第111話 わがままと独占欲
ゆっくりとした時間を明澄と過ごしていると、いつの間にか昼下がりを迎えた。
これから二人でスタジオへ向かう予定で、玄関に庵が顔を出すとお出かけモードの明澄が待っていた。
昨日は放課後に一悶着あってバラバラに足を運んだが、今日は同じ家からの出発になる。一緒にのんびりしていたからか、ちょっとした午後のデートっぽさがあった。
「庵くん、戸締りは大丈夫です?」
「あとはここだけだな」
明澄が戸締りの確認をして、庵が家の鍵を閉める。二人で出掛ける時はすっかりこのやり取りがお約束だ。
言って、庵は履き替えた靴のつま先を地面にコンコン、と打ち当てて履き心地を整える。シューズボックスの上にある鏡で軽く身だしなみを整えてやれば、庵もまたお出かけモードになった。
「あ……、庵くん」
外に出ようと明澄の傍を庵は横切るのだが、ドアノブに手を掛けたところで、その袖口を明澄に掴まれる。
忘れ物でもしたか、と振り向けば少しばかり驚いた顔をする明澄がいた。
「なんかあった?」
「……庵くんから、いつもと違う匂いがしたので……」
「ん? あ、そうか。今日は香水付けてるし」
「あの前にリスナーさんから貰ったやつですか?」
「そうそう。いい匂いだったし、試しにな」
明澄が気に掛けたのは普段と違う庵のことだった。普段はシャンプーとか柔軟剤の香りくらいしか漂わせる事が少ないので、すぐに気がついたのだろう。
身なりには気を使うものの、庵は基本的には最低限しかしてこなかった。
それが何故、突然香水を付けているのかと言えば、気が向いたというのが半分。明澄と交際する事になった訳だし、隣を歩く男が適当なせいで明澄が悪く言われたりするのが、許せないのが半分だった。
今まで以上にお洒落に気を遣いたい、なんてお年頃な感覚も持ち合わせつつ、折角貰ったこともあって香水を付けてみたのだ。
明澄をびっくりさせてしまったらしいが。
「……急で驚きました」
「変だった?」
「……そんなことはないんですけど、なんか庵くんがどんどんかっこよくなっちゃうなあ、って」
袖を掴む明澄は、困ったように笑う。
ちょっぴり物憂げな雰囲気も混じらせるから、お気に召さなかったのかと勘違いしそうになるが、どうもそうでは無いらしい。
「それ、恋人補正入ってるぞ。あと何か困ることあったか?」
「恋人補正は当然入ります。入るのは当たり前じゃないですか。……困ってる方に関しては、独占欲の所為なんですよね」
「独占欲?」
「もっと、一緒にゆっくりしてたかったですし、今日はずっと二人きりがよかったなあって。それに、庵くんをみんなに見せたくないような気もしてて」
なるほど、顔を曇らせたのはそういう理由だったらしい。なんとも可愛らしいことを言う恋人だ、と庵はたまらず明澄を連れてリビングに引き返したくなるが、そこは堪えておく。
代わりに、遅刻するほど時間に余裕が無いこともないので、もうしばらくほどは明澄の好きにさせてやる事にした。
「タクシー呼べば間に合うし、堪能しとくか?」
「……じゃあ、遠慮なく、しちゃいます」
小さく明澄を迎え入れるように手を広げると、明澄は掴んだ袖を一度離してから庵の胸に手を添えながらぴたりとくっついてくる。
いい匂いです、と香りまで堪能する明澄の頭を優しく撫でてから、庵は抱き寄せるように背中に手を回した。
すっぽりと腕の中に収まった明澄は、弛緩した笑みでにへらとこちらを見上げてきた。
「はー……今日はスタジオに行きたくないです」
「俺は明澄の歌ってるとことか見たいなあ」
「私は庵くんをみんなに見せたくないんですけどね」
「じゃ、家にいるけど?」
「それも、や、です」
わがままだなあ、と庵が苦笑すれば「めんどくさくてごめんなさい」と、明澄が苦笑を返す。
付き合っているのだから、相手に焼きもちを焼くのは当然だし嫉妬もするものだろう。それを庵は嫌だとは思わないし、寧ろ嬉しいぐらいだから困りすらしなかった。
「めんどくさくないよ」
「ほんとですか?」
「めっちゃ可愛いくらい」
「……もう」
ぽとり、と明澄の耳元で本音を零したら、明澄が分かりやすく頬を色づかせて庵は胸に頭突きされた。
「そういうの、他の人にしちゃだめですからね?」
