第90話 聖女様がぎゅっとする意味

 後ろから手を伸ばしてきた明澄に軽く身を寄せるように抱き着かれた。


 失言をしたと思った矢先だったから驚いて庵は固まってしまったけれど、明澄が甘えるように呟いたこともあって好きにさせている。


 明澄がこうした甘え方をするのは珍しいから、どうしたらいいのか悩んでいたというのもあった。

 少しの間、互いの体温を伝え合うように無言で過ごしていると、耳元で明澄の唇から声が漏れ始めた。


「……最近、忙しかったじゃないですか」

「ゴールデンウィークはずっとそうだったな」

「庵くんの初配信とか三人でのオフコラボとか。私すごく気を張ってたみたいなんです。コメントとかネットの書き込みとか良くないのもあって……」

「うん」


 庵のデビューとオフコラボは大成功と言って良かったし反響も良かった。その影で良くない言葉が僅かながらも飛び交っていたのも知っている。


 それを明澄は気にしていたらしい。ちょっと辛そうな口振りで、庵は胸が痛くなった。


「あと、学校で庵くんが話しかけてくれたりした時も、色々言われてたの知ってます。すごく気になってましたし、それでストレスが溜まってたのかもしれません」


 ゆっくりとした口調ながらも、明澄は言いたい事や思っていたことを吐き出す。


 庵が傷付いて欲しくないと、明澄が心配してくれていることは承知済みだ。最近はお互いに頼ったり甘えていたから和らいだと感じていたが、まだしこりのようなものが残っていたのかもしれない。


 それがこういうタイミングで発散する機会となったのだろう。

 明澄は胸の内を吐露できて楽になったのか、庵の肩に顎を乗せて身じろぎしつつ、甘く小さく息を吐いていた。


 いつもはこうしてくっつかれると、大なり小なり欲が駆り立てられるのだが、今日はすごく落ち着く気分だ。

 庵にしても明澄にしても、こんな風に楽に出来る相手がいるのはすごく幸せな事だろう。


 ハグやキスをするだけで心が和らぐと聞く。緩めのハグではあるけれど、確かにストレスが消えていくのを感じていた。


「明澄。あんまり気にし過ぎなくていいからな?」

「……無理です」

「えぇ……無理って」


 ふるふる首を振った明澄はきっぱりと告げる。


「庵くんみたいに優しくて、私に良くしてくれる人なんてそう簡単に見つかりっこありません……そんな庵くんに嫌な思いをして欲しくない、って思うのは当然じゃないですか」

「そっか」

「配信者になってから私は誰かを喜ばせたいとよく思います。素敵な人には素敵なことが訪れて欲しいのです。私に良くしてくれるあなたに何かしてあげられたのなら嬉しいのですよ。庵くんが綺麗だとか幸せだって言ってくれたのが嬉しくて、離れないで、って思ってしまうんです」


 つい手を伸ばしちゃいました、と口にする明澄を横目で見ると、恥ずかしそうに笑っていた。

 ふと目が合って、きっと緩みきっている自分の表情を見られるのが恥ずかしくなり、庵はパッと顔を逸らしてしまったが、勿体なかったと後悔する。


 でも、もう一度見る勇気はなくて、代わりに明澄の手に触れておく。今はそれだけ。


「だからこそ、庵くんがどこかへ行ってしまわないように、こうしているのです」


 怖いんですよ、と僅かに腕の力を込めて寂しげに告げてくる明澄がとても愛おしかった。

 同時に明澄も同じ気持ちだったらいいな、と思いつつ明澄の気持ちの正体へまた近づいていく。


 明澄が自分を必要としてくれる理由は、きっと助け合いと慰め以外の何かにある。

 お互いに気付きつつあるけれど、今はまだ口にするのが怖くて、この甘くて気楽に気兼ねなく身を委ねられる関係に終止符を打てないでいた。


 誰かさんたちからしたら、ヘタレと笑われるだろうか。でももう少しだけこのままでいたいというのは二人の見解でもあるのだ。


「……あのさ、どこかに行かないか心配なのは俺も一緒だ」

「庵くんも一緒なんですね」

「ああ。だから、こっちからいなくなることは無いから、不安がらずにいてくれていいんだぞ」


 言うのは恥ずかしかったけれど、明澄を安心させてやれるならと、庵は内心をさらけ出して、肩口に顔を寄せる明澄を撫でる。


 庵だって出来ることならずっとそばにいて欲しいと思っている。

 居なくならないで欲しいのはこっちの方なのだ。明澄を撫でる手はいつもよりゆっくりとしていて、この時間を堪能するように手を上下させる。


 そうすると、庵の温かくて心強い言葉と掌は明澄を癒せたらしい。明澄はへにゃりと口角を綻ばせて、愛らしい微笑みを浮かべていた。


「ちょっと話は変わるけどな」

「なんです?」

「連休あとに出かける約束あったろ? ……それ、週明けにでも行こうか。あとオフコラボとかもしような」

「……うん」


 自分が離れていくことは無い、と証明を兼ねて庵が改めていつかの約束を口にすると、明澄は肩の上で嬉しそうに頷いた。


「それで、安心できるか?」

「ばっちりです。幸せ過ぎるくらいです。でももうちょっとだけ……」

「はいよ」


 噛み締めるように言いながら明澄は、三度身体を寄せてきて甘える。


 そんな明澄からの小さな好意を確認した庵は、回された腕に手を重ねていた。

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