第109話 Happy Birthday

「……いおりくん?」


 庵に抱き締められた明澄は、一瞬びくりと肩を震わせる。


 それから、優しく抱擁されていることに安心したらしい。次第に胸元で身を任せるように緊張を解いて、庵を覗き見上げた。


 ぱちぱちと驚いた様子で瞬いている、その千種色の瞳はしっとりと潤んでいるのが分かった。


(言わないと。もう遠回りなんてしたくないし、待たせたくない)


「……いいに決まってる。明澄は幸せになっていいんだ。というか、幸せになってもらわなきゃ困る」

「え?」

「俺は今日、明澄に幸せになって欲しかったんだ。だから、躊躇わなくていい。明澄は幸せになっていいんだよ」


 振り絞った声音で明澄に言い聞かせるように、明澄を包み込む腕に力を込める。

 今まで言えなかったことを伝わるまで何度でも、言葉にするつもりだ。


 その覚悟がしっかりと伝播したのか、明澄はおずおずと唇を小さく動かした。


「それって……その……」

「うん。本当に待たせてごめんな。明澄に先に言わせたことも本当に申し訳ない」

「……ふふっ、ほんとですよ。ずっと待ってたんですから。庵くんに振り向いて欲しくて、私すっごく頑張ってたんですよ」

「うっ」


 率直な想いの言葉に過ぎなかったのだろうが、庵にはぐさりと突き刺さった。

 待たせた自覚がある分だけ、深く。


「でも、なにか理由があるんですよね」

「ああ……明澄の誕生日である今日を少しでもいい日だと、幸せだと思って欲しかったんだ。でも、俺にはそうしてやれる自信がなくて怖かった。遅くなったのは俺の勝手だよ。ごめんな」


 庵はずっとこの想いを心の隅に抱えて今日を迎えた。


 どうしたら、明澄を満たしてあげられるんだろうとか、何かしてあげられることはないか、と悩んだこともあった。


 明澄の誕生日を祝う計画の初めは三月の事だが、告白しようだなんて考えてなかったし、単純に喜んで欲しかっただけだ。

 そこで、明澄の気持ちを確かめてから告白するつもりだったものの、巡り合わせや彼女の気持ちを早めに知ったこともあって、告白も今日に重なった。

 昨日の騒動と明澄の猛攻が駄目押しになったというのもあるが。


 勇気を出した明澄から好意を伝えられて、ようやく出来た決意だが、これ以上は情けない男になるわけにはいかないと庵は打ち明ける。


「……三月に明澄が家族とのことを話してくれただろ? 自分が嫌いだったとか、違う自分になりたかったって。それに、わざわざ氷菓の誕生日を一日だけずらしてたり、明澄はきっと自分の誕生日が好きじゃないんだろうなって考えたんだ」


 これまで明澄は、氷菓とは別人だ、ということを何度か強調していた。


 最近は配信回数を減らしているが、少しでも長く氷菓でいようとしていたり、聖女様なんてあだ名を気に入っていたのは、違う自分でいたいという欲求の表れだろう。


 それほど、自分に対して否定的な姿を明澄は見せてきていた。


「……別に誕生日は好きでも嫌いでもありません。私にとって、なんてことのない普通の日なのです。祝うことも嫌うこともない平凡な日常に過ぎないんですよ」


 明澄の口ぶりはとても冷たかった。

 言葉の端々に込められた冷たさは、怒りでも悲しみでもなく、ただどうでもいいという感情そのものだった。


 なのに、明澄は微かに寂しそうに眉を困らせて、静かに笑うのだ。


 生まれてこなかったら家族は幸せだったのではないか、とまで明澄が口にするほどだ。言葉とは裏腹に、彼女にとって誕生日とは否定したいものなのだろう。


 明澄を好きだからこそ、庵はそんな表情をさせたくない、と強く願ってしまう。

 どうか笑っていて欲しい、と三月のあの日にも願った想いが未だに燻り続けている。


「……これは俺の押し付けなのかもしれない。でも、俺は明澄に誕生日を必要ないだなんて思って欲しくないよ」

「どうして……どうして庵くんはそう言って下さるのですか?」


 依然として抱きしめられたままの明澄は、頬に触れながらか細く尋ねてきた。


 不思議そうに首を傾けつつ、かつ求めるような眼差しは何かを予期しているように見える。


 なら、期待には応えないといけないだろう。


「あのさ。俺のイラストを何度も本気で好きだ、って直接言ってくれたのは明澄が初めてなんだよ。それが嬉しかった。明澄の優しさにもどんどん惹かれたし、あの日、打ち明けてくれた寂しさや不安を無くしてあげたいと思ったんだ」

「……はい」

「もっと明澄のことを知りたかったし、俺の事も知って欲しくなった。都合のいい関係から先を求めたくなった。何より、好きな人には幸せでいて欲しいって願うようになったんだ」

「私を幸せに……」

「うん。初めはそうしてやれる自信はなかったけどな」


 明澄と触れ合う内に、今までは感じたことも考えたことも、夢想したことすら無い感情が庵を支配した。


 それはやがて明確な恋慕へと変わって、そして悩みにもなっていった。


「紳士的だとか、優しい人だとか、俺がいたから頑張れた、って明澄が言ってくれて、自分を見直すことが出来た。俺は自分のことを冷たいヤツだと思ってたけど、そうじゃないって思える様になったんだよ」