「しないよ。明澄以外にするとお思いですか?」
「思いません。けど、庵くんは無意識に甘い言葉をさらっと言いそうで怖いんですよねぇ」
「そんなつもりは無いんだけど……」
心配されるほどそんなイケメンに育っているつもりは無いのだが、明澄がわざわざ口にするほどだから余程なのかもしれない。
ちょっぴり明澄が不安げに口にした言葉は、とりあえず褒め言葉として受け取っておくのが吉だろう。
「だから、……みんなには庵くんと付き合ってますって言ってもいいですか? 私の庵くんですって、宣言しておきたいので」
交際報告をどうするかというのを、上目づかいで明澄が遠慮がちに尋ねてくる。
二人の間では、プライベートかつ氷菓とかんきつは切り離しているので、リスナーやファンに公表しないことは決まっている。
しかし、澪璃や葵など、今後深く長く付き合っていく人たちには、遅かれ早かれバレてしまうだろうから、変に勘繰られたりするよりは良いし、明澄の思惑もあるのなら庵は特に構わないつもりだ。
どのみち、学校に行けば嫌でも根掘り葉掘り群がられるだろうから、交際を隠したいと思うことは無かった。
「その辺の事は明澄に任せるよ」
「えっと、では今日会う人には話しちゃいますね」
「うん」
交友関係は大体が明澄から繋がっているので、知らせる範囲はおまかせでいいだろう。
「……やっと、堂々と庵くん大好きって言えます……」
すごく嬉しそうに小声で言いながら明澄が微笑む。
すり、と頬を胸に寄せてくる明澄の耳は赤くなっているのが窺えた。
柔らかい身体の感触とか、甘く香るミルクの匂いとか、とろとろにとけた笑みとか、間近で見せられると確かに独占したくなる。
今日くらいはずっと二人きりでいたいと思う気持ちが、庵の身にもひしひしと刻まれるようだった。
(心臓がどうにかなりそう……)
「そんなに言いたかったのか」
「……だって早く言わないと、誰かに取られちゃいそうでしたし」
「俺の事、明澄以外に欲しがるやついるかね」
「もう。庵くんは人の事はよく気付くのに、なんで自分の事はわからないんですか……」
お外に連れていくの不安です、と明澄が呆れるような声音で言う。
やや悩ましそうな表情をしたと思えば不満そうな顔もしつつ、明澄がシャツを握る強さも増した。
「そんなもんだと思うけどな」
「だったら庵くんがどんなに魅力的か、分からせてあげます」
「どうやって?」
「時間ぎりぎりまで、こうするんです」
そう口にした明澄は、胸に当てていた手を再び背中に回してきた。
ぎゅーっ、とこれまでで一番強く明澄に抱きしめられる。
ただでさえばくばくだった庵の心臓は更に更に鼓動を早めて、跳ねるように全身に熱を送り出していく。
やがて顔にまで届いた頃には、明澄もまた顔も耳も首筋も真っ赤に染め上げていた。
解放されたのは十分たった頃。
満足したのか、それとも時間が邪魔をしたのか。恐らくはその両方で、明澄はふやけた顔を銀色の髪の隙間から、覗かせる。
「……こ、これで、分かってくれました?」
「あー、うん……。よくわかりました」
悪戯っぽく言う明澄に庵はたじろぎながら答えた。
度々、呻きそうになるのを堪えながら抱きしめられていたから、うまく思考が働いていないが、明澄の言いたいことが存分に叩き込まれたのは間違いない。
頭が回っていないというかくらくらしていて、そんな庵の姿に明澄は上機嫌そうだった。
「とりあえず出ようか」
このままだと、色々とやられそうなので荷物を持って玄関の外に逃げるように出て行く。外ならああして甘えたり大胆だったりすることもないはずだ。
思惑は正しかったのか、明澄は心做しか寂しそうに庵の手の辺りを見つめていた。部屋の外だと、積極的だった聖女様も大人しくなるらしい。
ただ、揶揄う選択肢を取れるほど庵も先程の熱が冷めてはいなかった。
ほら、と庵が視線と手をさまよわせている明澄に手を差し出す。
「一緒がいいんだろ?」
「うん」
恥ずかしそうにしながらも頷いて、微笑を浮かべる明澄の手を握る。細く小さく滑らかな指と絡みあえば、腕に明澄が抱きつくように身を寄せてきた。
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