第95話 聖女様の嬉しいこと

「あ、庵くん。おかえり、なさ……い?」


 自宅に戻ってきた庵がリビングに現れると、キッチンから明澄がエプロン姿で出迎えてくれた。

 今日は奏太と色々と出掛けていて遅めに帰ってきたこともあり、明澄は待ちわびたといった様子。夕食も既に出来ているようで、ちらとキッチンを覗くと、お皿には唐揚げが盛りつけられていた。


 やっと帰ってきた庵に初めは、ぱぁーっと明るい表情を見せたものの、すぐに庵の変化に気付いて明澄は、こてんと首を傾げていた。


「ただいま」

「髪、切ってきたんですね」


 美容院帰りということだけあって、庵の髪型や眉などはばっちり決まっている。普段の庵は長めの髪のせいで表情が分かりにくく暗めに見えるが、今日は髪を流したり梳いたお陰で男前に変身していた。


 ばっさり切ったわけではないので見違えるとまでは言わないまでも、印象はすごく良くなっているはずだ。

 そんな庵の姿に明澄は、僅かに見蕩れるように目を細めていた。


「何か変だろうか?」

「い、いえ、そんなことないです! すごく似合ってますっ」


 長めだった前髪は横に流したり短くしているから、どこか変かもしれないと不安だった。明澄がじっと見つめたり角度を変えて眺めているから、おかしかったかなとマイナスな思考が脳裏によぎる。


 庵が自嘲気味に笑うと、明澄はすぐさまぶんぶんっと首を振って否定してくれたので、庵の顔には安堵の笑みが浮かんだ。


「変じゃないなら良かった。もしそうだったらショックだったし」

「大丈夫ですよ。庵くんは元から、か、かっこいいので……」

「そうか。ありがとう」


 ちょっとだけ恥ずかしくなるようなセリフだったが、頑張った分嬉しくなる。言った明澄もほんのりと照れていた。


「でもなんで急に髪型を変えたんです?」

「んー、なんて言うか……今度、一緒に出掛けに行くだろ? その時、明澄の隣を歩いてもおかしくないようにって思って」

「……そ、そうでしたか。そんなことを考えていたんですね」

「意識し過ぎか?」

「ぜ、全然そんなことないですっ」


 ただのお出掛けに過ぎないかもしれないが、明澄を好いている庵にとっては大事なことなのだ。まず明澄に引かれることはなかったので安心しつつ、ほっと息を吐いた。


「その……すごく、嬉しいです」

「嬉しい?」

「だって、庵くんが私を尊重してくれてるってことじゃないですか。こんなに嬉しい事なんて他にないんですよ」

「そっか」


 胸元に手を当てる明澄は、庵をゆっくり見上げながら微笑むように甘い笑みを零す。そのとても柔らかな声音と表情は幸せそうで、思わず庵の頬も緩んだ。


 奏太に言われてのことだし、庵にとってはちょっとした気遣いのつもりだったから、そんなに嬉しかったんだ、と不思議な気持ちでもある。

 とりあえずは、奏太に感謝しておくべきだろう。


「それにしても、本当にかっこよくなっちゃいましたね」

「なんか、俺にかっこよくなって欲しくないみたいに聞こえるな」

「そ、そんなことはないんですけど、庵くんがかっこよくなっちゃったら……」

「なに?」

「な、なんでもないですっ……」


 はにかんだ明澄は指先で庵の髪に触れつつ、何かを言いかけたところで、微妙に赤らんだ頬を隠すように目を伏せる。

 今日はクッションがないので、ばっちり見えていた。


 こうして時折り見せる明澄の恥じらう仕草がたまらなく愛らしくて、庵の方が俯きたくなるくらいだ。


 学校だと絶対に見せない表情だと知っているから、恋愛感情なんて関係なしに庵の胸の鼓動は速くなる。

 徐々に全身が熱を帯びていくのが分かって、今はお互いに顔を合わせられなかった。


「あー、まぁなんて言うか」

「なんでしょう?」

「……遊びに行くの楽しみだな」


 このままだとずっと黙ってしまいそうで、庵は髪型の話題からすり替えた。

 思いつく話題がこれしかなくて、小学生の感想みたいだったが、明澄は目線を上げて「はい」と、今日一番の微笑みをたたえる。


 ここのところ忙しくて約束だったお出掛けも延期続きで、もう六月になっているから、楽しみが倍増しているのかもしれない。


 今から考えただけでいっぱいいっぱいになりそうだ。明澄も楽しみに思ってくれているのなら尚更だった。


「さて、晩御飯にしましょうか」

「だな。腹減った」

「手、洗ってきてくださいね」

「おう」


 いつまでも立ち話をしていても、ということだろう。明澄はにこりと笑うと、エプロンの紐をきゅっと結び直す。

 台所から匂い立つ唐揚げの香りが、庵の腹をぐぅーと鳴らさせた。


「あ、庵くん」

「ん?」

「……その、お出掛けの日、私も頑張りますね」


 言われた通り手を洗いに行こうとしたところ、明澄は庵にそう耳打ちをして、照れくさそうに笑いながらキッチンへと戻っていった。


「やっぱ反則だろ……」


 洗面所に向かう庵は、込み上げる熱を抑えながら小さく呻いた。

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