がせた。


「そう、今」

「え、ええと。じゃあ……少しだけぎゅっとしてください」


 明澄はおずおずと、か細くて消え入りそうな声と上目遣いで切り出す。

 口にしたあとはかぁーっと耳まで朱色に染めながら、「む、無理でしたら良いんですけど」なんて視線を逸らしていた。


 そんな仕草で寂しそうにされたら断われなかった。

 なんなら、これまで何度か衝動的に明澄を抱きしめかけている。

 明澄が良いと言ったのだから合法になるし、躊躇う理由はどこにもなかった。


 隣にいた明澄をそっと抱き寄せると、庵に包まれた明澄はふにゃふにゃに溶けたような笑みで、「あったかいですね」と胸元に頭を預けてきた。


「聖女様、他になにかすることはありますかね」

「そうですね、オフコラボ……とかしてみます?」


 オフコラボがお望みらしい明澄は躊躇いがちに言って、庵の反応を怖々と窺う。


「明澄がいいなら」

「もちろんです。でも、庵くんがデビューした後になると思いますけどね」


 今までオフコラボは怖くて避けてきたけれど、明澄は一つ前に進もうと少し踏み込んだのだろう。

 そんな明澄の大切な決意と小さな好意を受け取った、庵はほんのりと微笑を浮かべて頭を撫でてやる。


「他には?」

「いまはこれでいいです。いっきにすると疲れちゃいますし、勿体ないですから」

「ん……ゆっくりでいいよ」


 明澄が進んでいけるペースや出来ることのキャパシティはここまでのようだ。庵も無理はさせないようにと気遣う。


「だから、もう少しだけこのままで……」

「はいよ、仰る通りにしますよ」


 明澄が一歩一歩踏み出していく様を見つめながら、庵は彼女のお願いに答えて腕を背中に回した。

 ぎゅっとする腕や手は明澄を温かく包み込み、また明澄も甘えるように頭を押し付けてくる。


 歪にも思える明澄との共依存的な関係だが、庵はひっそりと胸の内で少し前進したような気がした。 

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