第2章 幕間

第110話 幸せの実感

 明澄と交際を始めた日の昼過ぎ、庵の部屋に明澄が顔を出したのだが、二人の間に微妙な空白が生まれていた。


 朝早くのあの後、睡眠を取るために明澄は部屋に戻り、庵もベッドに身を預けた。それから数時間後、再びいつものように庵の部屋で過ごしているのは、最早予定調和といえるだろう。


 しかし、今日はいつも通りではなかった。明澄がここへ来て庵の顔を見るなり照れてみせたのだ。

 ダウンフロアリビングへ降りる階段の手前で立ち止まった明澄は、ちらちらと躊躇いがちに庵を伺っていた。


(……俺がリードするべきなんだろうな)


 庵にとって男女交際とは、互いが対等なのは当たり前だし、相手を思いやれる関係でありたいと思っている。一方で、手を引けるのなら積極的にそうするべきでもあるとも考えていた。


 何より、折角付き合えたのにぎこちないのは勿体ない。恐らくだが、この空白はほんの些細なキッカケで埋まるものだ。


 愛らしくそこで恥じている恋人に、庵は小さく笑って手招きをした。


「明澄、おいで」


 優しく柔和な声音で明澄を呼ぶと「は、はい」とややぎこちなく返事をした明澄は、ソファで待っている庵の隣にやってきて静かに腰を下ろした。


 ようやく普段通りの感覚が戻ってきた。頬と耳を少しばかり紅潮させている明澄が可愛かったので、しばらく眺めさせてもらった。

 近くにあったクッションを手に取った明澄は、抱きしめるように抱えてちらりと見上げてくる。


 すると、庵の視線に気付いたらしい。穏やかに見守られていることにいたたまれなくなったようで、明澄は苦し紛れに「お、おはようございます……」と、この時間には似つかわしくないセリフを口にした。


「もうお昼だけどな」

「そ、そうでした……」


 窓の向こうはすっかりお天道様が登り切っていて、とても「おはようございます」とは言いづらい。庵や明澄のいる業界的に考えれば、ある種真っ当とも言えたりはするのだが。


「ずる休みしちゃいましたね」

「ちょっと罪悪感あるよな」


 今日は二人揃って学校を欠席した。

 夕方から明日の3Dライブの打ち合わせも予定しているし、翌日はライブ本番なので寝不足は解消しておきたかったのだ。


 本来休むのはライブ当日だけのはずだったが、幸せな計画の狂いが生じたため本日も休みとなった。庵はライブに直接出演しないので、明澄の休みにお供した形だ。


 きっと今頃学校にいる奏汰や胡桃たちの間では、登校していない二人のあらぬ噂が飛び交っていることだろう。


「まーなんつーか、明澄の反応は意外だった」

「だ、だって、庵くんと付き合う事になったんだなぁ、って思ったら嬉しくて、上手く感情を処理しきれなかったんです……」


 クッションに口元を埋めて明澄がもしょもしょと話しているが、庵も起きた際は夢ではないようにと祈ってしまったし、似た者同士なのだろう。


 好きな人と結ばれた得も言えない嬉しさをどう表現していいのかとか、恋人になってどんな風に接していいのかとか、戸惑うのも無理は無かった。


 庵だって分からないことだらけだし、きっとこれから少しずつ一緒に形作っていくことになるのだろう。

 戸惑いがやがて薄れて、二人で過ごすことや好きだと言い合えることが当たり前になれば嬉しい。


 同情やお返しに過ぎなかったお節介がいつしか相手を想うものへと変わり、画面越しに応援していた彼女と知り合ってそして好きになったように、やがて変化していくはずだ。


(あれ? これって……?)