 庵は自分のことを味気のない、無関心で薄情な人間だと分析している、否――していた。

 それ故に、恋愛なんてしないと思っていたし、その先は非現実的だとして、突き放した。


 だけど、そんな考えを改めさせてくれたのは明澄だ。


「俺を変えてくれた人を、俺のアイデンティティであるイラストを心から好きだって言ってくれる人が、幸せじゃないのは悲しいんだ」

「それで、私に誕生日をいい日だと思って欲しいと」


 家族の愛情を受けられなかった彼女が、誕生日を好きになれない、幸せだと思えないのは当然だろう。


 全部エゴだと思う。誕生日を良い日にだとか、幸せになって欲しいとか、そんなのは勝手かもしれない。でも、庵はそれを押し通しても、明澄に笑っていて欲しいと願っている。

 

 生まれてこなかった方が家族が幸せだったなんて、そんな悲しいことを思わないでいられるようにしてあげたかった。


「迷惑だっただろうか?」

「そんなことはありませんっ」


 淡く笑って問うと、いつもは物静かな明澄が強めに否定を入れたので、庵は目を見張りながら驚いてしまった。


「好きな人にこんなに想って下さって、迷惑だなんて思うはずがありません」


 たじろいでいる庵に、ふるふるとかぶりを振った明澄が、優しく紡ぐ。


「庵くん。改めて言わせてください。……誕生日を祝ってくれて、幸せを願ってくれてありがとうございます。こんな素敵なことは初めてです。私は庵くんのことが愛おしくてたまりません」

「なら、安心して言えるよ。待たせて悪かった。好きだと言ってくれてありがとう――」


 再び明澄と目を合わせる。

 愛おしい、とはっきり伝えられたことに胸が高鳴る。信じられないほどに喜ぶ自分がそこにいた。


 庵が唇をしなわせると、彼女の身体にほんのりと力がこもる。


「明澄。俺は明澄に傍にいて欲しいし、このままずっと君の隣を歩いていたい。何より明澄と同じ時間を過ごすことが幸せです」

「……うん」


 明澄が自分を否定しなくていいように、配信や氷菓に逃げないでいいように、ずっとそばにいてあげたい。

 いつでも頼ってくれるような、安心してもらえる存在になりたい。


 だから、VTuberとイラストレーターだけの関係を、一方通行な想いを庵はここで終わらせる。


 もう躊躇わない。庵に躊躇うつもりはなかった。

 きっと人生で一度きりになるであろう勇気と覚悟を秘めて、庵は告げる。


「明澄が好きです……俺と付き合ってくれませんか」


 朱唇の動きが収まると、明澄の丸く明瞭に澄んだ千種色の瞳が、湿りを溜めその潤みで光った。


「……はい。喜んで」


 僅かに水分を含んだ微笑みと共に、明澄は声音に震えと喜色を乗せてこくりと頷いて、小さくても決して弱くはない返答が庵にたどり着いた頃には、明澄の手がより強く庵を掴まえていた。


 全身をぎゅっと明澄に抱き締められた庵は、互いに通った想いを離さないように、明澄の華奢な体を包み返す。


 やがて、庵の胸元に預けられた期待の色を浮かべていた明澄の表情は、もう満ち足りたものに変わっていた。


「これからはもう待たせない」

「私だって遠慮はしません」


 明澄に好きだという気持ちを一度吐露したら、留まることを知らないようにこぼれ落ちていく。

 大切で、愛おしくて、離したくない――と、明澄への焦がれが加速するようだった。


 言質取りましたからね? と多少のからかいを滲ませる明澄に耳打つように、庵は決意を落とす。


「ああ。二言も撤回もない。気の利いた言葉も用意はしたけど、ま、恥ずかしくて言えないし約束くらいはしないとな」

「そう言われると聞きたくなってしまいますね」

「意地悪だ……」


 言わないと駄目か? と庵が困り気味に一度手を離して離脱しようとしたが「隙を見せた庵くんが悪いのです」と明澄は許してはくれなかった。


「そうですねぇ。言ってくれたら、もっと好きになるかもしれません」


 ついでにやや悪戯っぽい笑みでそんなことを言われてしまっては、どうしようもない。

 思わぬ所で二度目を言わされることになって、庵は頬をかく。


 いつもの無邪気さを取り戻した明澄にはかないそうになかった。


「そ、それはずるいだろ……本当に駄目か?」

「駄目です」


 懇願するように尋ねたが、満面の笑みで明澄に一蹴される。


「はぁ……。いいか、一回しか言わないからな?」

「大丈夫です。一言一句聴き逃したりはしません」


 にっこりと微笑む明澄は目を伏せて、庵の口元に耳を寄せてくる。

 これは逃れられないな、と悟った庵はひとつ息を吸って小さく吐き出して――


「…………あ、明澄のことを、俺のその……オレンジの片割れだと思ってる。……これでどうだろうか?」

「オレンジの片割れ――なるほど。……ふふっ。確かにそれは庵くんらしいですね」


 海の向こうの言い回しが由来の言葉だったが、明澄の知識の範疇だったらしい。

 そこは聖女様らしく教養の高さを見せてくれた。


 そうして、たどたどしく口にしていた庵に、くすりと笑いながら明澄がもたれてくる。

 その身体の預け方は先程と同じなのに、どうしてか今までとは違うような気がした。


 遠慮なく密着してくる恋人の姿に、庵はこそばゆさを感じつつ、しっかりと明澄をもう一度抱き締め直す。


「二回言わせたんだから、覚悟してくれよ。俺は本気で明澄を幸せにするし、離すつもりはないから」

「……はい。私だって逃がしてあげませんからね」


 朝焼けが差し込むベッドの上。

 庵が甘さを含んだ誓いを囁けば、明澄は噛みしめるように言って、愛らしくとろけるような表情で微笑んだ。

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