第72話 聖女様とマグカップのこと

「明澄、かんきつの2Dモデルが完成したよ」


 夜々たちとのコラボを控えた前日、庵は仕事部屋から出るなり、キッチンにいた明澄にそう声を掛けた。


 たった今、2Dモデルの制作を依頼していたモデラーから連絡が来て、納品が完了したのだ。

 これはいち早く明澄に伝えねばと、庵は嬉しそうにしながら部屋を出た次第だった。


「おめでとうございます。庵くんもようやくデビューが出来ますね」



 庵から報告を聞いた明澄はにっこりと笑って、エプロンを脱ぎながらリビングのソファにやってくると庵の隣に座る。


 そこは春休みが明けてから明澄の定位置だ。

 一緒に飲みましょう、と明澄が持ってきたマグカップを受け取りながら、少しこそばゆくも庵も受け入れている。


「おう。これで色々とできるようになるな」

「お絵描き配信とか二人分の視点でゲームも出来ますし。あと……オフコラボ……とか」


 隣でこれからするであろう配信の内容を明澄は指折り数える。

 最後にちょっとだけ小さな声になりながら庵をちらりと見上げてもうひとつ指を折った。


 それだけ楽しみにしてくれているのだろう。

 最近の明澄はスキンシップを躊躇わない。オフコラボなら配信中でも一緒にいられるし、孤独感が消えていいのだろう。


 庵としても想いを寄せる相手といられる時間が増えるのは嬉しい。初配信からでもオフコラボをしたい気分だった。


「とりあえず、初配信は一週間後ぐらいかなぁ。かなり準備したし、いけるだろ」

「私もお手伝いしますから大丈夫でしょう。それで、いつ頃オフコラボをするかという話なんですが……」

「気が早いって。まずは何回か配信をしないとな。オフコラボする為に配信者になったと思われるだろ」


 まるで明澄の頭の中にはオフコラボのことしかないように見えて、そんなにしたいのか、と庵はクスッと笑みを零す。


 温かい目つきをしている庵に気付くと、舞い上がっていた自分に恥ずかしくなったのか、明澄は顔を赤くしてクッションに隠れた。


「だって、遠慮しないって言いましたし、寂しがり屋なので……」

「寂しがりってよりは、甘えんぼに見えるがな」

「ひとこと多いです」


 ほのぼのと優しい目つきで撫でてやると、明澄は肩をぐーでぽこりと殴ってきた。

 ごめん、ごめん、と庵が謝ったら「寂しがり屋だから甘えんぼになるんです」と明澄はぽしょぽしょと言って、きゅっと唇を結んでいた。


 前と比べて雰囲気が随分と柔らかくなってきたとはいえ、まだこれまでの寂しさを埋めようとしているように見えた。

 一人だった明澄には頼れる友人が少ないし、こうして甘えられるのは庵だけだろう。


 だから、もっと甘やかしたいと思って、明澄の頬をなぞるように髪を梳くと、明澄は「んっ」と声を漏らした。

 いつもは頬を撫でたりしないので、驚かせてしまったのだろう。


 声を上げはしたけれど、ほどなくして明澄は何も言わず庵の好きにさせてくれる。猫科動物のようにごろごろと喉を鳴らしはしないが、すりすりと顔を寄せて表情を溶かしていた。


 クールで一人でいるかと思えば気を許すと甘えてきたり、たまに構ってほしそうにしたりと、猫っぽいなぁなんて感想を抱きながら、庵は擦り寄ってくる明澄をふやかせる。


「俺も構いたがりだしなぁ。余計に明澄が甘えんぼに見えるんだよ」

「庵くんは甘やかし上手ですよね」

「明澄にしかしないからわからんけど」

「……でいいです」

「ん?」

「いえ……なんでもありません」


 何かを紡いだように思えたが聞こえなくて、庵が耳を寄せると明澄はふるふると頭を振る。


 聞こえなかったらならそれで、とついでに明澄が呟いていたが庵には真意は分からなかった。

 それよりも今は明澄のやわらかさやもちっとした感触を楽しむことにした。




「オフコラボをするにしても、まずは二人きりより澪璃さんを入れて様子見した方が良さそうですよね」

「となると、この家でやる方が楽だな。遅くなっても明澄の家に澪璃を泊めてやればいいし」


 ソファでのじゃれ付きもほどほどに、明澄は来たるオフコラボに向けての手筈を提示する。


 かんきつと氷菓の組み合わせなら、オフコラボをしても問題ないだろうしなんなら歓迎されるだろうが、彼女にも男とコラボして欲しくない熱烈な層や恋をしているファンもいる。