 そこで、ふと庵の脳裏にある事が過ぎる。


「あのさ」

「なんでしょう?」

「これっていわゆるガチ恋ってやつか?」

「え?」


 突如浮かぶように思考に過ぎったものをそのまま呟くと、明澄は虚をつかれたらしく目を丸くして戸惑っていた。


 氷菓は生み出した側として思い入れが強いし、コンテンツとしても魅力的で面白くて堂々と好きだといえるのだが、恋愛経験ゼロで現実の女子にすら興味がなかったから、画面越しに恋心を抱くなんて想像すらした事は皆無だった。


 自分を氷菓のファンの一人だと庵は考えていたが、明澄と付き合った今、そうなのではないかと考え始めていた。


「いや、だって推しの中の人と付き合ってるわけだし」

「ああ……たしかに」


 きょとんとしていた明澄も庵の言う事に得心がいったらしく、ぽんと手を打つ。

 なのに、しばらくしてから明澄が「ん?」と首をひねり考え込むように、むぅーとクッションを見つめ出した。

 今度は逆に庵が戸惑うことになる。


「なんだかしっくり来ません」


 沈黙の世界に響いたその一言は、理論的に説明するのは難しいけれど分かる気もした。


 なぜだろうか、と庵が唸ってソファにもたれていると、膝に置いていた手に明澄が手を重ねてくる。

 少し驚きながらも庵は、重ねられた手を一瞥して視線を明澄の顔へと上昇させると、穏やかに緩んだ表情の明澄と目が合った。


「考えて分かったんですけどね。その、庵くんの言うガチ恋は多分違うのかなぁって。だ、だって私が、好きなのは、庵くんですし……」


 そっと明澄は頬を赤らめて告げる。

 それから、また静かな時間が訪れたのち、庵は大きくため息をついた。


「……俺、めちゃくちゃ勘違いしてたかもしれん」


 庵が想いを寄せているのは明澄で、氷菓は俗に言うライクであってラブではないというヤツである。

 中の人とかどうとかそもそも関係無い。

 氷菓を明澄の一部として見ているし、ガチ恋という分かりやすい答えのせいで混同していたのだろう。


 明澄と付き合えて舞い上がっていたせいもあるかもしれない。こんな当たり前のことを勘違いしていた事に庵は自己嫌悪しそうだった。


「……そ、それに、庵くんの気持ちが氷菓に向いていると思ったら、なんか……やです。う、うれしい、ですけど……違うというか、その、ですね?」

「うん」

「私と氷菓は別ですし、私にとってのかんきつ先生も庵くんとは別です。京氷菓はかんきつ先生に恋はしていないですもん。だからガチ恋は違う……と思います」


(普通に違うよなあ。俺はなにやってんだろう)


 大きな勘違いを恥ながら庵がため息をつく。自嘲気味に苦笑していると、明澄が袖先をちょいちょいと引っぱられた。

 再度顔を合わせると「つまり、ですね……?」と呟いた明澄が優しく唇をたわませた。


「水瀬明澄が朱鷺坂庵に恋をしているのですよ」


 甘さと熱と慈しみを含んだ優しい瞳が庵を見つめる。

 明澄の言葉はたちまち、すぅーっと庵の中へ溶けるように染み込んでいった。


「ごめんな。俺、変なこと言ってた。……嫌な気持ちにさせてたら謝るよ。付き合うとか好きになるとか、全然わかんなくてさ」

「そこは私も一緒ですから、気にしないでください」

「ありがとう。そう言って貰えると気が楽だよ。だけど、俺も好きなのは明澄だし、それは言っとく。……まぁだから、ガチ恋は明澄に、ってことで、ここはひとつよろしくお願いします」


 首を折るように庵が頭を下げれば「是非、そうしてくださいな」と明澄はにこりと微笑んだ。


 くてん、と庵の肩にもたれてきた明澄と、指と絡めるように手を握り合えば、さっきまでの空白を疑うまでに二人の間に隙間がなくなる。


「庵くん。好きですよ」


 少しして、隣から聞こえた囁きに庵は「俺も」と頷きながら、穏やかな幸せを実感するのだった。

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