 この二年の配信から二人の仲の良さは、既にリスナーには十全に伝わっている。そういったファンは既に消えつつあるので大丈夫なはずだが、何があるかは分からない。


 二人とユニットのようになっている澪璃を挟むことによって、リスクを軽減する方が安心だ。

 澪璃もそのことには前向きらしく、先日相談した時も快く引き受けてくれていた。


「機材とか環境が揃ってる私の家でもいいですけど……」

「明澄の家か……」

「なんです? 嫌ですか?」

「嫌じゃないよ。というか入ってみたいくらい」

「え……?」


 あんまりにもまったりとした空間に浸りすぎていたせいか、庵の本音が漏れてしまった。

 男が女子の部屋に上がりたいだなんて、不埒に思われて仕方ない。


 きょとんした明澄は動きが止まりかけていて「あ、あの……あの」と上手く言葉に出せずに呻いて、仄かに頬を染めていた。

 ばかなことを言った、と庵は目元を抑えて唸り、気まずい雰囲気が場を支配し始めた。


 若干間が空いてから先に動いたのは明澄で、んんっと咳払いをして、庵の服を引っ張ってくる。

 なんだ? とそちらを見やれば、明澄は赤らめたその表情を逸らしながら、ただマグカップをちょんちょんと指差していた。


「えっと、なに?」

「マグカップの意味です」

「意味?」

「庵くんがホワイトデーに贈ってくれましたけど、贈り物としてのマグカップの意味を知ってますか?」

「いや、知らないけど」


 明澄がマグカップを指差す意味は分からないが、贈り物を選んだあの時の胡桃と奏太の様子を思い出す。

 

 それに、このタイミングで伝えてくるということは、バレンタインのお返しとして贈ったものだし、恐らく男女に関する意味合いがあるのだろう。


 何となく明澄の言わんとすることが分かってからは、顔に熱を感じ始めた。


「贈り物としてのマグカップの意味は、あなたと一緒にお茶を飲みたい、ということから転じて、あなたの部屋に上がりたいという意味なんです……よ?」


 顔を真っ赤にしながら伝えた明澄はすぐに目を逸らし、視線を泳がせたのだが、最後は潤んだ瞳で庵を上目遣いに見つめていた。


 察してはいたが、あまりにもストレートな意味に顔から火が出るような気分だった。

 ああっ……と項垂れた庵は、あの時笑ってこうなることを予見していた友人二人を恨んだ。


「悪かった。そういう意味は知らなくて」

「知ってます。あの時の庵くんはまったく分かってなさそうでしたし」


 やましい気持ちはない、と謝る庵に対して明澄は、ふふっと優しく微笑む。

 とりあえず不快にはさせてなかったようで、庵は安堵してほっと一息をつけた。


「それで、おうちに来ますか?」 


 一息ついていたのもつかの間。

 明澄は首を傾げておずおずと言ってきた。


 一瞬固まっていたところ「庵くんならいいですよ?」なんて付け加えられるのだからたまったものではない。


 それには本当に身体が動き出しそうになり「ああ。もう!」と、頭を掻きどうにか庵はその欲望を収めた。


「行きません。俺を獣にでもするつもりか?」

「そ、それは……っ」


 家に上がるのも上げるのも何が違うのか、と言われたらうまくは説明出来ない。

 けれど、恐らく彼女の部屋で明澄が甘えてきたり、際どい発言をしたら抑えられるなくなる自信が庵にはある。


「危ないぞ。ほんと」

「……はい」


 自制も兼ねて明澄に忠告すると、おろおろと消え入りそうな声で明澄が返事をする。その明澄の額をちょんと庵は人差し指の腹でつついた。

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